6 転機は火傷とともに
「痛ぁい、痛い痛い痛い痛い!」
「暴れるな! 蝋燭なんぞ握り込むのが悪いんだろ!」
マドリッドが部屋に入ると、寝台の上で暴れるラヴィニアを、ユーニスが押さえ込んでいるところだった。
「ほら、水と薬」
「すまない」
マドリッドから水と軟膏を受け取ったユーニスは、ラヴィニアの左手を水差しに直接つっこむ。ラヴィニアは、その水のあまりの冷たさに、体を震わせた。
「もっとていねいにやってよ!」
「余計なことをした上、怪我までしておいて文句を言うな」
「余計なことって……! ユーニスが困ってると思って」
「あの程度、なんでもない」
「そのわりには手こずってたじゃないの」
「他に客がいたから手の内を見せないようにしていただけだ」
「美人に頼られてへらへらしてただけ、の間違いじゃないの」
ラヴィニアは、むぅっと口を尖らせる。思い返してみれば、自分に対しては粗雑なこの男が、あの女の人のことはしっかり守っていた。自分はこの国で最も大事に扱われる存在の一人のはずなのに、これはどういうことかとラヴィニアは憤慨する。
「何を馬鹿なことを」
「ま、また馬鹿って言ったっ」
「へぇ、旦那の連れは女の子だったのかい」
「「!」」
会話に紛れ込んだ声に、ラヴィニアとユーニスは一瞬動きを止める。ぎこちない動作で振り向いたユーニスの背後には、腕組みをしてにやにやと笑うマドリッドがいた。
「……まだいたのか」
「いちゃ悪いのかい?
冷やすのはもういいと思うよ。軟膏はたっぷり塗ってね。油紙で保護してから包帯を巻くといい」
「わかっている。さっきの男はなんだ」
「ふふ、露骨に話を逸らすんじゃないよ。旦那ったらおかしな趣味に目覚めたのかと思ったけど、相手が女の子ならいいさ。
ちょっと若すぎる気もするけどね」
「黙れ。
あの男の素性はわかっているんだろうな。厄介事に巻き込まれては面倒だ」
「ふん。あんなの小物さ。アンタが気にするほどのタマじゃない。ちょいと酒癖が悪いだけの小悪党さね」
「そうか」
マドリッドが、大きな胸をそらして余裕の笑みを浮かべる。そこには、さきほどまでユーニスの背後に隠れて怯えていた彼女の姿はなかった。
「少し痛む。我慢しろ」
「……」
ユーニスがラヴィニアの手を水差しから抜く。そして水気をとって薬を塗りこむと、手際よく包帯を巻いた。
ラヴィニアは薬を塗られるときに少し痛かったけれど、マドリッドがいたため黙っていた。
「手当は終わったかい? 旦那、薬代はいいから、食堂を片付けるのを手伝っておくれよ」
「なんで俺が」
「ふふ、手伝っておいたほうがいいと思うよ?」
意味深に笑うマドリッドに、ユーニスは仕方なく腰を上げる。ユーニスはマドリッドを睨みつけつつも、部屋を出て行く際に、ラヴィニアに忠告をすることは忘れなかった。
「俺が戻るまで寝ていろ。何があってもそこを動くな」
ラヴィニアはこくこくとうなずく。ぱたりと扉が締まると、急に部屋の中が静かになった。階下からは物を動かす音が聞こえるけれど、さほど大きな音ではない。
冷たかった左手が、次第に温まってくる。それまで感覚のなかった手の平が、じくじくと痛んできた。
(これが、火傷……)
火は熱い。知ってはいても、触れたことはなかった。風邪といい火傷といい、城の外にはいろいろなことがあるものだ。
ラヴィニアは、包帯の巻かれた手をじっと見つめる。
(お城に帰ったらイーティスに教えてあげよう。火傷って痛いんだよって)
それから、間近で見た喧嘩のことも。きっとイーティスは驚いたり心配したりしながら聞いてくれる。
帰ってからのあれこれを考えていたら、まぶたがだんだん重くなってきた。
ラヴィニアは階下の物音を遥か遠くに聞きながら、すとんと眠りに落ちた。
食堂の片付けは夕食時までには終わり、マドリッドの宿屋は夜には通常通りの営業を始めていた。
客の対応を店の者に任せたマドリッドは、ラヴィニアの元へ夕食を届けようとするユーニスを呼び止めた。
「ねぇ、あの子が寝たらさ、今晩アタシと、どうだい?」
「……」
マドリッドは、露出の高い服から覗く胸の谷間を、これみよがしにユーニスに押し付ける。ユーニスはそれをうるさそうに追い払い、廊下の奥へと進もうとした。
「深夜の不審な二人連れ。しかも病気持ちを抱えた男を快く泊めてやった恩義を忘れちまったのかい?」
「緊急時に協力することもあんたの任務のうちだろう」
「あの背格好といいすみれ色の瞳といい、やっぱりあの子は」
「それ以上言うな」
ユーニスが、お盆の上に乗っていたフォークを素早くマドリッドの首筋に当てる。マドリッドは両手を上げて微笑み、
「はいはい、わかってるよ。極秘任務かい? 騎士団長サマ」
と言った。
ユーニスはフォークを押し付けたまま、じっとマドリッドを見つめる。
マドリッド・アブルッツィ。
実は彼女はカィエターン王国お抱えの情報屋であり、薬師としての腕も一流で、素手で戦えばユーニスでさえ敵うかどうかわからない体術の使い手であった。
「明日、発つ」
「はいよ。あーぁ。噂の黒狼とヤレるチャンスだと思ったのにねぇ。溜めすぎて姫さま襲うんじゃないよ」
「……!」
ユーニスが、フォークをマドリッドのあご下めがけて突き上げる。マドリッドは掌底でユーニスの手をはじき、瞬時に交差させたもう片方の拳をユーニスのあごにぴたりと当てた。
「寸止めしてなきゃ、アンタ、今頃床に寝てるよ?」
「あんたもな」
ユーニスに言われてマドリッドが自分の腹部を見下ろすと、いつの間に取り出されたのか、カィエターン王国の銘が入った短剣が脇腹に押し当てられていた。
「くくっ、相打ちか。アンタは気絶。アタシは負傷。
んん、腹ぁかっ裂かれたくらいじゃアタシは止まらないからね。アタシの勝ちかな」
「そう長く気を失っていられるほどのんきな性質じゃなくてな。あんたが態勢を立て直す間に長剣を抜かせてもらうさ」
蝋燭の明かりが揺れる廊下の隅で、ユーニスとマドリッドは睨み合う。しばらくして、先に拳を引いたのはユーニスの方だった。
「スープが冷める」
「あぁ、そうだね。早く持って行ってやんな。アンタの姫様がお待ちかねさ」
マドリッドの言葉に、ユーニスがフォークを投げる。マドリッドはそれを難なく避け、フォークはビィィンと鈍い音を立てて壁に突き刺さった。マドリッドがフォークを抜いている間に、ユーニスは部屋の中へと姿を消す。
「黒狼が聞いて呆れる。狼っていうより犬だろ、ありゃ。ご主人様に振ってるしっぽが見えるようだよ、くっくくく」
マドリッドは豊満な胸を揺らして階段を降りる。食堂には、ほどよく酔いの回った客たちが、彼女の登場に口笛を吹いた。
昼過ぎ、元気になったラヴィニアは、ユーニスと共に馬に乗っていた。
一頭の馬に二人乗り。ラヴィニアは手綱を握るユーニスの前にちょこんと座り、居心地の悪い思いをしていた。
「やっぱり、一人で乗るわ」
「水泡がつぶれたら、余計治りが遅くなるぞ」
「でも」
事の発端は、朝、馬に乗って手綱を握ったラヴィニアが、顔をしかめたことにあった。ユーニスはラヴィニアの表情の変化を目ざとく見つけ、ラヴィニアが顔をしかめた原因が手の平の火傷にあることを見抜いた。
包帯をほどいて見てみると、昨日火傷をしたところが水ぶくれになっており、少し手を握るだけでも痛かった。
「あんたが馬鹿なことをするのが悪い。俺だって好きでこんなことをしているわけではない」
「うぅ」
荷物は片方の馬に全て乗っている。ラヴィニアは、せめて極力ユーニスに寄りかからないように姿勢を正して、まっすぐ前を見た。
だって、寄りかかってしまうと背中にユーニスの体温を感じて、なんだか変な感じがするのだ。乱暴で口の悪い男の、思ったより高い体温。ラヴィニアは、この温度に覚えがある気がした。
(なんでだろう)
ゆらり
ゆらゆら
おぼろげな記憶にラヴィニアは首を傾げる。そうこうするうちに馬は森の中へと入り、ユーニスは小川沿いの少し開けた場所を今日の野営地に選んだ。
「あの……ユーニス」
夕食をとり、毛布に丸まったラヴィニアが言う。
「途中で起こしてね。火の番、代わるから」
「あんたじゃ気がついたら消えてた、なんてことになりそうだ」
小枝を集めてそばに積んでいたユーニスは、一瞬驚いた顔をして、また憎まれ口を叩いた。
「そっ、そんなことないわ! 火の番くらいできるもの」
「そうか? では、今はどこにこの枝を入れたらいい?」
ユーニスが、枝を一本ラヴィニアに渡す。どこに、と言われて、ラヴィニアは困った。
「上に乗せていけばいいんじゃないの?」
「あんた、今まで何を見てたんだ。上に積んでいったらそのうちつぶれて、風の通り道がなくなるだろう。そうしたら火は消える。夜の森で火が消えるほど恐ろしいことはない」
「そ、そうなんだ……」
「その枝はここに置け。そうだ。山型になるように。次はこっちに置く。こうすれば潰れない。別の組み方もあるが、これが一番単純だ」
「焚き火一つでも奥が深いのね」
「そんなことも知らないで火の番を代わるとは、よく言えたもんだ」
「私はっ、あなたが眠れないと悪いと思ってっ」
鼻で笑われたラヴィニアは、かっとなって小枝を振り回す。ユーニスはそれを難なく受け止めて、ラヴィニアの肩をとんと押した。
ラヴィニアは草の上に転がり、腹立ち紛れに毛布をかき寄せる。
「寝る! あなたが寝不足で辛い思いをしても知らない!」
「あぁ。二、三日眠らなくても問題ない。どうしても辛かったら昼間休ませてもらう。あんたは他人の心配なんかしてないで寝ろ。まだ病み上がりなんだ」
横になると、一気に疲れが襲ってきた。ただ乗っているだけのラヴィニアでさえ疲れているのだから、タズナを持っていたユーニスはもっと疲れているだろう。そう考えて気遣ったのににべもなく断られ、ラヴィニアは損をした気分になった。
「言われなくても寝ます。おやすみっ」
丸太を枕に丸まったラヴィニアは、眠ったふりをする。
ユーニスがあくびの一つでもすれば、ほら見たことか、と代わりを申し出るつもりだったのだが、大げさに寝息を立てているうちに本当に眠くなってきた。
パチパチと薪の爆ぜる音を聞きながらうとうととしていたら、髪に何かが触れた。
誰かに頭を撫でられるような感触。
ラヴィニアは、
(ユーニス……?)
と思ったけれど、彼が自分の頭を撫でるはずがないと、心の中ですぐに否定した。
(きっと、私もう眠ってるんだわ。それで、夢を見ているの)
だとすれば、頭を撫でたのはイーティスだ。イーティスは、ラヴィニアの髪の感触が気持ちいいと、よく頭を触ってくる。自分だって同じ感触なのに。
「くす」
ラヴィニアは笑う。
夢の中で彼女は、きれいなドレスを着て温かな家族に囲まれて、おいしいお茶とお菓子を食べていた。
宿を出て二日後の午後、ラヴィニアとユーニスは五色湖と呼ばれる湖の前にいた。地図に記された言葉は『塩』。
その言葉通り、五色湖は塩水の湖だった。
「しょっぱ~い!」
湖の水をぺろりと舐めたラヴィニアが言う。湖の周りは真っ白に染まり、砂ではなく塩の結晶がいたるところに見られた。
「よし! じゃぁ、今度こそ鱗をとってくるわ!」
はりきったラヴィニアが、服を脱ごうとする。しかしそれをユーニスが止めた。
「よく見ろ。この湖は浅い。服を脱ぐ必要はない」
「え?」
ユーニスに言われて見てみれば、湖はどこまでも遠浅で、水の深さはラヴィニアのくるぶしほどしかなかった。ユーニスの話によれば、この湖の深さは一年中これくらいで、それゆえに湖の表面が鏡のようになって空を写し、朝焼けの空や真昼の青空、夕焼け、星空などそのときの空模様によって五色に色を変えるので、五色湖と呼ばれるとのことだった。
ユーニスは、話しながらラヴィニアの腰に縄をぐるぐると巻いていく。
「何これ」
「また引きずられたときのためだ」
「なんだか家畜のようで嫌だわ」
「我慢しろ」
縄の先をユーニスに持たれ、ラヴィニアは渋々と湖に入っていく。浅い湖はさほど冷たくはなく、足の裏にあたる塩のざらざらとした感触が気持ちよかった。
「どうだ?」
「何も起こらないわ」
縄が届くぎりぎりまで歩いて行っても、湖に変化はない。
「やっぱり裸じゃないとだめなのかな」
ラヴィニアはするすると服を脱ぎ、上着を脱ぐのに邪魔だと縄もほどいてしまった。
「おい」
「わかってる。縛りなおすから」
ラヴィニアが、足元の落とした縄を拾おうとする。けれど、ここは塩の結晶ができるほどの塩湖である。ラヴィニアは左手が水に入った瞬間、つま先から頭のてっぺんに突き抜けるほどの痛みを覚えて固まった。
「~~~~~~~~!」
左手を押さえてうずくまる。火傷でただれた皮膚に塩がしみて、目尻に涙が浮かんだ。
「どうした!」
突然座り込んだラヴィニアに、ユーニスが呼びかける。ラヴィニアは立ち上がり、「大丈夫」と言おうとしたとき、涙が一粒、ころりと湖に落ちた。
カッ――
湖が、銀色の光に包まれる。
と同時に、ざらざらしていた足元が滑らかな一枚板のような感触になった。
「出た! 鱗! 今度こそ取るわ! あぁ、でも手がっ」
塩水に触ったら、絶対痛い。でもここで躊躇しては鱗がとれない。
ラヴィニアは意を決して湖に手をつっこみ、目星をつけた鱗をつかんだ。
「やった! これを取れば……!」
鱗は思ったよりがっちりと竜の体にくっついていて、引っ張っても簡単には取れそうにない。ラヴィニアは掴んだ鱗を左右にゆすり、引っこ抜こうとした。
「ラヴィ! ラヴィニア! だめだ、戻れ!」
遠くでユーニスの声が聞こえる。
「もうすぐ取れるから! 待ってて!」
「だめだ! もど……、ラ……、……ア!」
「え?」
ユーニスの声が途切れ途切れになるに至って、ラヴィニアはようやく顔をあげた。するとはるか遠くに必死に駆けてくるユーニスと白い岸辺が見えた。
「なんで……あっ」
ラヴィニアは忘れていた。姿を表した銀龍は猛烈な速さで湖の中央に潜っていくことを。
気づけばくるぶしほどの深さだった水はすでに膝下まで来ており、少し先に目をやると、あきらかに湖の色が違っていた。
深い深い、底の見えない青。
あそこに引きずり込まれたらどうなってしまうのだろう。
恐怖に駆られたラヴィニアは、鱗から手を離して一心不乱に岸めがけて駆け出した。
「ラヴィニア!」
「ユーニス!」
駆けてきたユーニスに、ラヴィニアが飛びつく。ラヴィニアの足が湖から離れた途端、湖の底はすぅっと元の塩の結晶に戻った。
「んん、惜しかったわ。もう少しで取れたのに」
「この馬鹿! 鱗が取れたってあんたが死んだら元も子もないだろう!」
「わっ」
裸でユーニスにしがみついていたラヴィニアは、耳元で盛大に怒鳴られて驚く。
「そんなに大きな声を出さなくたっていいじゃない」
「あんたがあんまりのんきなことを言うからだ!」
怒鳴りながらも、ユーニスはラヴィニアを横抱きにして岸に向かう。
岸に着き、毛布でぐるぐる巻きにされたラヴィニアは、森の中に湧き出る清水で体を洗ってから衣服を身につけた。
「もういいか」
ラヴィニアが着替える間、後ろを向いていたユーニスが言う。
「いいよ。別に、わざわざ後ろを向くこともないんだけど」
「あんた、少し恥じらいというものを覚えろ」
「? どういうこと?」
ラヴィニアとて、必要もないのに裸体をさらす趣味はない。けれど、どうやら銀竜を呼ぶ儀式は裸でなければならないらしいし、人目につくわけでもないので、服を脱ぐことに抵抗はなかった。
「俺がいるだろう」
「いるけど、あなたは私の供でしょう? あ、私があなたの従者なんだっけ」
「……。
そうだな。あんたは一向に口調も態度も変わらないが。それでは次に宿屋に泊まれるのはいつになるかわからない」
「ううう、がんばるわよ……じゃない、がんばるよ」
一人で服を着られるようになっただけでも進歩なのだが、口調を直すというのはなかなかに難しい。
その日、ラヴィニアはユーニスが仮眠をとっている間、言葉の練習に励み、夜はすっかり慣れ親しんだ草の褥でぐっすりと眠った。