8 銀のかけらは濁流とともに<後編>
水の中に、ラヴィニアの体が沈む。銀鉱なのか、銀竜の鱗かはわからないが、水の中は銀色にきらきらと光っていた。
(ユーニス、怒るかな)
こんな、彼の手の届かないところで死んだら。
ラヴィニアは、一番目の湖であまり遠くに行くなと言われたことを思い出す。
理由は、『離れすぎると守れないから』だった。
(あの人は、あの人なりに私を守ろうとしていてくれたのよね)
ぐずぐずするなとか、余計なことはするなとかいろいろ言われたけれど、それら全てはラヴィニアを守るためだった。それがわからなかったラヴィニアではない。けれどいつも憎まれ口が先をついて、素直に言うことを聞けなかった。
(あーぁ。任務に失敗したユーニスはどうなっちゃうんだろう。私が死んだら、ユーニスも罰せられちゃうのかなぁ。私のせいで、下手したら絞首刑とか? やだ、すっごく恨まれそう。死んでまでユーニスに怒鳴られたくはないなぁ、なんて、あはは)
笑った拍子に、ごぼりとラヴィニアの口から泡が吐き出される。すでに四肢には力が入らず、意識も薄れ始めた。
(せめてみんなに危険を知らせたかったな。先に逃げた人が知らせておいてくれるといいけど。銀竜だって、この土地の人たちを殺したくはないはず……あれ?)
ごぉっと流れていた水が、急に押し戻される感じがした。ラヴィニアが最後の力を振り絞って薄目を開けると、正面に透き通った大きな銀竜の顔があった。
「……!」
ぱかりと、銀竜の口が開く。するどい牙が見えて、ラヴィニアはぎゅっと目を瞑った。
(た、食べられる!)
ぶわっと、今度はラヴィニアに向かって水が流れてくる。銀竜にくわえられたラヴィニアはそのまま上に持ち上げられ、坑道の天井に開いた亀裂から外に飛び出した。
「う、わ、わ、あ、きゃ、きゃあああああああ!」
しぶきを上げて間欠泉のように吹き出した水に、ラヴィニアは押し上げられる。
青い空、次いで山の木々が見えて、今度は地面に激突して死ぬ! と思ったら、がしっと力強い腕に抱きとめられた。
「あんた……何やってる!」
「ユ、ユーニス!」
「その頭、どうした。突然空から降ってきて、何が」
ずぶ濡れのラヴィニアを見て、ユーニスは驚いた顔をしている。ユーニスに言われてラヴィニアが前髪をひっぱってみると、茶色だったはずの髪は金色に戻っていた。どうやら水に飲まれたことで、髪の染め粉が落ちてしまったようだ。ラヴィニアは説明をしようとして、それどころではないことを思い出した。
「大変! 水が来る! 山も崩れるわ。逃げて!」
「はぁ? 何を言ってるんだ」
ユーニスは、気の狂れた者を見るような目でラヴィニアを見る。ラヴィニアはこれではいつまでたっても埒があかないと、村の中央に落ちたのを幸いにユーニスの肩によじのぼって声を張り上げた。
「おい、何をする」
「みんな! 聞いて! もうすぐ坑道から水が吹き出してくるわ!
それから、山が崩れて、水と土砂が流れ出す! 早く高い所へ逃げて!」
「ははっ、何言ってんだ」
「なんだ、おまえ。どっかで頭ぶつけたんだろ」
「あたしたちをここから追い出そうったって、そうは行かないよ。湖は枯れちゃったし、どこにも行くところがないんだ」
「嘘じゃないわ! 早く高いところに行かないと! 坑道の中はもう水でいっぱいなの!」
「馬鹿言うなって」
「中が水でいっぱいなら、入口から水が流れてくるはず……あん?」
入口を指し示した男が、頓狂な声を上げる。ラヴィニアに注目していた人々は、男の声に振り向いた。
「入口が……埋まってる?」
「おいおい、いつの間に? どういうことだ」
「もしかして、この子の言うことは本当なの?」
周囲の人々にどよめきが起こる。ユーニスも、肩に乗せたラヴィニアを見上げた。
「本当だから! あとの生活のことはなんとかするわ。だから早く逃げて!」
ラヴィニアは必死に叫ぶ。けれど、人々は「でもなぁ」とか「なんとかって言っても、どうする気なのよ」などと言ってなかなか動こうとしなかった。
このままではみんな死んでしまう。
意を決したラヴィニアは、目元を覆うマスクに手をかけた。
「おい、何をする気だ」
ラヴィニアの足を支えていたユーニスが、眉間にしわを寄せて問う。
ラヴィニアはユーニスに向けて「ごめん」と小さく呟いて、大きく息を吸い込んだ。
「私は! カィエターン王国第一王女ラヴィニア・ヴァルデック・カイル・ツゥイ・カィエターンです!
王女の名において命じます! 即刻ここを立ち去りなさい! ここは危険です。ただちにここを立ち去り、高台へと逃げるのです!」
「あんたっ、やめろっ」
ユーニスが、ラヴィニアを引きずり下ろそうとする。けれどラヴィニアはユーニスの頭にしがみつき、さらに声を張り上げた。
「繰り返します! 私はカィエターン王国第一王女ラヴィニア・ヴァルデック・カイル・ツゥイ・カィエターンです!
王女の名において命じます! 即刻ここを立ち去りなさい! ここは危険です。ただちにここを立ち去り、高台へと逃げるのです!」
「王女?」
「王女様?」
「そうだ、王女様だ」
「あの金の髪、すみれ色の瞳……ラヴィニア様だ!」
わぁっと人々から声が上がるのと、坑道の入口を塞いでいた土砂が決壊して水が吹き出すのはほぼ同時だった。
「あぁっ」
「大変だ! 逃げるぞ!」
「逃げるったって、どこに逃げれば」
「王女様! どこに逃げればいいんですか!?」
「えっ、あっ」
どこに、と言われてラヴィニアは困る。とにかく高いところへと思ったけれど、ここは山の中でこの山自体が崩れる可能性があるのだ。
「王女様!」
「ラヴィニア様!」
人々は、すがるような目でラヴィニアを見ている。
ど、どうしよう。どうしたら。
ラヴィニアが助けを求めるように周囲を見回すと、頭の中で声がした。
――こっちよ。
「こっちよ!」
ラヴィニアは、声がした方に手を振り上げる。
――右手の斜面を登って。こっちは先代が眠りにお付きになる前からあったところだから、地盤が違うの。あそこに見える、一本だけ幹の色が違う木のところまで行けば安全だわ。貴女たちは、私が守る!
「わかったわ。あそこの! 白い幹の木まで走って! あっちは崩れないから!」
ラヴィニアが言うと、人々は我先にと駆け出した。ユーニスも、ラヴィニアを抱えて全速力で斜面を駆け上った。
「こ、この木か」
「はぁっ、はぁっ、ここまでくれば大丈夫なの……?」
「おい、見ろ! 山が……」
人々が、今までいたところを指差す。
坑道の入口から吹き出した水はふもとに向かって一直線に流れていき、割れた地面からあふれた水も、土や岩を抱き込み濁流となって坑道の周りに作られていた村を飲み込んでいった。
「もしも……あそこにいたら……」
「そうだ、俺らも……」
「うちの子! うちの子がまだ坑道に!」
「やめろ! 戻るな!」
一人の女性が、半狂乱になって駆け出そうとする。それを周囲の男たちが取り押さえると、女性は「あああ」と言って泣き崩れた。
「……」
地面に下ろされたラヴィニアは、悲痛な面持ちで女性を見つめる。自分はなんの偶然か、あの坑道から出ることができたけれど、他の子どもたちまで逃げられたとは思えなかった。
「あの……」
何か、なぐさめの言葉をかけられれば。そう思って、ラヴィニアが女性の肩に手を置こうとしたそのとき。
ひときわ大きな音がして山が崩れ、できた隙間から勢いよく空に向かって水が吹き出した。ラヴィニアには、その水があの竜の頭に見えた。
「あ!」
人々が、驚きの声を上げる。吹き出したのは水だけではない。水とともに、何人もの人が空に舞い上がった。
「おい! 助けに行くぞ!」
男たちが駆け出す。水によって投げ出された人々は、近くの木や藪の中に落ちた。
「坊や……! あぁ、愛しい子……!」
ほとんど無傷の我が子と再会した女性は、涙を流して子どもを抱きしめる。
ラヴィニアがほっとして親子を眺めていると、肩に誰かが布をかけてくれた。小間物屋のおかみだった。
「売り物じゃないの?」
「いいんですよ。つい抱えてきちまっただけですから。王女様のお召し物には到底なりえない代物ですが、ずぶ濡れのままよりはいいでしょう」
これから染めたり縫ったりして加工する生成りの布は幅広で、ラヴィニアの体をすっぽり包んでなお余裕があった。
「ありがとう」
ラヴィニアが礼を言うと、おかみはうれしそうにうなずいた。
水と山崩れから逃れた人々は、一本の木を中心に集まり、呆然と変わりゆく地形を眺めていたりお互いの無事を喜びあったりしている。
――先代。
ラヴィニアもユーニスを支えに立って崩れていく山を見ていると、すぐそばであの少女の声がした。
頭の中に響くのではなく直接耳に聞こえた声に振り返ると、避難の目星とした白い幹の木が淡く光っていた。
(あなたなの?)
ラヴィニアは、白い幹の木に話しかける。
――えぇ。ねぇ、貴女、聞いてくれる?
私は、古くからこの地にある者。あるとき、寿命を迎えた銀の竜が私のもとにやってきたの。竜はこの山に身を沈める代わりに、寿命が尽きるまでの間、そして尽きてからもこの地の人々のために身を捧げると言ったわ。
竜の躰は川となり、湖を作った。銀竜はしばらくの間意識があって、いろいろな話をしたの。そのうちだんだん声が聞こえなくなって、ある日ぷっつりと彼の気配が消えた。
あぁ、死んだんだって、思ったわ。
それでも、彼の躰からできた湖はたくさんの命を育んだし、彼の躰を糧とした山はたくさんの実りをもたらしたわ。彼も自然の一部になって、空に還っていく……そう思ったのだけれど。
(人が、来たのね)
――そう。彼の体が土の中でどうなってるかなんて、私は知らなかったの。人々はどんどん押し寄せて、彼を奪っていったわ。やめてって、私は何度も言ったけど、誰にも私の声は届かなくて……。
木の嘆きがラヴィニアの心に響く。銀鉱に触れたとき、彼女の声が聞こえるようになったのは、竜のはからいだったのか。
(ごめんね)
――貴女が謝ることじゃないわ。貴女は私の声を聞いてくれたじゃない。
(でも、私の国の民がしたことだわ)
――くす。貴女は、自分が何であるか知らないのね。
(?)
木の幹が、明滅する。淡い光がだんだんと弱くなり、幹がすっかり元通りになったとき、枝が囁くように揺れた。
――あぁ。先代が逝くわ。私も眠る。せめてこちら側だけでも崩れないようにするために、力を使い果たしてしまったから……。
ラヴィニアは、揺れた梢の先を見る。
地鳴りがやみ、吹き出す水もとまった空には、虹が出ていた。
そして、七色に輝く半円を背に、一匹の竜が空に昇っていった。
「銀竜……」
ラヴィニアは、届かぬその姿に手を伸ばす。
空に透ける銀の竜が、気持ちよさそうに上へ上へと昇っていく。ラヴィニアは、竜の尾が光に融けて見えなくなるまで竜の姿を追い、ふと、支えを失ったことに気づいて手を下ろした。
「?」
隣に立っていたはずのユーニスがいない。どこに行ったのかと首をめぐらせたラヴィニアは、ぎょっとした。
「み、みんな、どうしたの?」
小間物屋のおかみや馬屋のおやじさん、子どもたちから体格のよい男たちまで、その場にいた全員がラヴィニアに向かって跪いていた。そしてユーニスまでもがラヴィニアの前で膝をつき、布の先を捧げ持っていた。
「ユーニス?」
ラヴィニアが、布をくいっと引っ張る。ユーニスは、はっと我に返ったような顔をして、目をそらして立ち上がった。
それをきっかけに人々も顔を上げ、「奇跡だ」「まるで聖女のようだ」「ラヴィニア様」「王女様!」と口々に言った。
「ちょっ、みんな、え、何」
喜び、尊敬、期待といったきらきらしい瞳で見つめられたラヴィニアは、布を胸の前で握りしめてたじろぐ。
「王女様、俺たちゃこれからどうすればいいんですか」
「私たちはどこに住めばいいんですか」
「王女様」
「お導きを!」
そう言われても、ラヴィニアには判断ができない。どうしよう、とユーニスを見上げたら、ユーニスはラヴィニアをぎろりと睨み、
「目立ちすぎだ、馬鹿」
と言った。
「……ごめんなさい。だって」
この地に生きる人々を放り出して自分だけ逃げるなどできなかった。
それが素性をばらすことになったとしても仕方ない。
そう言うラヴィニアに、ユーニスは深いため息をついた。
「俺が城に手紙を書く。騎士団の連中に復旧作業をさせよう」
「ありがとう」
あとは今この場にいる人々をどうするかだ。ラヴィニアが藁にも縋る思いで白い幹に触れると、木は明確な言葉ではなく想いのようなものを伝えてきた。
「えっと、あのですね。
山は、形は変わってしまいましたが、きっとこれまで通りみなさんに豊かな実りをもたらしてくれます。
それから湖も、二、三日すれば元通り澄んだ水をたたえるようになります。数日のうちに騎士団を派遣しますので、それまではなんとかみなさんで力を合わせてしのいでください」
ラヴィニアは、ところどころ考えながら、言葉をつむぐ。
こうして大勢の人の前で話をするのは、ラヴィニアには初めてのことだった。人前で話をするのはいつも兄の役割で、ラヴィニアは兄の隣でただ大人しく座っていればよかったからだ。
「でも、その、銀鉱だけはもう採らないでください。あれは、大昔に亡くなった銀竜の躰なのだそうです。採った銀鉱もできるだけ返してくれれば、ずっとこの地は守られていくでしょう。そのかわり、もしも竜の躰を持ち去ろうとする者があれば……」
たぶん、無事ではいられない。空に昇った銀竜が助けたのは、銀鉱を持たないものだけだった。ラヴィニアたちの元には、銀鉱を抱えたまま息絶えた者も多く流れ着いていた。
ラヴィニアはたどたどしく木の想いを伝え、最後に自分がここにいたことは秘密にしてほしいと頼んだ。
「なぜですか? あたしらは王女様のおかげで助かったんです! あたしらは一生王女様に忠誠を誓います!」
「その気持ちは嬉しいんだけど、あの、私にも事情ってものが……それに、もう行かないと」
「そんな! まだいらしてください!」
「銀鉱にはもう二度と触りません! 俺らにできることがあればなんでもします!」
「物はなんにもなくなっちまいましたが、まだ山が半分あります。王女様の分の木の実くらいすぐにとって来ますし、少しお待ちいただければ獣をとってきて火を起こします」
「王女様!」
「どうか!」
人々の視線を受け、ラヴィニアは途方に暮れる。命からがら逃げ延びたばかりの彼らにとって、何かにすがりたい気持ちはよくわかる。けれど、ラヴィニアは自分の失敗から失くしてしまった鱗をさがすという内緒の旅をしている途中であり、こんな派手なことをしたことが父王にばれたら、特大の雷が落ちるのは明らかだった。
困り果てたラヴィニアは、小さな頃からの習慣で隣にある手を握る。自分と同じ色、同じ形の兄をラヴィニアは頼りにし、不安なときはいつも兄の手を握っていた。けれど今握った手は、ラヴィニアが知っているものよりごつごつとして大きかった。
「あっ」
ラヴィニアは、間違いに気づいて慌てて手を引っ込める。驚いたのは相手も同じだったようで、黒髪の騎士は珍しく狼狽した顔をして同じく手を引っ込めた。
「王女様?」
「ここにお残りになってはいただけないので?」
人々が、悲しそうな声を上げる。ラヴィニアがなんとか答えようと口を開こうとしたら、ユーニスが咳払いをしてさえぎった。
「私はユーニス・ラパス・デヴァデュルカ。我が国の騎士団長を任じられている。
ラヴィニア様は、現在、極秘に国内を回られる旅をされているところである。
これは王の命によるもので、王城からなかなかお出になれない王の代わりに、直に民の生活を見、民の声を聞き、民の心を感じるためである。
王は常に皆々のことを考え、正しく治世を行おうとされている。ラヴィニア様のお言葉は王のお言葉。ラヴィニア様の耳は王の耳。そなたらの声や気持ちは、必ずや王に伝えよう。カィエターン王国万歳!」
朗々と言い放ったのは、ユーニスである。ラヴィニアを取り囲んでいた人々は、王女の傍らに立つ何やらやけに迫力のある男の声につられて、「万歳!」と叫んだ。
「万歳!」
「万歳!」
「ラヴィニア様、万歳!」
「カィエターン王国万歳!」
人々は、両手を挙げてカィエターン王国を讃える言葉を口にする。ラヴィニアが呆気にとられてその様子を見ていると、ユーニスが身をかがめてラヴィニアの耳元で囁いた。
「ずらかるぞ」
「えっ」
ユーニスが、ラヴィニアがかぶっていた布を大きく跳ね上げる。人々が空中に舞った布に気を取られている隙に、ユーニスはラヴィニアを担ぎ上げて斜面を駆け下りた。
「きゃあああああ!」
「叫ぶな、黙れ。舌を噛むぞ」
「きゃうっ、むぐっ、■○×%◆&$*#~~~~!」
ユーニスの忠告は遅かった。力いっぱい舌を噛んだラヴィニアは、ユーニスの肩に二つ折になってぶら下がり、口を押さえる。涙目になったラヴィニアの視線の先にはどんどん遠ざかる白い木があり、その枝先に布がばさりとひっかかるのが見えた。
ラヴィニアは苦労して登った山をあっという間に降り、ふもとに待たせてあった馬に荷物のように乗せられて、水の戻った湖畔を後にした。
その後、のちに“銀竜の怒り”と言われた災害を救った聖女の姿として、一枚の絵が描かれた。
白い布を頭からかぶり、左手を白く輝く木にあて、右手を空に掲げた少女は、理知的なすみれ色の瞳を天を昇る竜に向けている。絵の題名は“奇跡”。作者不明のその絵の聖女の名は、決して語られることはなかったという。