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リーマンショック殺人事件(二)  作者: 松島 圭(本名・成尾五邦)
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女コロンボ・久美の参戦

 リーマンショック殺人事件(二)


  第二章 女コロンボ・久美の参戦


  1


 牧山は、竹添を伴って、改めて、シグマ自動車工業の大南工場に出向いた。

 指示された時間に応接室に入ると、久美が待っていて、後から薗田伸吾が現れた。牧山は、捜査に民間人が同席する形は避けたかったが、久美がいると、父親の伸吾が協力的な態度を見せるので、結局、最後まで、久美に座をはずしてくれとは言えなかった。

 久美は、牧山や竹添がいるときは、大南署にも顔を見せるようになった。

 久美は、牧山のことを、おじさん、時には、おじさま、と呼ぶ。そのことが署内に知れ渡ると、牧山は、大方の署員たちに、たちまち、おじさん、と呼ばれるようになった。警部補としてはなんともまらない呼称だが、牧山は意に介していない。

 竹添康則は二十八歳、身長百七十五、六センチ、柔道三段、剣道も三段、体型ががっちりしていて、がに股気味に歩く。ややイケ面系だが、どちらかと言えば、ごっつい風貌をしている。県警本部から派遣されてきたのは有能さを買われてのことらしいが、そのイメージとはほど遠い。

 刑事防犯課長の水之浦芳輝みずのうらよしてるは、牧山より年下の四十代前半、刑事畑には珍しく、中肉中背の官僚タイプ、縁なし眼鏡の馬面うまづらだ。 水之浦は、自意識が強く、めったなことでは、捜査方針を変えたり、自説を曲げたりしない。しかし、捜査が進展しない状況に、最近は、さすがに、それも影を潜めていた。

 署長で捜査本部長を兼ねている大川政嗣おおかわまさつぐは、『OL殺人事件』のガイシャの妹が来ていると聞いて、署長室に連れて来てもらえんか、と言った。捜査が進展していない状況をガイシャの身内がどう思っているか、それとなく聞いてみたい、という意味のことを牧山に言ったらしいが、大義名分はどうでもよくて、要するに、久美の美貌が署内で評判になっていたので、久美に会ってみたいと思ったようだ。

 久美が、牧山に伴われて、署長室に向かうと、水之浦と竹添がついて来た。

 中に入ると、正面の署長席に顔も体も大きい制服姿の男が座っていた。久美に顔を向けるや、相好を崩して、席を立って来た。

 久美が緊張していると、署長が、

 「ほーう、これは、また、聞きしに勝る眉目麗みめうるわしきお嬢さんですな」

 と、ご大層たいそうめ言葉を使ったので、久美は赤くなって、うつむいた。

 署長に応接セットのソファーの中央に座るように勧められて、久美は、両膝にきちんと両手を置いて、行儀よく座った。

 署長も、大きな尻を久美の斜め前の肘掛け椅子に押し込んだ。

 水之浦が署長の左隣の肘掛け椅子に座ったので、牧山と竹添は、久美を挟んで、ソファーの左と右に座る形になった。

 「いや、失礼しました。事件が未解決で、面目次第もありません」

 大川は、早速、そう言った。久美を一人前に扱うつもりでいることがわかる。それに、率直な人柄のようだ。

 「いえ、懸命に捜査を続けてくださっていることは、よくわかっておりますわ」

 久美も、そう返さざるを得ない。

 大川は、黒目がちの涼しげな目に見つめられて、面映おもはゆげに、半白の頭をかいた。左右の目尻と白髪交じりの眉毛の端が垂れていて、それがいかつく見える大川の顔貌を和らげている。久美は、大川に親しみを感じて、思わず微笑を浮かべた。

 大川は、姿勢を正して、威厳を取り戻すと、左隣に座っている課長の水之浦に顔を向けて、唐突な感じで、こう言った。

 「いろいろ方面ところから風当たりが強い。全国注視の事件の解明が未だにできていないんだから、当然のことだろうがね」

 水之浦が、驚いて、戸惑ったような顔を大川に向けた。民間人の、ましてやガイシャの身内の久美がいるところで、話題にすべきことではないと思ったようだ。

 大川は、構わずに、続けた。

 「事件直後、マスコミの過熱ぶりは異常だった。なにしろ、殺されたのが、このお嬢さんのような大変な美人だったからね。テレビが毎日のように特番を組み、新聞も大きな見出しで、連日、書き立てた。週刊誌が派手に騒ぐのは想定内だったがね。ガイシャの母親の鉄道事故は後追い自殺で、明らかに殺人の二次被害だと決めつけて、特番まで組んだテレビ局や、特集記事を連載した新聞もあった。県警本部長も、何度か、記者会見に引っ張り出された。警察に対する期待の裏返しだろうと思うようにしているが、それにしても、由々《ゆゆ》しい事態だ。これほど世間注視の事件が、わが管内で起こり、それが未解決なんだからね」

 水之浦は、他ならぬ捜査本部長である署長に、話題が守秘義務に抵触しそうだから話題を変えてくれとは言えなかったようで、

 「・・・署長もよくご存知の通り、広範にわたる不審者の捜査に加えて、ガイシャ・・・失礼・・・薗田恵美、さんの友人、知人、会社関係者など、この方面の捜査に、人員も時間も、大変な・・・・」

 と、言い訳めいたことを言い始めた。

 大川は、苦笑を浮かべて、水之浦を制した。

 「そんなことは、今さら、言わんでもいいことだろう・・・君が珍しくそんな言い訳から始めたところをみると、別に何か言いたいことがあるんじゃないの?」

 水之浦も、結局、本筋の話をするしかなくなった。

 「・・・実は・・・ガイシャ・・・薗田恵美、さんのお父さん、つまり、薗田伸吾氏の会社関係の方面が、ほとんど・・・」

 「・・・端折はしょらんで言ってくれ」

 「事件が起こった頃、シグマは期間従業員の雇い止めや派遣社員切りの最中で、薗田伸吾氏はシグマ自動車工業大南支社の人事部門の責任者、ガイシャは薗田伸吾氏の身内、こういうことが、われわれの関心を引きました。従って、この線にもしかるべき人員を投入しました。しかし、当初の捜査方針がご承知のような流れになり、そっちの方面の捜査で手一杯になると、こっちの方は、実質的には、ほとんど・・・」

 「わかった。もういい。そういう流れになったことは承知している」

 と、大川は、また、水之浦を制しておいて、急に思いついたように、

 「・・・ロッカーの爆破事件も未解決だが、こっちの方は、会社を解雇された者が関わっているという方針ことで一貫していたな」

 と、矛先ほこさきを変えた。

 「・・・その方は、始業五、六分前という、ロッカーを使う従業員が最も多い時間帯をねらって爆発が起こった、爆発物を仕掛けてあった場所が予備のロッカーの中、侵入したらしい場所が資材保管棟から工場に通じる入り組んだところにある小さなサッシ窓、監視カメラや警報装置の位置、夜間警備員の巡回時間や巡回経路を知っていたとしか思えない、こういうことが判明しまして、工場内の事情に極めて詳しい者の犯行であることが明白でした。従って、捜査の方針も・・・」

 「そっちの方は、その方針で、警察の威信をかけて、捜査中なんだが・・・このお嬢さんのお姉さんの事件の方も・・・当初の見込みが間違っていたとは思いたくないが・・・時間と労力をこれだけ注ぎ込んで、徹底した捜査を続けているにもかかわらず、未だに犯人がつかまってないとなると・・・」

 と、大川が言いかけると、水之浦が、途中で、唐突に牧山に話を振った。

 「牧山さん・・・薗田さんが、直接、解雇の場面に立ち会った者の中に、気になる者がいたということでしたね?」

 水之浦は、ガイシャの身内の前で捜査の内情を漏らすことに抵抗があるようで、そのため、大川の意図を先取りすると同時に、急遽、牧山に下駄を預けてしまうことにしたのだろう。そうでなければ、捜査方針の変更を自分のせいにしたくなかったのかもしれない。

 牧山は、久美の協力もあって、父親の伸吾から情報を得ていた。それに、久美も聞いていたことなので、久美の前で、最新の捜査情報を漏らすことに躊躇ためらいはない。

 牧山は、背広の内ポケットから、黒い表紙が擦り切れて、ところどころ白くなった部厚い手帳を取り出した。

 「非常事態だったということもあるのでしょう。薗田さんが直々《じきじき》に立ち合った雇い止めや解雇の言い渡しの場面がかなりあったようです。薗田さんも通告には心が痛んだようですが、状況が状況で、会社の方針ですから、雇い止めや解雇の線は譲れません。通告を受けた者は、他に就職先しごとさきが見つかりそうもない状況の中で放り出されることになるわけですから、内心、穏やかだったはずがありません。当然のことでしょうが、気色けしきばんでいる者がいたということです」


   2


 「その中で、薗田さんが名前を挙げた者が二人います」

 牧山は、そう言いながら、手帳の中ほどから、折りたたんだ紙を一枚抜き出した。広げると、A4版くらいの大きさの紙になった。

 牧山は、それを大川に渡しておいて、改めて、話を進めた。

 「薗田さんは、この二人について、次のようなことを話しました。

 一人は、尾形恵一という派遣社員です。大学の電気工学科を出ていて、電気と機械の知識が豊富で、生産ラインに加わった上に、保守点検の仕事をしていたそうです。

 勤務期間は一年半ほどしかなかったそうなんですが、職場の上司の評価が高く、薗田さんも目をかけていて、時には仕事以外のことでも、相談に乗るようなことがあったようです。

 そういう事情こともあって、派遣切りを言い渡すことになった時は、薗田さんが、直接、通告することにしたようです。薗田さんが、事情を説明して、その件を切り出すと、尾形は、ひどい衝撃を受けて、顔色がみるみる変わったそうです。尾形は、なんとかならないか、妻と幼い子ども二人を連れて来ている、ここを解雇くびになると、このご時世では、派遣先の会社に戻ったところで、仕事があるとは思えない、などと、涙声で訴えていたかと思うと、唐突に床に土下座して、助けてください、お願いします、と、何度も頭を下げて、最後は床に頭をこすりつけるようにして、泣き出したそうです。

 薗田さんは、その後のその場のやり取りは、あまり話したくない様子でしたが、尾形が出て行く時の薗田さんの描写はなしが、別れ際の尾形の心理状態を表していて、参考になります。いきなり立ち上がって、入り口の近くにあった高価な彫刻を蹴倒して、応接室を飛び出し、外に出てから、ドアを足で乱暴に蹴飛ばしたので、ドアが壊れたんじゃないかと、薗田さんは思ったそうです」

 大川は、身を乗り出すようにして聞いていたが、ここで、一旦、話を引き取った。

 「事情ははわからんでもないが、ちょっと異常だな、逆上の仕方が・・・そんな様子じゃ、その後、何もなかったとは思えんのだが・・・尾形の方から、その後、薗田さんに接触して来るようなことはなかったのかね?」

 「いや、薗田さんに念を押して確認しましたが、その後は、現在に至るまで、何もなかったそうです」

 「どうも、わからん男だな。・・・それにしても、尾形は一昔ひとむかし前の大卒だろう。事情がどうあれ、そう簡単に、人を殺すようなことまでするとは思えんのだが・・・」

 大川は、そう言いながら、牧山に渡されていた紙に目を落とした。

 「もう一人が、久山俊彦ひさやまとしひこ、ということだね?」

 「ひさやま、じゃなくて、くやま、ですが、久山くやまは、そのメモにもある通り、元々は季節労働者です。実直な模範工員を絵に描いたような男で、雇用の延長が繰り返され、八年近くも大南工場で働いていたということです。解雇されたのは十一月の中旬頃だったそうですが、それから二ヶ月近くって、夜、と言っても、冬の暮れ方、薗田さんの自宅にやって来たそうです。復職の懇願に来たわけです。ホームレスになって、東京にいる、大晦日おおみそかから正月にかけて、派遣切り支援のテント村の世話になって、飢えをしのいだ、郷里には病気がちの妻と学校に通っている息子と娘がいる、自分の仕送りを頼りにしているが、仕事が見つからない、このままでは家族も自分も生きていけない、なんとか、また、工場で働かせてもらえないか・・・そんな意味のことを薗田さんに訴えたそうです。

 大量解雇がさらに加速していた時期ですから、薗田さんにも力の貸しようがない。その上、久山の風体や態度が異常だったこともあって、結局、家の中にも入れず、車庫の前で追い返してしまったそうです。

 薗田さんは、久山のことを気にしていて、事件が起こった頃、捜査陣に久山のことを話しています。従って、被疑者の一人になっていたわけです。しかし、この男には、死体の運搬手段がない、共犯者になりそうな者もいない、そういうことが判明して、この男にこの犯行は不可能だということになり・・・」  

 「それで、早い段階で、被疑者のリストから外した、そういうことだったな・・・失態だったかもしれんな」

 感情をあまり表に出さない牧山が、唇を噛んでいる。

 大川は、牧山に目をやってから、また、メモに目を落とした。

 「・・・久山は・・・四十七歳か。このご時世じゃ、他でも、仕事は見つからなかったはずだ・・・それにしても、分別がありそうな年齢としだし、それに、実直な人柄で、仕事ぶりも真面目だったということになると、あんな風に残酷に人を殺すような事件を起こすとは思えんが・・・死後の暴行とも、どうも、結びつかんような気がする。われわれの描いた犯人像とかけ離れていたし、被疑者のリストから外したのは、わからんでもない」

 大川は、牧山ら第一線の捜査陣をかばうつもりで、こういう言い方をしたのだろう。

 大川は、さらに、考え考え、こう続けた。

 「・・・しかし、最近起こっている殺傷事件の犯人は、男だろうが、女だろうが、年齢にも学歴にも関係がないようなところがある・・・世相が異常になってるってことだろうな・・・それに、久山が性的に欲求不満の固まりになっていなかったとも言い切れんし・・・」

 苛々《いらいら》した様子を見せていた水之浦が、

 「それで、結局、どうしろって言うんですか」

 と、遠慮のない言い方をした。

 大川は、一瞬、面食らったようだが、すぐに、

 「・・・ああだ、こうだ、と、迷ってちゃいかんな。理屈は後からついてくる。汗を流して、足を棒にして、徹底的に動くことだ。警察の捜査は、昔も今も、これしかない、そうでなくっちゃいかん」

 と、言った。久美は、大川の、時代がかっているが、部下の苦言や献言を容認するふところの深さを垣間かいま見たような気がした。

 大川は、ちょっと考えてから、続けた。

 「・・・当初の方針で犯人が挙がらんということになれば、改めて、捜査をし直さなきゃいかんということになる。・・・しかし、この線は、やっかいだぞ。この二人以外にも、何食わぬ顔で解雇通告を受けていながら、心の中には、煮えくりかえるような怒りを持った者も、当然、いただろう。そういう者の方が、こういう犯罪ことをしでかす可能性が高かったかもしれん」

 久美は、この署長は柔軟な考え方をする、その通りかもしれない、と思った。

 牧山が、すぐに、反論した。

 「それはわかりますが、なにしろ、解雇された者の数は半端はんぱじゃありません。ある程度、捜査対象を絞ってかからなければ、たとえ初動態勢並みの人員を投入したとしても、雲をつかむような捜査ことになるでしょう」

 「君が、珍しく、そんな引いた言い方をするところをみると、何か考えてることがあるんじゃないのかね?」

 「・・・実は、改めてわかったことですが、二人のうちの一人、久山俊彦は薗田さんのお嬢さんを見てるんです」

 「えっ! 久山が・・・このお嬢さんじゃなくて、ガイシャ、つまり、お姉さんの薗田恵美・・・さん、と面識があったと言うの?」

 「面識があったというほどじゃありませんが、薗田さんが久山と自宅の車庫の前で立ち話をしている時、ちょうど恵美さんが帰って来て、久山と顔を合わせたそうなんです」

 「ほう、それは聞き捨てならんな。大南に現れた時期といい・・・それにしても、そんな重要な情報が、なんで、今ごろになって出て来るんだ。おかしいじゃないか」

 牧山は、また、唇を噛んだ。言い分があっても、言い訳がましいことは言わない男だ。

 大川は、言い過ぎたと思ったのか、こう言った。

 「まあ、いい。われわれは無駄なことをしてきたわけじゃない。被疑者の一人が再浮上してきたに過ぎん。この男を含めて、当人ではなく、その身内を殺そうと思い、それを実行するほどの者がいなかったか、Σ《シグマ》を雇い止めされたり解雇された者を捜査し直す必要が出てきたということだ。県警本部にも加わってもらって、改めて、捜査会議を・・・」 

 顔を紅潮させて聞いていた水之浦が、大川の言葉が終わらないうちに、結論めいたことを言った。

 「捜査員を総動員して、尾形や久山以外の者も、所在を突きとめて、毛髪とか体液の付着した物とか、なんとか理由をつけて、提供させて、DNAの鑑定に回しましょう。提供を拒否する者がいたら、別の方面から洗えばいい。捜査対象者がかなり絞られることになるでしょう」

 水之浦も、結局、久美がこの場にいたことの意義を認めたことになる。

 大川は、改めて、久美に顔を向けた。苦笑いを浮かべている。行きがかりで、そうなったとは言え、守秘義務どころか、久美の前で、内情をさらけ出してしまうことになったことに忸怩じくじたる思いがあったのだろう。

 「お聞きの通りで・・・これまでの捜査状況を含めて、われわれを不甲斐ないと思われたかもしれませんが・・・犯人は、きっと、捕まえます。少なくとも、捜査を投げ出すようなことはしません。署長室にも、また、いつでも、お顔を見せてください。こう見えて、コーヒーくらいはサービスできますよ」

 署長が珍しいことを言うものだと思ったのか、竹添が片頬だけ笑った。



  第三章 派遣社員



 二〇〇七年四月、尾形恵一は、東京の派遣会社に登録されている派遣社員として、Σ《シグマ》自動車工業の大南工場で働き始めた。

 三十六歳になっていた。

 Σ《シグマ》の大南工場で働けるのは三年間ということだったが、Σは世界有数の大企業で、世界市場への自動車の輸出が、年々、数十万台規模で増大しており、国内需要も堅調で安定していた。

 尾形は、Σ自動車工業のような一流企業で正社員に登用されることを、ひそかに、ねらっていた。

 それまでの派遣先で引き留められ経験ことが一度や二度ではなかったので、Σでも、仕事ぶりが評価されれば、雇用が延長され、正社員に登用される可能性があると考えていた。

 尾形は、工場の近くに二DKの賃貸アパートを借りて、家族ぐるみで引っ越して来た。

 家族ぐるみと言っても、長男の隆一は三歳になったばかり、次男の秀二は生後三ヶ月、妻の悦子は乳飲ちのみ子を抱いて大南市へやってきた。

 三十歳になったばかりの悦子は、どちらかと言えば、痩せぎすの虚弱体質で、手のかかる幼児と、首もわらない乳飲み子の世話でやつれていた。

 入社式の日、派遣社員を代表して、挨拶に立ったのが、尾形だった。

 年齢が一番上だという理由で、挨拶をさせられたのだが、新卒の正社員代表の挨拶が短く紋切り型だったのに対して、尾形のスピーチは違っていた。

 「みなさま、こんばんは。今回、大南工場にお世話になることになりました尾形恵一という者でございます。当工場が世界の超一流企業・シグマの屋台骨を支えている中核の工場であることをよく承知しております。派遣社員とは言え、偉大なシグマに対する熱い思いは、どなたにもひけを取らないと自負しております。

 私ごとで恐縮ですが、私は妻と幼い子ども二人を引き連れて大南にまいりました。すぐに首になるのに、思い切ったことをするものだとお笑いになるかもしれません。しかし、シグマで働けるのであれば、短期間であっても、腰を据えて、しっかりした仕事をしようと覚悟を決めてまいったということでございます。このようなところで仕事ををさせていただくということは、長年の念願であり、夢でございました。このような機会を与えていただいたことに、心から感謝しております。同時に辞令をいただいた他の方々の思いも同じであろうと確信しております。精一杯仕事に励みます。他の新入派遣社員ともども、どうか、よろしくお願い申し上げます」

 人事管理部長の薗田伸吾は、入社式の時の尾形の挨拶スピーチの内容を覚えていた。Σ一筋に生きてきた者のプライドを満足させ、自尊心をくすぐるような内容のものだったからだろう。薗田は、尾形の家庭事情を覚えていて、折に触れて、親しく声をかけてくれた。

尾形は、電気工学を専攻していたので、組み立て機械の保守点検が本来の仕事だった。派遣会社から提示された仕事の内容もそうなっていた。

 しかし、派遣社員に機械の保守点検という大事な仕事を任せるほど、シグマの工場内の体制は甘くなかった。保守点検の仕事は、平常は、正社員で足りていた。

 尾形の仕事内容とされていた保守点検というのは名ばかりで、すぐに、組み立てラインの一員としての仕事を割り当てられ、ほどなく、それだけになった。組み立てラインで働いていると、残業する機会が多かったので、尾形は、それを不満に思わなかった。

 いくつもの派遣先を経験していたので、シグマであっても、派遣社員の給与では、目一杯働いて、残業代を加えても、親子四人の生活はかつかつになることがわかっていた。

 子育てに協力しなければいけないと思いながらも、残業を志願し、夜遅く帰宅したり、深夜勤務のシフトに就いたりした。

 工場で仕事を始めてから二ヶ月くらい経った頃、ある日、生産ラインの一隅で仕事をしていた尾形のところへ、工場主任の一人、恒松つねまつがやって来た。

 「尾形君、向こうのアームの動きがおかしいんだ。ちょっと見てみてくれないか。今日は、あいにく、堀越君も河合君も来てないようなんだ」

 「この前も、ちょっと、おかしくなったところですね」

 「そう。あのアームは、時々《ちょくちょく》、おかしくなるんだ」

 「・・・わかりました。見てみましょう。・・・一時的にラインを止めることになりますが、いいですか?」

 「・・・仕方がないだろう。・・・時間がかかりそうかね?」

 恒松は、この男にまかせて大丈夫だろうか、という顔をしている。

 「・・・いや、そう時間はかからないと思いますよ」

 尾形は、そのロボットアームだけ動きがおかしいということは、アーム内か、その取り付け部分の配線関係に問題があって、電流が均等に流れていない可能性があると思ったので、自信はなかったが、恒松に請け合った。

 点検してみると、アーム内の、修理時に取り替えたビニール被膜の細線のサイズが、従来のものと少し違っていた。

 通常は、そのサイズでも、アームの動きに支障はないはずなのだが、尾形は従来のサイズのものに取り替えてみようと思った。電流の流れが微妙に違って、アームの動きが遅くなったり速くなったりしていると思ったのだ。

 資材管理棟に行って、従来の細線を見つけて、取り替えることにした。

 生産ラインを止めた上での修復だったので、そのラインの作業員全員に見守れた中での作業になった。

 尾形は安請やすうけ合いしたことを後悔した。

 こんな簡単なことでうまくいくだろうか、と思った。

 もしかすると、線と線との接続部分に問題があるかもしれないと思ったので、細線全体を取り替えることにした。

 尾形は冷や汗をかいていた。

 取り替えが終わって、祈るような気持ちで、アームを動かしてみた。動きがスムーズになって、他のアームと区別がつかない。

 「お、直ったね」

 恒松が喜んだ。

 翌日、出て来た堀越が、尾形のところへわざわざやって来た。

 「尾形さん、ご迷惑をかけました。前回の修理時にも、ああすべきだったかもしれません」

 堀越は、尾形より年下だが、一流大学の工学部出身で、シグマの正社員の中でも、技術系のエリート社員だった。

 尾形は、これで自信を持った。

 周囲も信頼してくれて、大きな修復も任されるようになった。そんな作業の試行錯誤の過程で、少しくらい失敗があっても、大目に見てくれた。

 一年も経つと、尾形の保守点検の仕事の的確さと生産ラインの一員としての精勤ぶりの双方を上司が認めてくれて、周辺の仕事で機械がからんだトラブルが起こったりすると、正社員を飛び越えて、尾形に相談するようなことも度重たびかさなるようになった。尾形は工場内にいることが多く、便利だったからだ。

 人事管理部長の薗田が、立ち話だったが、派遣期限が切れたら延長を考えよう、と言ってくれたことがあった。

 三年間の派遣期間が延長されるということは、常雇いの正社員に登用されることを意味していた。



 尾形が大南支社で仕事をするようになってから、一年半が経過した。

 世界的金融危機による不況の波が、安定して、ゆるぎない経営をしていると思われていたΣ自動車工業にも襲いかかってきた。

 海外市場が急激に冷え込み、国内需要が落ち込み、先行き不透明で、明るいきざしが見えなくなっていた。

 シグマも生産台数を急速に減らし始めた。

 当然、人減ひとべらしが始まった。

 大勢いた期間従業員が雇い止めになり、続いて、派遣社員の大量解雇が始まった。

 この最初の段階では、尾形への派遣切りの通告はなかった。

 しかし、残業がなくなった。

 その上、いくつかの生産ラインが止まり、仕事がない日が増え、月収が激減した。

 正常に働いて、残業代を加えても、かつかつの生活だった。

 中古だったが、七月に車を買い換えたばかりだった。

 家賃、子育ての経費、など、最低限必要な支払いがとどこおるようになり、悦子は、パートの仕事を探して働くと口癖のように言い始めたが、隆一は四歳半、秀二は二歳になっていない、悦子自身も体調がいいとは言えず、悦子にパートの仕事ができるとは思えなかった。

 仕事が午前中に終わってしまい、アパートに帰ると、悦子が台所に座り込んでいて、両手で顔を覆い、肩を震わせて、泣いている。

 悦子が六畳間の畳に顔を伏せて、痩せた肩を震わせながら、泣きじゃくっている傍らで、幼児二人が不安げに泣きわめいている日もあった。

 尾形は、シグマを解雇されない限り、いつか勤務が正常に戻り、残業も復活し、かつかつであれ生活はできる、正社員登用への道も残されている、と思っていた。

 二〇〇八年十二月末、尾形は人事管理部の応接室へ行くように、との指示を受けた。

 年が押し詰まり、十二月も末の金曜日だった。

 人事管理部に隣接した広い応接室は、シグマ大南工場の場合、一流企業の顔のような役割を持たせてある。豪華な応接セット、調度品、壁面に飾られている絵画、部屋の周囲に置いてある彫刻など、全て一流品だ。シグマの代表的な歴代製造車のレプリカも陳列されていた。

 ここに招き入れられると、尾形ならずとも、特別扱いを受けているような気分になる。

 中央の応接セットの右側の肘掛け椅子に、人事管理部長の薗田伸吾が座っていた。

 尾形は、薗田の前に行くと、直立不動の姿勢になって、頭を下げた。

 「ま、座ってください」

 薗田に促されて、その向かい側のソファーに腰を下ろしたが、薗田の顔に、尾形に声をかけるときにいつも見せていた笑顔がない。

 「尾形君・・・早速だが・・・このことは・・・私から君に直接お願いすることにしたんだが・・・単刀直入に言わせてもらう、申し訳ないが、契約先の会社にもどってもらうことになった」

 尾形は、驚愕して、目を見開いた。

 呼び出したのが薗田で、応接室に招き入れられた気分も悪くなかったので、何か別のことだろうと思い込んでいた。

 「えっ・・・! そんな!」

 「申し訳ない・・・私の苦衷くちゅうを察してほしい」

 尾形は眼を見開いたまま、しばらく、呆然としていた。

 尾形の頭の中には、三年契約の途中だという先入観がある。少なからず工場に貢献しているはずだという自負がある。少しくらい不況になっても、Σ自動車工業は不沈空母で、不死鳥のような企業だ。

 尾形は、突然、腰を上げて、ソファーの横に体を移すと、土下座した。

 「お願いします! なんとか助けてください! お願いします!」

 床に頭をこすりつけるようにして、泣き声を出した。

 「今でも、残業がなくなり、その上、就業時間が減らされて・・・ 解雇となったら生きていけません。首をくくれって、言うんですか!」

 薗田は、大の男に土下座して泣かれることになって、あわてた。 

 椅子から立ってきて、尾形の両脇に両手を入れて、立ち上がらせながら、なだめるように言った。

 「ま、座ってください・・・落ち着いて話しましょう」

 ソファーに座ってからも、尾形の興奮は収まらない。

 「契約は三年じゃないですか。まだ、一年以上も残ってる!」

 尾形に権利を主張されて、薗田の言葉が他人行儀になった。

 「あなたが契約しているのは東京の人材派遣会社です。三年というのは、そことわが社の暫定的な申し合わせであって、あなたがわが社と契約しているわけではありません」

 「そんな! 責任逃のがれじゃありませんか」

 「あなたにもわかってると思いますが、シーズンで働いていた方々は全て郷里に帰っていただいた。人材派遣会社からの、いわゆる、派遣社員の方々も、ほぼ、帰っていただいた。正社員の就業時間も削減され・・・」

 「そんなこと言われても・・・。人を雇う立場として、派遣会社ばかりでなく、当然、シグマにも責任があるはずでしょう」

 会社の責任を持ち出されて、薗田の表情が変わった。

 「それは、あなたの立場で、言うべきことじゃない。会社は必死に経営努力をしてるんです」

 「誤魔化さないでくださいよ! それは当たり前のことじゃないですか。シグマの責任が、それでなくなるわけじゃないでしょう」 

 「わが社の立場としては、これは解雇ではないのです。先ほども言った通り、あなたが契約している派遣会社に帰ってください、と言ってるんです。法的には、何の不都合もないことです」

 「派遣社員の弱い立場につけ込んで、法的なことを持ち出すのは、卑劣じゃないですか」

 薗田は、卑劣、と言われて、むっとした。それで気持ちが吹っ切れたのか、それまでの説得口調をがらりと変えた。

 「申し訳ないが、ここであなたに申し上げていることは、お願いではなく、会社の決定です」

 言葉は丁寧だが、言った内容は取り付く島のないものだった。

 本社から指示されているのは派遣社員切りのノルマだけだ。

 その業務達成のことで、眠れない夜が続いている。

 尾形には、そんな薗田の事情はわからない。

 尾形の言葉が、急に荒くなって、怒声をびた。

 「派遣会社に帰ったら、職があるとでも思ってるのか!」

 「そこまで、わが社で責任は負うことはできません」

 「なにっ! 妻も子どもも連れて来てるんだ!」

 「それは、あなたの事情であって、わが社が責任を負うことではない!」

 いつもの尾形からは想像もできない乱暴な言葉遣いに、薗田も、つい、声を荒げた。言わずもがなの突き放すような言葉だった。日頃は温厚な薗田も、冷静さを失っってしまっていたようだ。

 尾形は目の前が真っ黒になった。

 痩せた肩を震わせて泣きじゃくっている悦子、その傍らで泣きわめいている隆一と秀二、尾形の顔から血の気が引いた。

 尾形は、突然、憤然として立ち上がると、戸口の近くにあった高価な彫刻を蹴倒して、応接室を走り出るや、足でドアを乱暴に蹴飛ばしたので、ドアが枠に叩きつけられて、ものすごい音がした。



  第四章 期間工            



 二〇〇八年十二月末。

 久山俊彦はホームレス状態になっていた。

 久山は、八年前、三十九歳の時、鹿児島県に妻子を残して、赴任旅費や入社準備金をもらって、単身で大南市にやって来た。

 久山は、いわゆる「季節」労働者ではなくなっていた。

 一途で真面目な仕事ぶりが評価されて、期間工の身分のまま、雇用の延長が繰り返されてきた。

 シグマ全体の業績が好調だったこともあって、仕事に慣れた期間工の雇用を打ち切るマイナス面が考慮されて、久山のような長期雇用の期間従業員が生まれることになったのだろう。

 大南工場で働いていた八年近くの間、社員寮に寝泊まりし、給与天引きで寮や会社の食堂で食べていられたので、手元に残す金は月に三万円、うち五千円は帰省のための旅費に積み立て、残りは全て仕送りに回していた。

毎年、年末から正月にかけて帰省することだけを楽しみに働き続けてきたと言ってよい。

 久山は四十七歳になっていた。

 妻の照江は四十六歳、小さかった子供たちも、現在、長男の浩一は高校二年生、長女の美由紀は中学三年生になっている。

 久山は農業機械の資金稼ぎのために期間工に出たのだが、結局、家族の生活は久山の仕送りがなければ成り立たなくなっていた。

 照江は、わずかの田畑で農業を続けていたが、過労が重なったせいか、最近、体調がすぐれず、寝たり起きたりするような日が増えている、そんな便りが届くようになっていた。久山は、大南工場で仕事を続けるしかない、改めて、そう覚悟を決めていた。

 その矢先に、雇い止めの通告を受けた。

 期間従業員として雇用された者に対する雇い止め通告は有無を言わさぬ厳しいものだった。

 久山も例外扱いされることはなかった。

 大南工場を解雇された時、久山の選択肢は二つしかなかった。

 郷里に帰ってわずかな田畑で農業をするか、都会に残って他に仕事を見つけて仕送りを続けるか。

 子どもたちの教育費がかさみ始めていることを考えると、郷里に帰ることは論外で、出稼ぎを続けるしかないと思った。

 大南周辺は、エリア全体が不況風にさらされていて、シグマ関連企業のみならず、下請けや孫受け、その他の企業の失業者があふれ始めていて、よほど特殊な技術や能力でもない限り、仕事が見つかるような状況にはなかった。

 十一月末にΣ自動車大南工場を解雇され、社員寮を一週間以内に引き払うように言われて、わずかな家具を二束三文で売り払ったり、捨てたりして、当てもなく東京に出てきた。

 超巨大都市の東京に出れば、何か仕事が見つかるかも知れないと思ったからだ。

 久山の所持品は、ボストンバッグに詰めるだけ詰めて、二,三着の着替えと、わずかな下着類と、簡単な洗面道具だけだった。

 最初の二十日間くらいは、安宿を転々としながら、仕事を探し歩いた。

 ボストンバッグを処分し、背負いヒモのついた大きめのナップザックに変えて、持ち歩くようになっていた。

 ナップザックを背負って、タウンページの電話帳でハローワークを探しては、めぐり歩いた。

 北区、江東区、台東区、葛飾区、大田区、など、下町の工場街を、足を棒にして歩き回った。

 年齢もさることながら、定住するところもなければ、身元保証人もいない、自動車の生産ラインで働いていたので、つぶしの利く技術や資格を持っているわけでもなかった。

 小さな町工場にずと入っていって、仕事をさせてくれと懇願しても、門前払い同然に、断られたり、追い払われたりした。

 十一月の給料は、中旬に雇い止めになったので、日割りで計算されて支給されたもので、少額だった。これと帰省用に貯めていたわずかな金を手元に残して、職探しをするしかなかった。年末に帰省するどころか、正月を迎える年越し資金の仕送りもできなかったが、照江には、少しは蓄えがあるはずだから、贅沢さえしなければ、当面は大丈夫だろうと思った。

 久山は、仕事がすぐに見つかると思っていたので、工場を解雇されたことは照江に伝えていなかった。

 最初は、当たり前のホテルや旅館を足場にして職探しをしていたが、たちまち、ネットカフェなどで夜を過ごさざるを得なくなった。そんなわずかな持ち金も底を突き始め、大南を出てから着たきりの防寒着で寒さに耐えて、都内各所の公園で過ごしたり、地下道で過ごしたりし始めた。年末が近づく頃には、空腹に耐えかねて、コンビニ店のゴミ箱をあさるほどになっていた。

 大晦日おおみそかに、急遽、日比谷公園に『派遣切り年越し支援村』が開設された。久山は、その日の午後も遅くなった頃、ホームレス仲間に教えられて、そのことを知った。

 久山にとっては、まさに、干天に慈雨、地獄に仏、のタイミングだった。

 こんな親切な人々がこの世の中にいるのか、と信じられない思いで、炊き出しの世話になった。

 一月五日、テント村が撤去されて、都内の別の場所に移るとの広報が伝えられた。

 久山は、ベンチに座ったまま、動けなかった。

 数日間でも、寝泊まりできる場所を提供された上に、炊き出しで飢えをしのげたことはありがたかった。しかし、先の見通しが立たなかった。根本的な問題は何も解決していなかった。人々の一時的な情けにすがって生きていけるわけではないという思いがあった。自分一人の露命をつなげばいいという立場でもなかった。

 久山は、解雇を言い渡された時のことを思い出していた。

 井口係長に解雇を言い渡された時、久山にしては珍しく気色けしきばんだ様子を露骨に見せて、座ったまま、動かずにいた。

 すると、井口が、こう言った。

 「あなたが八年近くの間、当社の工場で働いておられたのは、異例中の異例です。もっと早くお辞めになっていてもよかったのです。期間従業員として来ていただいた方々は、雇い止めは法的に問題はないのです。雇用の更新は会社側がお願いする、事情によっては、途中で打ち切る、そういう条件で働いていただいていたことはよくわかっておられたはずです」

 井口は、殊更ことさら、丁寧な言葉を使った。

 『解雇』という言葉を使わずに、『雇い止め』と言った。

 久山には、法的なことは皆目わからないので、反論のしようがない。

 郷里の家庭事情を訴えることもできず、井口を睨みつけたまま、黙っているしかなかった。

 井口は、久山の態度にごうやしたらしい。

 「申し訳ありませんが、社員寮も一週間以内に、出てください」

 言葉遣いは丁寧だが、言った内容は冷酷だった。

 久山の『雇い止め』言い渡しの時は、人事管理部の部長・薗田伸吾も井口の右隣に座っていた。

 久山は、八年近く、大南工場で働いていた。

 当然、正社員の扱いになっていなければならない。

 久山に訴訟でもされたら、会社に勝ち目はない。

 久山に法律の知識があるとは思えず、その可能性はゼロに近かったが、それを見極みきわめたいと思って、同席していたのである。

 薗田は、さすがに見かねたのか、口を出した。

 「何か困ったことや相談したいことがあったら、会社に訪ねて来てください」

 久山は、困ったことと言えば、会社を解雇されること以外に何があるんだ、と思ったが、人事管理部のお偉方が三人も並んで座っていて、取り付く島は全くないと観念せざるを得なかった。

薗田は、その場を収めるために、深く考えもしないで口を滑らしたのだろうが、追い詰められた末の久山には千金の重みを持っていた。そういう重みを持った言葉として、闇夜の中の一本の松明たいまつのように、久山の頭によみがえってきたのだ。

 久山は、大南市に帰って復職を懇願すれば、薗田がなんとかしてくれるかもしれないと思った。

 そのためには、難題があった。大南市へ帰る旅費の工面をしなければならなかった。

 派遣切り支援活動には、全国から義捐金ぎえんきんが寄せられていた。 支援村が開設されていた時期、さらに、その次の支援村が開設されていた時期に、しかるべきルートを通して申請すれば、義捐金の中から旅費が支給されたかもしれなかった。

 しかし、久山は、そんなことは知らなかった。そんな発想は頭の片隅にもなかったと言うべきか。

 久山は、テント村が撤去されてからも、日比谷公園に残った。

 派遣支援村は全国的に知られるようになっていて、支援村跡にいると、差し入れに現れる人々がいた。 

 差し入れをしてくれるような人々は、例外なく親切で、善意にあふれているように見えた。

 今後の生活や職探しなどについても親身に相談に乗ってやろうとする人もいたが、久山は、年末にかけて、二ヶ月近く、厳しい体験をしていたので、仕事先が見つかるとは考えていなかった。

 頭の中に唯一あったのは、差し入れをしてくれる人々の中に、旅費を出してくれる人がいるかもしれない、という期待おもいだった。



 年越し支援村が撤去されてから、一週間ほど経った。

 差し入れに現れる人々も、日毎に、減っていた。

 旅費のことを持ち出す相手に出会う機会などなかった。

 たとえ、そんな機会があったしても、口に出せるようなことではなかった。

 久山は、その日も、午後も遅くなった頃、空腹をかかえて、公園の片隅のベンチに、頭を抱えるようにして、座っていた。

 髭面ひげづら、伸びた頭髪、くたびれた防寒着。 傍目はためにも、飢えて、望みを失った派遣切りかホームレスに見えたはずだ。

 一人の青年が、久山に近づいて来て、大丈夫ですか、と声をかけた。

 久山は、無精髭ぶしょうひげの伸びた顔を物憂ものうげに上げて、上目遣いの眼を向けた。

 青年は、長身の体に濃紺のダウンジャケットを羽織っていて、いかにも今時の若者という恰好と風貌をしていた。

 久山が戸惑っていると、青年が、何か、困ってることがあるんじゃありませんか、と言った。

 通常ただの通りすがりの若者の言葉とは思えなかった。

 かしこそうで、端正な顔立ちをしている。それに、言葉遣いが丁寧で、久山に向けている眼差まなざしが優しかった。

 久山は、非常識な頼みを、口に出してみる気になった。

 久山は、思い切って、

 「こんなことてよかか・・・」

 と、言いかけたが、さすがに後の言葉が続かない。

 「えっ・・・? おっしゃってください。お手伝いすることが何かあるんじゃないかと思って、ここに来たんですから・・・」

 やはり、通常ただの通りすがりの若者の言葉ではなかった。

 久山は、唐突に、左手首に巻いていた腕時計をはずし始めた。

 「・・・・この時計を預けもんで、電車賃を貸してくいやらんですか」

 「えっ! どういうことですか? 電車賃、って・・・どこまでの?」

 「大南まで行っつもイでおります」

 「大南? R県の大南市ですか?」

 「・・・・はい」

 「なんで、大南市まで? 郷里に帰るんですか?」

 「いや・・・二ヶ月ほど前まで、シグマの大南工場で働いておいもした」

 「シグマ? シグマ自動車ですか、あの大企業の?」

 「大企業かどうかわかりませんが、そこを解雇くびないもした」

 「なるほど・・・それで、大南に帰って、どうするつもりなんですか?」

 「またやとてくれち、頼んつもりでおります」

 「解雇が最近のようですから、再雇用それは難しいんじゃありませんか? 二ヶ月前より情勢がよくなってるとは思えないのですが・・・何か、あてでもあるんですか?」

 「大南工場の人事管理部長に目をかけてもらっておいもしたで、そん部長に頼めば、なんとかしてくれる、ち、思っております」

 「それで・・・なんとかなりそうなんですか?」

 久山にも自信はない。

 その前に、旅費がなければ、どうにもならない。

 久山は自分が置かれている状況を話し始めた。

 鹿児島が郷里で、その郷里では、自分が出稼ぎに出た後、妻が一人でわずかな田畑で農業を続けていたのだが、ここ数年、体調を崩して、寝たり起きたりしている、高二の息子と中三の娘もいる、自分の仕送りだけを頼りにしている、解雇くびになったままでいるわけにはいかない・・・

 青年は、鹿児島訛なまりの訥々《とつとつ》とした話に耳を傾けていたが、話の途中で、ダウンジャケットのポケットを探り始めた。

 黒革の中折れの財布を取り出して、中身を点検した。

 それから、携帯電話を取り出すと、どこかに電話を入れて、大南までの運賃を問い合わせた。 

 青年は、財布の中から一万札一枚と千円札二枚を抜き出して、呆然と突っ立っている久山に握らせておいて、こんな意味のことを言った。

 これだけしかなくて、申し訳ない、特急や急行を使わずに、在来線の鈍行を乗り継げば、往復の旅費に少し余るはずだ、と。

 久山の目から涙がこぼれた。

 青年に腕時計を押しつけるように渡そうとした。青年は受け取ろうとしない。久山も譲らない。

 青年は、そんなものを預かったところで意味がないと思ったようだが、同じことを繰り返していてもらちがあかないと判断したのか、腕時計を受け取って、ダウンジャケットのポケットに納めた。

 その代わり、今度は、小さな手帳とボールペンを取り出して、ページを繰って、手早く何か書き込んだ。

 手帳から一枚引き破って、それを久山に渡しておいて、こう言った。

 「時計を預かりますが、復職できたら、この番号に連絡してください。時計をお返しします。東京に出て来られない場合は、向こうの住所おちつきさきを知らせていただけば、そこへ送ります。お金は返せるようになった時でいいですが、返せない時は、それでも結構です。復職できるといいですね」



 二〇〇九年、一月十三日、久山は、八年間近く過ごしていた大南市に、ほぼ二ヶ月ぶりに帰って来た。

 JR東海道在来線の鈍行を乗り継いで来た。

 午前中の早い時間に品川駅を出たのだが、乗り換えが多く、待ち時間が長い電車にも乗らざるを得ず、名鉄の大南駅に着いた時には、午後の四時を過ぎていた。

 それでも、薗田が会社から帰宅する時間には早過ぎた。

 薗田の自宅を久山は知っていた。

 薗田は、人事管理部長になりたての頃、折にふれて、自宅に一般の社員や工場の従業員を招いた。懇親と褒賞の意味を兼ねて、工場内の情報ことをいろいろ聞き出すことに意義を見い出していたのだろうと思われた。

 久山は、期間工の身分のまま、雇用の延長が繰り返されていた。

 その間の実直で誠実な仕事ぶりが管理職の目に留まって、久山も薗田宅に招かれたことがある一人だった。

 久山は、時間を潰すために、八年近く過ごした街をふらふらと歩いた。

 休日などに乗り回す車もなく、工場と社員寮を往復して過ごすような日々だったので、街中まちなかのことをほとんど知らなかった。

 工場近くの大型スーパーの周辺は知っていたが、大きなファミリーレストランやしゃれた喫茶店などが建ち並んでいるあたりや、バーやスナックがのきを連ねた一角などは知らなかった。

 こんなところもあったのかと驚いた。

 底冷えのする寒い日だった。

 その上、ぶらぶら歩いていても空腹がひどくなるだけだったので、まだ時間が早過ぎると思ったが、薗田の家の方へ足を向けた。

 道順はうろ覚えだったが、途中に見覚えのある公園があったので、ほとんど迷わずに、薗田の家の周辺まで行けた。

 薗田がいなければ意味がなかった。

 薗田が帰宅する時間には早過ぎた。

 久山は、いったん、公園に引き返した。

 公園には、大きな丸太を半分に割って作った荒削りのベンチが適当に置いてあった。

 久山は、肩をすくめて、ベンチの一つに座った。

 防寒着の襟を立てて、首も縮めているが、寒い。

 手袋をしていないので、手が痛いほど冷たい。

 体を震わせながら、ナップザックを脇に置いて、防寒着のポケットに両手を突っ込んだ。

 公園には、滑り台やブランコや小さなジャングルジムや砂場などがあった。

 適当な間隔を置いて植えてある木々は、濃緑の葉をつけたままのものと、葉っぱを完全に落としているものがあった。

 冬枯れのたたずまいを見せている木々はたぶん桜だろう、桜の花が咲く頃まで生きていられるだろうか、と思った。

 夕闇に包まれ始めて、身を切るような北風が時折強く吹きつける。

 枯葉が、荒れて枯れた芝生の上を、カサカサと音を立てて転がっていく。

 久山の悲惨な気持ちをさらに滅入らせるような、真冬の夕暮れの寒々とした光景だった。

 久山は、時間を見ようとして、ポケットから出した左手を持ち上げて、手首を覗いた。長年見慣れていた腕時計はそこになかった。

 夕闇が増していた。

 時間がわからなかった。

 ベンチの傍らに置いたナップザックと、その中身が、久山の全財産だ。

 大きめのナップザックだが、中には、必要最低限の着替えや下着類の他には、簡単な洗面道具が入っているだけだ。いつも持ち歩き、所構わず置いたり、野宿をするときの枕代わりに使っていた。

 風呂に入れなかったので、晴れて暖かい日に、公園の水飲み場と人目をさえぎる樹木の陰を往復して、タオルを洗っては、体を拭いた。

 歯磨きやひげ剃りには公園のトイレの中の手洗い場を使っていた。

 ポケットからかじかんだ右手を出して、アゴと鼻の下に手をやると、ヒゲがかなり伸びていた。

 公園の国道側の片隅に、小さなコンクリート建てのトイレが見える。

 近くに水銀灯が立っていて、トイレとその周辺を寒々と照らしている。

 トイレに入ってヒゲを当たろうかと思った。

 トイレのすぐ向こうを横に走っている高い土手が、夕闇に包まれ始めて、黒々とトイレに迫っているように見えた。

 何本もの樹木の黒い影が尾を引いている。

 トイレの小さな建物自体が黒々とした潅木や不気味に枝を伸ばした樹木に囲まれていて、暗くなってから、あんなところで用を足す者などいないだろうな、と思った。その上、水を使いたくなかったので、久山は、ヒゲを当たるのはめにした。

 二つある水銀灯の明かりがなければ、遊具の見分けがつかなくなった。それでも、空は曇っているし、冬の日没は早いので、薗田が帰宅する時間にはまだ早いと思った。

 国道との境目には葉をいっぱいつけた植木や灌木がびっしり植わっていて、その隙間から、通り過ぎる車の前照灯や赤い尾灯がちらちら動いていくのが見える。

 公園は、完全に、夜の暗さに閉ざされた。

 それでも、我慢強く待った。

 午後の六時を過ぎたと思われる頃、薗田が、もう帰宅したか、あるいは、帰って来る頃だろう、と思ったので、公園を出た。

 防寒着の襟を立て、ナップザックを背負った背中を丸め、肩ををすくめて、とぼとぼと歩いた。

 街路灯が、適当な間隔を置いて、寒々とした灯りを路上に投げている。

 完全に夜のとばりに支配された底冷えのする住宅街は、車とは行き交うが、歩いている人の姿はない。

 七,八分ほどかけて、ゆっくり歩いて、県道から薗田の家につながる側道に入った。

 二階建ての個人住宅が建ち並んだ一角だ。

 贅沢な造りの薗田の家の周辺を、十数分ほど、歩き回った。

 家の正面の芝生を植えた広い庭園は、灌木に囲まれている。その灌木の外側には、黒い頑丈な鉄製の柵がある。久山をこばんでいるように見えた。

 庭園の右側に屋根付きの大きな車庫がある。車は入っていない。薗田が帰宅していないことがわかる。

 灌木と車庫の間に玄関へ通じる通路があった。

 久山は、寒かったので、薗田が帰宅していなくても、暖房が効いているはずの家の中に入れてもらおうかと思った。

 久山たちが招待された時、小顔で知的な顔立ちをした薗田夫人は、物腰がやさしくて、笑顔を絶やさなかった。人事管理部の課長や係長や課員の奥さんたちも五,六人手伝いに来ていたが、部長夫人が、久山にも言葉をかけて、料理をすすめたり、ビールを注いでくれたりした。

 久山は、カラーブロックを敷き詰めた通路を歩いて、薗田の家の玄関前に立った。チャイムのボタンを押そうとしたが、押せなかった。

 落ちぶれて、みすぼらしい様子をした自分が家の中に入れてもらえるとは思えなかった。

 招待は、三年ほど前で、一度だけだった。十五,六人の中の末席で、顔も覚えていないだろう、それに、用件が用件だ、たとえ薗田がいたとしても、中に入れてくれないかもしれない、と思った。

 久山は、また、側道に出た。

 絶望に打ちのめされていた。

 愚かな考えに頭が満たされていたことを悟ったのだ。

 薗田の三つくらい先の家の前をとぼとぼと歩いている時、ヘッドライトの前照灯の光りが久山の前方の道を明るく照らした。

 久山は立ち止まった。

 立ち止まったまま、道の片側に身を寄せて見ていると、車が停まって、バックを始めた。

 車は薗田の家の車庫に入ろうとしていた。

 久山は、咄嗟とっさに心を決めて、車庫に向かった。

 車庫は普通車二台が十分に駐車できるほどの広さがあったが、薗田は、自社製の高級車を慎重にバックさせて、車庫のほぼ真ん中に停めた。

 薗田は、車を停めた途端に、前照灯の光りを浴びて車の前に立った男が目に入って、びっくりした。

 浮浪者だと思った。

 髪の毛が両耳を覆うほどで、頬や顎や鼻の下の髭が伸びている。黒っぽい防寒着が痛んでいて、その下の濃紺のズボンは膝がふくらんでいる。

 薗田は、車の運転席に座ったまま、車を降りていいものかどうか、しばらく躊躇ためらっていたが、やっと、その男が久山だと気づいた。

 前照灯を消して、エンジンを切った。

 車のドアを開けて、

 「なんだ、久山君じゃないか、どうしたの?」

 と、言いながら、車を降りて、車庫から出てきた。

 薗田は、外見から、久山の現在置かれている苦境が即座にわかったはずだが、すぐに追っ払った方がいい、と直感した。

 「何か用があるんだったら、明日にでも、会社の方に来てくれないか。家に来てもらっても困るんだ」

 「部長、困ったことや相談したいことがあった時ゃ、また、会社に来てよかち、言ってくいやったこっがあいもしたな。覚えておいやっですか」

 「・・・そんなこと言ったかね」

 「えっ・・・!」

 薗田は、おぼろげに、井口係長が久山に解雇を言い渡した時のことを思い出した。

 「言ったにしても、会社に、と言ったと思うんだが・・・」

 会社に来ても相手をする気はないのだが、薗田は、咄嗟に、そう言った。

 「会社でん、ここでん、お願いしたかこちゃおなしこっごわす。工場に戻してもらえんですか、どうか、どうか、お願いしもんで・・・東京でも仕事が見つからんじっ、ホームレスちゅうといなっちょいもす。泊まるところも無くて、食うもんにも困っちょいもす。年末から正月にかけて、年越し支援村ちゅう人たちの世話にないもした。郷里の妻は寝たり起きたりで、子供こどんも二人・・・」

 「そういうことを言われても、私には力がないんでね」

 薗田は久山の言葉を途中でさえぎった。今も派遣社員切りが続いている。毎日、同じような意味の言葉を聞かされている。

 薗田は、さらに、久山が何か言い出す前に、続けた。

 「本社の指示に従うしかない立場なんです。現状を言えば、あなたのころより、工場を辞めてもらってる人が増えています。製造ラインがあらかたストップして、正社員の仕事も減って、就業時間を減らしたり、早期退職者を募ったりしているような状況なんです」

 薗田が途中で言葉遣いを改めたのは、この厄介者を早く追っ払ってしまおうという考えが強固になった証拠だ。心が痛まなかったわけではないが、個人的な感傷を入れる余裕などなかった。

 久山は、たかが季節労働者としての身分だったのだから、復職を懇願しても全く意味がない、と悟った。それに、薗田が家の中に入れてもくれず、立ち話で済まそうしていることに、改めて自分の惨めな立場を思い知らされていた。

 「工場ん清掃そうじとか、荷物運っとか、なんでも・・・」

 と、久山が言いかけているとき、ハイヒールの音を響かせて、娘の恵美が帰ってきた。

 「あら、どうしたの? 何かあったの?」

 恵美は、眉を寄せて、久山を不審そうな様子でジロジロ見た。

 惨めな立場を自覚していた久山には、尚更、そう見えた。

 「いや、この人が私を離さないんでね」

 久山は、恵美の態度よりも、薗田の言った言葉の方に衝撃を受けた。

 少なくとも、つい一ヶ月半ほど前まで勤めていた従業員のことを表現する言葉ではなかった。

 久山が招待された時、この娘も挨拶に出た。何も言わずに、内気そうな微笑を浮かべて、ただ、頭を下げただけだったが、若い女の子に関心を持つ余裕などなくしていた久山が、思わず目を見張ってしまうほどの美貌で、体型もすらりとしていた。

 薗田は、この娘が自慢らしく、聞かれもしないのに、シグマ車体工業に勤めることになっていると、目を細めながら、相好を崩して紹介した。

 久山は、こみ上げて来る怒りを押さえながら、聞いた。

 「お嬢さんはシグマ車体工業に勤めておいやっとでしたね」

 恵美は、久山がそう言ったので、驚いた。

 「あら、この人、私のこと知ってるの?」

 この娘が久山じぶんのことを覚えていないのは仕方ないとしても、惨めな立場を、改めて、思い知らせるような言葉だった。

 恵美としては、咄嗟に出た言葉で、そんな意図は全くなかったのだが、久山には、そうは思えない。

 それに、惨めな立場を自覚している久山の眼には、この娘が路傍の石ころでも見るような目で久山じぶんを見ているような気がした。

 門扉の近くにある門灯と五,六メートルほど離れたところに立っている街路灯の明かりがあったにしても、久山に恵美の表情がよく見えたわけではない。

 「いいから、家に入りなさい」

 薗田に、そう言われて、恵美は久山に不審そうな目を向けてから、ハイヒールの音を響かせて、暖かそうなコートの上からもわかる形のいいお尻を振りながら、玄関に向かった。

 久山は完全にキレた。目が異様に光った。

 「おはんが娘は首にゃなっちょらんとな!」

 「・・・・・」

 「わが娘んぶんな(むすめだけは)系列会社にもぐり込ませっせえ、こげな不況になっても、首にもなっちょらん! シグマ車体もどんどん首を切っちょっとじゃっどがな!」

 「・・・・」

 恵美が、久山の怒声に驚いて、振り向いた。

 久山は、無口で、真面目一途に働いていて、自分の仕事に加えて、代替のシフトに連続してついても、黙々と仕事をこなしていた。

 薗田もそれを知っていた。そういう久山しか知らない薗田は、久山の変貌ぶりに戦慄せんりつを覚えたようだ。

 久山が仰天するようなことを口走ってしまった。

 「恵美、すぐ警察に連絡してくれ!」

 久山は驚愕して、目の前が真っ暗になった。

 怒る気力もえて、夜道を駆け出した。

 

                    リーマンショック殺人事件(三)に続く

                      (*乞 タイトル入力後、検索) 





                                        


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