数字のこと
「たとえばさ、一って数字があるじゃない」
「あるね」
唐突なちい先生の話題に慣れている俺は戸惑うことなく頷く。
「一足す一は二になるでしょう」
「なるね」
「僕と米くんで二」
「うん」
「二であることを知ってしまったら、一に戻るのは淋しいね」
「……うん」
一に戻るということは、つまりちい先生がいなくなってしまうということだ。それは淋しい。とてもとても淋しいことだ。
ひとの望みは絶え間ない。ひとつ得られればもう一つと欲しくなる。
俺はちい先生が大好きだから、一緒にいると今度はずっと一緒にいたくなる。それがとっても難しいことだっていうのを知りながら。俺が知ってるくらいなんだから、ちい先生だって分かっているんだろうな。
それでも俺達は一緒にいたい。
「十年くらいしたら、ちい先生はどうなっているんだろう」
「不況の煽りを受けて無職なんていうのはいやだねえ」
「ちい先生なら学者になっているんじゃないの?」
ちい先生は目をぱちくりさせて、少しだけ笑う。
「それも楽しそうだね。物事を調べるのは嫌いじゃないよ」
むしろ好き。
そう答えたちい先生は将来ほんとうに学者になってしまうのだけど、その理由がすごかった。
「やることがないから本を読んでいたらいつの間にか学者になっていたよ」
読書は頭の栄養っていうのは本当なんだ、と俺はぽかん、としてしまった。
ちなみにその時それなりの地盤を固めることができて店を幾つか持たせてもらっていた俺は、ちい先生おすすめの経済学に関する本、法律に関する本などを読むようになっていて、インテリヤクザと呼ばれているのだけど、今の俺はそんなこと想像もできやしないのだ。
ちい先生おすすめは年々ハードルが高くなっていくけど、その高さは慎重に測られていて俺でもついていくことができた。それを踏まえるとちい先生はほんとうに「先生」になってもやっていけるのかもしれない。進路相談とか得意そうだ。
「ねえ、米くん。人間は生きている間にどれほどのことを知ることができるのだろうね。いや、ほんとうのことを知る、なんて実際はできないのかもしれない。知った気になっているだけなのかもしれない。でも、僕は知りたいと思うんだ。少しでも多く、少しでもたくさん」
ちい先生は知識欲の権化のようなことを言い、それを誤魔化すように唇に曖昧な笑みを刷いて歪ませる。
「でも、僕は知るだけでは満足できない。例えばとても美味しそうなご馳走を前にしたときのように、見るだけではなく味わいたいんだ。僕は知識をものにしたい。咀嚼して、嚥下して、血肉にしたい」
「それはとても難しそうなことだね」
「そうだね。きっと、そうだよ。でも、難しいからってだけじゃ諦められないかな」
これは夢と呼ばれるものなのだろうか。将来の夢と呼ぶようなものなのだろうか。俺にはちょっと分からない。
でも、ちい先生がそれを成したいっていうなら、俺は俺のできる範囲で手伝いたいと思う。なにをどうしたらいいのかなんて、まだ分からないけど。それでも俺はちい先生の手助けがしたいって思うんだ。それこそ、難しいってだけじゃ諦められないくらい。
「ねえ、ちい先生。俺にして欲しいこと、俺に手伝えることがあったらなんでも言ってね。俺はきっとそれをがんばるから。絶対にがんばるから」
意気込んで言う俺にちい先生はまたまばたきをして、今度はきらきら輝くような笑顔で頷いた。
「うん、じゃあ米くんが困ったときも僕を呼んでね。僕ができることは少ないだろうけど、少ない分全部を挙げて米くんを助けるよ」
「約束ね」と言って差し出された小指に、俺は躊躇することなく自分の小指を絡めた。
この約束は長く長く、俺がそれなりのヤクザになっても、ちい先生が学者になっても続いていく特別な約束になった。
だから、二が一になる気配は当分ない。