パーソナルスペースのこと
未来軸です。
高校生になって一人暮らしを始めたちい先生の家に、俺は時々訪れる。実は合鍵までもらっているのだけど、ちい先生がいないちい先生の家に俺は用がないので使ったことはまだない。
ピンポーン、とインターホンを鳴らして暫く、ぱたぱたと足音がしてドアが開かれる。
「こんにちは、ちい先生」
「やあ、米くん、こんにちは」
どうぞ、上がって、という声に頷き、俺は「お邪魔します」と言いながらドアをくぐる。
ちい先生の部屋は基本的にきれいに整頓されているのだが、実は片付けるのが面倒だからきれいにしているだけだという。だから部屋の隅には埃が溜まっていたりするときもある。そういう時は俺がコロコロを使って掃除したりする。比喩でなく指がすりむけるまで本家で掃除に明け暮れた俺にとって片付け掃除はお手の物だ。
「ちい先生、これお土産」
「あ、甘栗だ。うれしいなあ」
じゃあ、今日のお茶請けはこれにしようか、と言ってちい先生は菓子皿に甘栗をざらっとあける。
「いまお茶淹れるね」
「ありがとう」
「いえいえ」
先に菓子皿を持ってテーブルにつくと、シンクの前でちい先生が手際よくお茶を淹れているのがよく見えた。香ばしい匂いからしてほうじ茶だろう。熱いほうじ茶は甘栗を剥きながら飲むのに丁度いい。そういう気の利かせ方がちい先生は上手い。
「お待たせ、熱いから気をつけて」
お茶を淹れ終って戻ってきたちい先生は俺用の湯のみをテーブルに置いてから自分の湯のみも向かいに置く。
「あ、ウェットティッシュがあったほうがいいね」
座りかけていたちい先生はぽん、と手を打つとまた立ち上がってウェットティッシュを取りに行こうとするが、困ったように頭を揺らし、俺を振り返った。俺は笑いながら「そこの引き出しの上だよ」とウェットティッシュのありかを指差す。この前の課題に大忙しで片付けもままならなかったちい先生に代わって片付けをした俺は、ちい先生よりちい先生の部屋のことを知っている。大体の物のありかは変えてはいないけど、細々としたものは置き場が微妙に変わっていてちい先生は時々こうして俺に訊ねるのだ。それでも片付けをしないよりはずっといいと感謝してくれるのだからこちらが恐縮してしまう。
「だって、僕は手を抜き始めたらどこまでも抜いてしまうからね」
苦笑いしながらウェットティッシュをテーブルに置いたちい先生は自身をずぼらと言い切っている。
「米くんがいなかったらその内この部屋は魔窟になっているよ」
「そんな冬場の炬燵周辺じゃあるまいし」
俺のたとえにけらけら笑い、ちい先生は「おもたせですが」と言って甘栗の入った菓子皿を俺のほうに押しやる。俺は一つとってからちい先生のほうに戻した。
甘栗を割るのは簡単だ。平たい腹に爪痕をいれて縦に押してやればいい。ちい先生も同じ動作でぱきぱきと甘栗を割っている。ちなみに俺は割りながら食べる派で、ちい先生は割り溜めしてから食べる派だ。ウェットティッシュとは別にテーブルに置いてあったティッシュを一枚広げ、そこに二つ三つと割り終えた甘栗を転がしている。その数が五つになってからようやくちい先生は甘栗を口に運んだ。
「あ、美味しい」
「でしょう」
「また上司さんのお勧めかい?」
「ううん、これは俺が見つけたの」
「へえ! どのあたりにあるの」
「えっとねえ……」
他愛ない世間話をしながら俺たちは甘栗を剥く。指先はとうに黒くなっている。この色は中々落ちないが別に構いはしない。今日は兄貴から休みをもらっている日だ。と言っても呼び出しがあればすぐに応じなければいけないのだけど。
「米くんの食べ物マップも大分広くなってきたねえ」
「そりゃ食べ歩き始めて何年にもなるもの」
ちい先生に少しでも喜んでもらえるものをと思って、俺は今まで視界にいれていなかったものをじっくり眺めるようにしてきた。それが数年にもなるのだから当然だ。
たまにちい先生と出かけるときは俺が案内できたりして、それがうれしい。俺でもちい先生に教えられることがあるんだなあって思うと、少し得意になってしまうのだ。
「そうだ、米くん。お昼食べていくでしょう?」
「いいの、ちい先生」
「当たり前じゃない」
「うん、じゃあお言葉に甘えます」
「なら後で一緒に買い物に行こうね」
剥き終わった甘栗を食べ終えてから言うちい先生は言葉どおり当たり前の顔をしていて、俺はへにゃりと笑いながら頷いた。
俺たちの日常は今日も恙無く送られています。