炙り出し
重たい玄関の扉を開け、忍は誰もいない部屋に戻って来た。涙はすでに止まっているが目と鼻はまだ赤く、顔はうつむき明らかに落ち込んでいる。左手には探丸から渡された紙と留め具の割れたブラを一緒に握っていた。
菱を踏んで転んだり新品同様のブラを壊されたりと散々な目にあった忍だったが、今うなだれてトボトボ歩いている理由はそれらと別の所にあった。
ペタペタ歩いてキッチンに立ち、右手でコンロのスイッチをいれて火をつける。今はちょうどお昼時だが、別に忍は今からご飯を作ろうってワケではない。では火をつけて何をするのかといえば、左手に握っていたうちのブラを床に落とし、三つ折りの紙を両手で広げて火に翳したではないか。
するとヨレヨレの白紙だった紙に、じわじわと煤けたような黒い文字が浮き上がってきた。
実はこの紙、全くの白紙というワケではなかった。火で炙ると浮き出るよう墨汁でもインクでもなく、なんとミカンの汁で文字が書き記してあったのだ。
探丸から紙を受け取った時に白紙に気付いた忍が匂いを嗅いだのは、つまりそういう事だったのである。柑橘系の匂いでこれが炙り出しの類であると気付き、その凝ったやり方がふざけているようで頭にきたのだ。
さて忍は火を消し炙り出しによって浮き出た文字を読む。その内容は奇しくも賢太郎とのお出掛けで行く予定だった枕タワーへの招待状だった。しかし午後10時は入場時刻を過ぎているはずで、展望デッキの屋上という場所も立ち入り禁止のはずだった。まぁ確かに人目につかないといえば確かにこれ以上人目につかない場所はないと思うが。
明かりも点けていない薄暗い部屋で、忍は紙をジッと見詰め立っている。思い悩むような顔で何を考えているのかといえば、驚いたことに忍は賢太郎を助けに行くべきかどうかを悩んでいるのであった。
本来なら誰がなんと言おうと助けに行くところであるが、忍は1つの事をずっと気にかけていた。それは賢太郎と顔を合わせた日からずっと気にしていた事だった。その疑念が今日、とうとう無視できないほどにまで大きくなったのだ。
賢太郎は忍の事をどう思っているのか。
もちろん恋愛感情の事ではない。忍は自分が必要とされているのかが気になっていた。
賢太郎がそういう事を口にするのが苦手なのは知っているし、それを承知していたからこそ以前の探丸のお節介な質問にも答えなくて良いとは言った。
しかし、もし賢太郎が忍を疎ましく思っていて、それも黙っているとしたら。
誠心誠意尽くしているつもりだが、どうにも賢太郎が心を開いてくれている気がしない。よくよく考えると、まず第一印象がよくなかったような気もしてくる。口上やら決めポーズなどやらずちゃっちゃと助けるべきだっただろうか。いやそれよりも許可もとらず鍵を開けたり部屋を片付けたりと勝手な振舞いが不味かっただろうか。それとも渾身の束子ギャグが滑ったのが悪かったか。いやその後押し倒すような形になってしまったのが……。
考えだせばキリがない。賢太郎のためを思ってやっていたことが全て裏目に出ているような気がした。今日だって賢太郎が出不精なのを知っていてお出掛けを持ちかけたのだ。一日中部屋にいては気が滅入るし、出歩けば見聞も広まると思ったのだ。なにより賢太郎自身が休日を毎回退屈そうに過ごしていたのだ。
賢太郎に忍の事をどう思っているか聞いたところで、曖昧な答えしか返ってこないのは分かっている。「嫌いではない」だとか「普通」だとか、そうやってハッキリした物言いを徹底的に避けるのだ。賢太郎は自分の意見を圧し殺す癖があるのだ。
だから例えば「忍は不要か」と聞いたところで、本音がどうであろうと「そんなことないよ」と返ってくるのは分かっている。その相手を気遣って本音を隠した物言いが、余計に相手の不安を煽ることを賢太郎は知らない。
忍はそのまま腰を下ろしコンロ台の前に座りこんだ。なんだか立っているのが億劫だった。今までやってきた事が全て徒労だったように思える。
膝の上に落ちた水滴が自分の涙だと知って、忍はのろのろ手をあげて目元を拭った。
賢太郎は拐われている間に一度も、忍に助けを求めなかった。
そのことが、どうしても頭から離れなかった。
さて一方その頃、囚われの身となった賢太郎。いったい今どこにいるのかというと、
「牛丼並のお客様」
「あ、はい俺です」
牛丼屋である。昼時でそこそこ賑わう店で、賢太郎探丸お姉さんの三人がテーブル席についている。
壁際に座る賢太郎の前に牛丼が置かれる。
「それで足りんのか? 若いんだからガンガン食えよ」
正面に座る探丸が隣の椅子の背もたれに腕を乗っけて言った。サングラスは掛けたままである。
「奢るって言うからどこかと思ったら牛丼屋ねぇ」
探丸の斜め向かい、つまり賢太郎の隣に座るお姉さんが退屈そうに厨房の方を眺めている。牛丼屋はあまりお気に召さなかったようだ。
「牛丼の何が悪いんだよ。安くて美味い。牛丼はまさに庶民の味方だろうが」
「カレーライス大盛りの方ー」
おう、と探丸が軽く手をあげる。
「なら牛丼頼みなさいよ」
お姉さんの言う通りである。
テーブルに置かれたカレーを食べようとした探丸が、賢太郎がまだ自分の牛丼に手をつけていない事に気付いた。
「ん? どうしたんだ賢太郎くん。遠慮せず食え食え」
「そうよ賢太郎くん。こんな奴に遠慮したって良いことないんだから。なんなら満漢全席やっちゃいなさいよ」
できるかアホ、と探丸。
二人に促されてようやく「あ、すいませんいただきます」と牛丼を食べ始める賢太郎。どう考えても探丸とお姉さんに遠慮する必要などないのだが、それでも一番安いものを注文したり品が出揃うのを待とうとしたりどうにも小心者である。まぁこんな状況なので食が進まないのも事実ではあるが。
マグロ牛丼という妙な組み合わせの品がお姉さんのもとに到着する。
探丸が顔をしかめる。
「今だから言うけどお前よくそんなもん頼んだな」
これが一番高かったのよ、とお姉さん。
「それより賢太郎くん、どうなの? 忍ちゃんとは」
え、と唐突な質問に箸をとめる賢太郎。
「いや別にどうって別に……」
別にって事はないだろ、と探丸。
「どうせ二人でイチャイチャしてんだろ?」
「してませんよ」
忍が一方的に構ってくるのをイチャイチャというならイチャイチャかも知れないが、恐らく探丸の想像してそうな恋人同士のイチャイチャとは大分違うだろうと思う。だいたいそんな甘ったるい雰囲気になろうものなら賢太郎は照れ臭くって拒絶したり誤魔化したりするヘタレなのだ。おまけに忍本人もアプローチはすれど答えを求めないという一見矛盾したようなスタンスをとっているので、そんな二人の関係どうのこうのが進展するなどなかなか難しい話なのである。
しかし探丸は、またまた、とからかうように言ってスプーンをくわえたまま口許に下品な笑みを浮かべた。
「どうせ夜は『俺の股間が体気硬』とかやってんだろ?」
体気硬が何かはいまいちよく分からなかったが、隣で聞いてたお姉さんが「死ね」と呟いたのでやはり下ネタらしい。
賢太郎は誤魔化すように牛丼を口に運びながら答える。
「別に、普通ですよ。ていうか何で俺拐われたんですか?」
これ不味い、と顔をしかめるお姉さんを鼻で笑う探丸が言うには
「いやまぁ俺の用件はこれだけなんだけどな」
らしい。これには流石に賢太郎も呆れてしまう。
「……じゃあもう帰って良いですか?」
ダメよ、とお姉さんが困ったような顔でマグロ牛丼を箸でつつきながら言う。牛丼にマグロの叩きといういかにも合わなそうな物をよく注文したものだ。というか何故こんなものが売ってあるのか。
「このバカは賢太郎くんと忍ちゃんの仲をハッキリさせたいだけらしいけど、私はリベンジが目的だから」
忍に手も足も出なかったことを根にもっているらしい。
「はぁ……そうですか」
正直また戦っても同じ結果なんじゃないかなぁと思う。
「この間は負けちゃったけどぉ……」
お姉さんが横からズイっと顔を近付けて続ける。
「次は私に有利な環境でやるから負けないわよー」
と言いながらこっそり箸でチャッチャと賢太郎の牛丼に何やらのせている。というかよく見るとお姉さんは自分のマグロの叩きをこっちに移しているではないか。
「あ、ちょっと何やってるんですか。やめてくださいよ自分で注文したんだから自分で食べてくださいよああ牛肉とらないでくださいよダメですダメです」
あっはっは、と探丸が声を出して笑う。
でもねぇ、とお姉さん。マグロを賢太郎に押し付けたは良いが今度は先にかけてしまったワサビ醤油に苦戦している。こればっかりは今さら取り除けない。
「私も賢太郎くんの草食っぷりはどうかと思うのよ。あれだけ忍ちゃんアプローチしてたのに、まだ好きとも嫌いとも言ってあげてないんでしょ?」
賢太郎は仕方なくマグロ牛丼と化したものを食べる。うげ、不味い。
「……別に良いじゃないですか。忍が言わなくて良いって言ってるんですから」
そうじゃなくてよ、といつの間にかカレーを食べ終えている探丸が言う。
「問題は賢太郎くん自身がどう思っているのか、って話なんだよ」
そうソレよ、とお姉さん。
探丸が続ける。
「ぶっちゃけようぜ賢太郎くん。好きだろ?」
ドッ、と賢太郎は自分の顔が熱くなるのを感じた。しかし動揺を見せまいと泳ぎそうになる視線を牛丼に固定して答える。
「いや別に好きとか嫌いとか……」
わざと牛肉を一切れだけ口に運んで言葉を濁す。
「嫌いなの?」
お姉さんの質問に探丸が答える。
「んなワケないだろ。あんな美少女を嫌いになるヤツがどこの世界にいるんだよ」
アンタには聞いてないわよ、とお姉さん。
「で、どうなの賢太郎くん?」
賢太郎は箸でマグロをつつきながら、やっぱり不味いなぁ、と無理矢理違うことを考えながら答える。
「嫌いじゃない……ですけど」
「けど、なによ?」
「いや別に……」
ハッキリしない男である。
「よし、質問を変えよう」
探丸がズイっと前のめりに言った。サングラスなのでよくわからないが賢太郎はジッと見られているようの気がして目をそらす。
「例えばだ賢太郎くん。もし忍ちゃんがいなくなるとしたら、どう思う?」
どう思うもなにも、そんなの嫌に決ま
「別に……ちゃんとした理由があるなら、仕方ないんじゃないですか」
賢太郎は今、自分が自分を圧し殺したのを感じた。本音とは違うことを言っている。
お姉さんが呆れたように言う。
「仕方ない、じゃなくて、賢太郎くんはどう思うの?」
「嫌なんだろ?」
探丸の言葉に賢太郎は
「嫌……なんじゃないですか」
と他人事のように答えた。
「んなー!」
探丸が呆れたような声をあげてのけぞった。お姉さんも困ったように、うーん、と唸る。
なんだなんだ別に良いじゃないか放っといてくれよ。
賢太郎は責められてるような居心地の悪さを感じた。箸を持ったまま丼を持ったまま固まっている。
「別に、関係ないじゃないですか」
それはそうなんだけどね、とお姉さん。
探丸はまた前のめりに言う。
「じゃあ忍ちゃん俺がもらっても良いか?」
「は?」
賢太郎が反射的に顔をしかめると、探丸はニヤリと笑った。
「お? 怒ったか?」
完全になめられているのがわかって賢太郎は内心ムカついた。
しかしそれもまた圧し殺して
「別に怒ってませんよ。忍に聞いたら良いじゃないですか」
まぁ怒ってるのはバレバレなのだが。
「賢太郎くん、そんなこと言ってると本当にとられちゃうわよ?」
このバカ本気よ、と言うお姉さん。
賢太郎は箸と丼を置いて腰を上げた。
「すいませんトイレ行きます」
あまりに居心地が悪い。お姉さんに一旦通路に出てもらって席を離れトイレに向かう。その間も探丸がサングラスの奥からこっちを見ているような気がした。
トイレの洗面台、鏡の前でうなだれて溜め息をつく。罪悪感のようなものが胸に溜まって苦しかった。
いつから自分は本音を隠すようになったのか。
開き直って本音を言った方が楽になれると思ってはいるが、どうしてもそれが出来ない。
昔からそうなのだ。多数に合わせ、長いものに巻かれてきた。ずっと昔、小学生になるよりももっと小さい頃、誰かに言われた言葉が原因だと思う。しかし、それがわかったところで、今さらどうしようもない事のような気もした。
いいじゃないか。これだって個性じゃないか。
顔をあげて鏡を見る。自分の顔が消えていくような気がした。
普通の子で良いんだ。本音を言って変な子と思われるより、皆と同じ普通の子でいたいんだ。
それなのに探丸とお姉さんは、賢太郎の本音を炙り出そうとしている。しかし炙られても炙られても、賢太郎は本音を口にすることを怖れた。結局のところ、臆病なのだ。
そして賢太郎は、そんな自分が、誰よりも嫌いだった。
「……帰りたい」
俯いて呟く。
早く忍が助けに来ないかな、なんて事を思った。
さて今回はここまで。
探丸とお姉さんがずいぶんとお節介だが、この二人はそんなに暇なのだろうか。
それにしてもこの主人公は本当にウジウジした奴である。作者も書いていてイライラしたのでもうコイツはよっぽどである。どう考えても不評だが今後の展開で評価が上がったりするのだろうか。
なんか無理なような気がするなぁ。
それはともかく次回も似たような話がもうちょっと続く。
次回『忍が知ってる賢太郎のこと』
乞うご期待!
.




