やさしさのこと
俺が公園に行くと、ちい先生は既にいつものベンチに座っていた。
「ちい先生、こんにちは」
「やあ、米くん。こんにちは」
いつものように挨拶をして、俺は手に持っていたビニール袋をちい先生に渡す。
ちい先生はきょとん、としたけれど、袋のなかを覗いてにっこりした。
ビニール袋のなかに入ってるのは出汁入りたこ焼き……じゃなくて明石焼き。さすがに本場のじゃないけど、兄貴が気に入ってる店のを土産に持たせてくれた。俺はまだ食べたことがない明石焼きをちい先生と食べたくて持ってきたのだ。
「わあ、まだ温かいね」
「うん、早く食べよう」
割り箸は二本……二膳ビニール袋のなかに入ってる。
ちい先生は割り箸と明石焼きをビニール袋から取り出すと、箸を一膳俺に渡した。俺はちょっと割り箸を割るのが下手だけど、ちい先生はきれいに真っ二つだ。
そんな器用なちい先生はちゃんと数をそろえて蓋と器とで明石焼きを分けると、汁も均等に蓋へと流しいれて器のほうを俺に渡した。
「ちい先生食べにくいでしょ。俺蓋でいいよ」
「米くんは持ってきてくれたでしょう。だからいいんだよ」
そういわれるとそうなのかもしれないと思ってしまって、俺は器に視線を落とす。
「ほら、冷めちゃうよ」
「うん」
急かされてしまえばもうお手上げ。俺はちい先生の隣に腰掛けて、明石焼きに箸をつける。割れば中からも湯気が出て、中々熱そうだ。
「あちちっ」
隣でちい先生が声を上げる。ちい先生が案外猫舌なのは昔、冬場におしるこを奢ったときに知っている。
「ちい先生、ゆっくり食べたほうがいいよ」
珍しい俺からの忠告にちい先生は年齢を上に見せる苦笑いで頷き、ふうふうと明石焼きを冷まし始める。俺はちい先生の二の舞にならないように割った明石焼きにふうふう息を吹きかけてから食べた。美味い。香ばしい明石焼きと風味の効いた出汁とが絶妙なバランスで口の中にとろける。さすが兄貴のお気に入り。これはほんとうに美味い。ようやく冷まし終わった明石焼きを食べたちい先生も「わあ」と感嘆の声を上げているので俺の味覚ハードルが低いわけじゃなさそうだ。これはほんとうに美味しいもので間違いない。
「美味しい、美味しいね、米くん」
「うん、すっごく美味しい」
「どこのお店なんだろう。近くにあるの?」
「ごめん、これもらい物だから俺は店知らないんだ。今度訊いてみるね」
「そっか。教えてもらったら是非僕にも教えてちょうだい」
「うん」
ひとに、というか目下にものを食べさせるのが好きな兄貴だから快く教えてくれるだろう。ただ、兄貴のお気に入りの店に無断でほいほいいけるかと言えば微妙なところだ。ひとの縄張りというのは気軽に踏み込んでいいもんじゃない。ヤクザ社会なら尚更のこと。
まあ、後々訊いてみれば俺の心配は杞憂で、兄貴は好きに行って来いと言ってくれるのだけど。
「美味しくて温かいものはいいね。お腹が幸せでぽかぽかするよ」
「うん。口のなかも幸せだけど、腹ん中も幸せだね」
口の中を幸せにした温かいものが、内側から身体を温めてくれる。温かいってことは幸せだって、真冬に家から放り出されたことのある俺は言い切れる。
あのとき合わなかった歯の音は明石焼きを頬張るのに忙しいし、あのとき凍えきった身体は明石焼きが温めてくれる。
それに、あのとき死んじまいそうだった心はやさしい誰かと一緒に美味しいものを食べる喜びに弾んでいる。
「こんなに美味しいものを持ってきてくれた米くんにはなにかお礼をしなくちゃね」
「え、俺はただもらったの持ってきただけだし、いいよ、そんなの」
「僕だって米くんに食べてもらいたい美味しいものを知っているんだよ」
会った事のない兄貴に張り合うようなことを言うちい先生に俺は一瞬ぽかん、としたけど、すぐにくすぐったさを覚えて視線を落とす。大分落ち着いた湯気が目元を掠めてちょっと泣きそうだった。
どうして世の中にはやさしいひとがいるのだろう。
美味しいものを分けてくれるひと。
一緒に食べて喜んでくれるひと。
どうして俺の周りにはやさしいひとばかりいるんだろう。
どうしてあの時得られなかったものが、当たり前に手の中に転がり込んでいるんだろう。
不思議、ふしぎ。とっても不思議。
「それはね、米くん。米くんもやさしい子だからだよ」
やさしいちい先生は染み込む様な声でもって俺を肯定する。
俺は乱暴者だ。だって俺の拳はひとを殴ることに慣れてこんなに硬い。ヤクザだから当たり前だけど。
「それでも米くんは『仕事』以外でそんなことしないでしょう」
しない。しないとも。だって、そんなことしたら面倒くさいことが起きるじゃない。俺はやさしいからじゃなくて面倒だからやらないんだ。
「でも、米くんは殴られても殴らないんでしょう」
米くんは痛々しいくらいにやさしい子だよ。
ちい先生はそういって俺の器に明石焼きを一つ放り込んだ。ちゃぽ、と少しだけ出汁が揺れる。
俺の心もちゃぷんと揺れる。
俺の傍にはどうしてこんなにやさしいことを言ってくれるひとがいるんでしょう。
あのとき信じることができなかった神様、どうして悪い奴になってしまってから、こんなにやさしいひとを遣わせてくれたんですか。
「それは僕も米くんに出会いたかったからさ」
神様の采配でもなんでもなく。
そう言ってちい先生は出会った頃よりもずっと大きくなった手で俺の頭を撫でてくれた。
ちい先生に頭を撫でられると、俺は小さくちいさくなっていくような錯覚をする。
だから俺は「俺は『子』なんて歳じゃないよ」と少しだけへそを曲げたようなことを言ってみるんだ。
「それをいうなら僕も『ちい』っていうにはとうがたってるけどね」
くすくすおかしそうにちい先生が笑う。
昔から変わらない笑顔が俺は大好きで、ちい先生が大好きで、俺は「じゃあ『子』でもいいや」と言う。そうすればちい先生もちい先生のまま、ずっといっしょにいてくれるような気がしたので。
「ちい先生、紅しょうが食べる?」
「苦手ならもらうよ」
器から紅しょうがをちい先生の蓋にやり、俺はちい先生からもらった明石焼きを食べる。随分冷めてしまったのに明石焼きはさっきよりも美味しい。
これは決して紅しょうがを抜いたせいではないと、俺はここに断言する。