パンのこと
世間では休日のその日、俺は朝早く起きてパン屋に行った。
ちい先生と話したあとの帰り道、たまには別の道を歩こうと思ったら見つけた小さなパン屋。小さいけれどとても美味しそうな匂いがして、これが朝早く、焼きたてのパンが並んでいる時間だったらもっと好い匂いがするんだろうと思ったら買ってみたくなったんだ。
パン屋は思った以上に好い匂いがした。
ふわふわ甘い匂い、カリカリ香ばしい匂い。
俺の腹はくう、と鳴く。
トングとトレイを手に取り、俺はぐるり、と店内を見渡す。こんがり焼けたパンたちが皆してアピールしてくるので俺はどれにしようか迷ってしまう。
早く決めなくては事務所に行く時間になってしまうのに、これではどうしたものか。
悩んで俺はちい先生との会話を思い出す。
「決めるのに迷ったら? そうだね、とりあえず三つか五つにしぼってごらん。そして順番に指を折って数えて……」
あのときは図書館で借りる本に悩んだのだった。頭がよくない俺は一度に何冊も借りたら読みきれない。だからとりあえず一冊に絞ることにしたんだけど、どれがいいかさっぱりで……。
「指を折って数えて、それで真ん中にする」
チョココロネ、ハムとゆで卵の入ったレタスサンド、メロンパン。
一番健康に良さそうなのが俺の朝ごはんに決まった。朝はあまり食べる習慣がなかったから、これ一つで俺の腹には十分だ。
「おはようございます」
レジに行ったらそばかす顔のおばちゃんが顔をくしゃくしゃにして笑って挨拶をしてくれたので、俺も「おはようございます」と返した。でも、挨拶されるなんて思ってなくて驚いていたから「はよっす」なんて悪い意味で今時の若者らしく砕けたものに聞こえたかもしれない。ちい先生と話すときはそんなことないのにな。
ちい先生との会話はいつだってゆったりしている。
俺は乗ったことがないけど、清流を渡る舟の乗り心地に似ているかもしれない。ゆったりゆったりと揺られるように、ちい先生と俺は会話する。
そうだ、このサンドイッチが美味しかったらちい先生にも教えてあげよう。俺からなにかを教えるのは珍しいからきっと喜んでくれる。ちい先生は俺が自分からなにか見つけたり話したりする、自発性をとても大事にしてくれる。
「だって、それは米くんのなかにしかないものだもの」
うふふ、と笑うちい先生の顔を思い浮かべながら、俺はおばちゃんに二百五十円を支払った。
「それで態々買ってきてくれたのかい?」
「うん、丁度できたてだからちい先生食べてみて」
昼下がりにいつもの公園で、ちい先生はころころ笑う。
朝ごはんのサンドイッチはあまり温かくなかったけど、食パンがふわふわして練りこまれたゴマが香ばしくってレタスはしゃきしゃきでとても美味しかった。あんまり美味しいから昼食に他のパンもと考えて、せっかくならちい先生にも食べてもらいたくて色々買ってしまった。
悩んだチョココロネにメロンパンのほかにカツサンドとクロワッサン。それにクイニアマンという甘い匂いのするつやつや飴がかったようなやつ。
「ありがとう、米くん」
「ううん、どういたしまして。早く食べよう」
「うん、じゃあクロワッサンをもらうね」
ちい先生の小さい手に余るほどのクロワッサンを、やっぱり小さいちい先生の口がぱくりと食べる。すぐにさくりさくりと音がして、いい音だなあ、なんて聞き入ったり。
「美味しい? ちい先生」
ちい先生はちょっと待ってというように俺に掌を向けて、こくりと飲み込んでから頷いた。
「バターが利いていてとっても美味しいよ。それに外側はさくさくしてるのに中はもっちりしてる」
言ってもうひと口。
「うん、とっても美味しい」
素敵なものをありがとう。
にっこり笑顔で言うちい先生に俺はなんだか顔が熱くなってしまい、こどもっぽいなあ、と思いながら大事な言葉を繰り返す。
「どういたしまして!」
ちい先生のありがとうにどういたしましてを返せる俺は、やっぱり幸せ者だなあ、と思いながらメロンパンを手に取る。
齧りついたメロンパンの中から夕張メロンの色をしたクリームが出てきて俺はますます幸せになった。
美味しいものを食べられるのは幸せだ。
ね、ちい先生!




