雨の日のこと
ちい先生と出会ってしばらく、初めて雨が降った。
しとしと静かに降る雨に、俺はどうしようかと悩む。
公園に行くべきか、行かざるべきか。
行ってちい先生がいなければ、俺はきっとがっかりするだろう。
でも、行かなくてちい先生がいた場合を考えると俺は行ったほうがいい気もする。
ちい先生はいるかもしれない、でもいないかもしれない。
俺がもだもだ考えていると、兄貴がいつも通り飯でも食って来いと小遣いをくれた。兄貴は気前がいい。ヤクザは小さくちゃいけないと言っていたけれど、俺みたいな下っ端にまでやさしいヤクザなんて早々いやしないことくらい知っている。
俺は結局事務所から出るのだからとやはり公園に行くことにした。
そして見つけた青い傘を差したこどもの姿。ちい先生だ。
「ちい先生!」
「やあ、米くん。こんにちは」
ちい先生は晴れた日と同じ笑顔と言葉で挨拶をする。
「雨降ってるのに……風邪ひいちゃうよ」
「傘はきちんと差してるよ」
「俺、今日はちい先生がいないかと思った。でも、いるかもしれないとも思って……」
「まるでシュレディンガーの猫だね」
「しゅれ……?」
濡れたベンチにちい先生は遠足に使うような小さめのシートをしいて「まあ、お座りよ」とぽん、と手でたたくので、俺もいつも通りベンチへ掛ける。だけどお互い傘を差してるので距離はいつもよりも遠い。
「箱のなかに五十パーセントの確立で死ぬ装置と猫を一緒にいれるんだけど、あくまで五十パーセントの確立だから猫が死んでるかどうかは箱を開けて確認するまで分からないっていうやつさ。
米くんも此処にきて確認するまで僕がいるかどうか分からなかっただろう?」
「難しいね。ちい先生はそういう難しいものをどこで識るの?」
「主に本だね。でも知っていることと理解していることとは別だからね、表面上、字面を説明するので精一杯さ」
ちい先生はひょい、と肩を竦める。歳に不相応な仕草がやけに似合っていて格好いい。
格好いい男っていうのは兄貴みたいな厳つい大人の男を云うんだと思っていたけれど、小さくてこどものちい先生もすごく格好いい。どっちでもない俺が格好よくなれる日はくるんだろうか。
そんなことをちい先生に零せば、ちい先生は目をぱちくりさせてからくすくす笑う。
「米くんだって十分格好いいのに」
「嘘だあ」
「嘘じゃないよ。じゃあ、ひとつ教えてあげる。
こんな雨の中、ひとりで来るか分からない米くんを待つのは僕だって心許なかったんだよ。でも、米くんは来てくれた。僕を見つけて駆け寄ってくれた。すごく格好良く見えた」
俺は傘を傾げて雨降る空を見上げる。
やむ気配のない雨空の下、ちい先生もシュレディンガーの猫だったのだろうか。そう思うととても不思議だった。
「ちい先生」
「なんだい、米くん」
「雨強いね」
「そうだね、息が白い」
「やっぱり風邪ひいちゃうよ」
「そうかもしれない、でもそうじゃないかもしれない」
「ちい先生」
「っていうのは冗談で、米くんこそ風邪をひいてしまったら大変だね」
今日は会えただけよしとしようか。
ちい先生はひょい、とベンチから降りて水溜りを黄色い長靴でぱしゃん、と蹴った。
「次は晴れた日に会おうか」
「うん」
「明日にでも晴れるといいねえ」
「うん、俺てるてる坊主作るよ」
「晴れたら金の鈴をあげるんだよ」
「メッキじゃだめかなあ」
「金色ならきっと許してくれるさ」
てるてる坊主。
ちい先生と歌いながら俺は公園を出る。公園を出たら俺とちい先生は別々の方向へ歩き出す。だけど、俺ははたといい忘れたことを思いだして振り返る。
「ちい先生」
「うん?」
ちい先生が振り返りながらくるり、と回した青い傘。
「その傘とっても素敵だね!」
てるてる坊主が活躍しなくても、まるで晴れた日の空のような青い傘。雨の日でも先生が見上げるのは青い空。その向こうは本当に晴れているのかいないのか。そんなことどうだってよくなるくらいちい先生に似合ってる。
ちい先生はもう一度くるり、と傘を回してにっこり笑う。
「ありがとう。これのおかげで雨の日でも格好良く見えるみたいでうれしいよ」
ひらひら手を振るちい先生に、俺もぶんぶん手を振って、どちらともなくまた歩き出す。
ああ、そういえば昼飯買うのを忘れていたや。
だけど、出かける前より胸が満たされているので、俺は腹の虫が歌うのがちっとも気にならなかった。
だけど、ちい先生に知られたら怒られるかな。それよりも兄貴が先に怒りそうだ。こればっかりは五十パーセントの確立を超えている。
なので俺は大急ぎでコンビニへ駆け込んだ。
俺が差してるのと同じ、味気ないビニール傘が傘たてにたくさん突っ込まれたコンビニへ。