5 ぬくもりは夢の中に
翌朝、野営をした森の中で目を覚ましたラヴィニアは、起き上がろうとしてやけに体が重いことに気づいた。
「?」
腕を持ち上げようとしても上げられない。声を出そうとしても、喉に何か引っかかったような感じがしてうまく声が出ない。そして頭を起こそうとしたら、ガンガンと中から叩かれるような痛みがあった。
「顔が赤い。熱があるな」
ラヴィニアの様子がおかしいことに気がついたのだろう。ユーニスがラヴィニアの額に手を当ててそう言った。
「熱?」
「あぁ。昨日さんざん濡れたせいだろう。仕方ない、今日は休養日だ。一日寝ていろ」
「い、嫌よ。次の湖に行きましょう」
「馬鹿言うな。そんな状態で馬に乗れるか。早く治したければ寝ているのが一番だ」
「大丈夫。乗れ……るから」
ラヴィニアは、自分の腕を支えにしてなんとか起きようとする。しかし、上半身を起こしたところでがくりと肘が折れ、地面に突っ伏した。
「頭痛い……寒い……」
「風邪だな。寒気がするのでは、まだこれから熱が上がるんだろう」
「これが、風邪」
城でぬくぬくと育ったラヴィニアは、話には聞いていたが風邪というものにかかったことがなかった。それどころか、病気らしい病気も怪我らしい怪我もしたことがなかった。
「熱冷ましの薬草を探してくる。大人しく寝てろ」
「ま、待って」
ユーニスが立ち上がるのを、長衣の裾をつかんで引き止める。
こんな、頭を殴られ続けるような痛みと背中に氷を常時押し付けられているような寒気の中、一人取り残されるのはどうしようもなく怖かった。
「風邪とはそういうものだ。すぐ戻るから寝ていろ」
「私も行く」
「阿呆か」
「あ、あほって」
馬鹿の次はそれ!? とラヴィニアは涙ぐむ。具合が悪いせいか、涙腺がゆるい。
「無理に動き回るなど、風邪が悪化するだけだ。手を離せ」
無情にも、ユーニスは裾を払ってラヴィニアの手を振り払う。ラヴィニアは力なく草の上に倒れ込んだ。
「うぅ……鱗さえ見つければ……あなたなんか……あなたなんか……」
うなるラヴィニアの額には汗が浮かぶ。ユーニスはラヴィニアの肩に毛布をかけると、森の中へと分け入って行った。
寒い。
寒い。
頭が痛い。
体が動かない。
う。
何?
苦い。
やだ。何コレ。
いらない。
「吐き出すな。飲め」
やだよう。
甘くして。
「無茶言うな」
うぅ。
う……。
寒い。
寒い。
寒い。
あれ?
あったかい。
背中、あったかい。
イーティス?
そうだ、子どもの頃はよくイーティスの寝台に潜り込んだっけ。
二人でくっついて寝ると、温かくて気持ちがよかった。
イーティスは私が眠るまで、私の頭を撫でてくれていた。
ゆらり
ゆらゆら
体が揺れる。
イーティス……。
うっすらと目を開けたラヴィニアの瞳に映った色は黒。
あれ?
イーティスは私と同じ、きれいな金色の髪のはず。
あぁ、でも私は今、泥みたいな変な色の髪になってたんだっけ。
それもこれもあの口の悪い冷血男のせい。
私のことをすぐ馬鹿馬鹿言って。
馬鹿って何よ。馬鹿っていうほうが馬鹿なんだからねっ
挙げ句の果てに、阿呆とか言うし。
あんなのがよく騎士団長なんて務まってるわ。絶対に人選ミス。
イーティスが国を継いだら、あんな人、クビにしてもらうんだから。
どうせ部下にも人気なんてないだろうし、きっとモテないわ。一生独身で寂しい老後を送ればいいのよ。
なんでお父様はあんな人を私の供にしたのかしら。
うぅ、頭が痛いよぅ。
口の中が苦くて気持ち悪いよぅ。
「あなたなんか、嫌い……馬鹿……どっかいっちゃえ……」
「あのな。うなされながら文句言うなよ」
ユーニスの声が、ごく近くから聞こえる。
どうしてだろう。自分は今イーティスと寝ているのではなかったのか。
そう思いながら、ラヴィニアは自分を支える温かな体に頬をすりよせた。
気がつくと、ラヴィニアは簡素な寝台の上にいた。
城の寝台ほど柔らかくはないが、それでも草の上よりずっと心地よい肌触りに、ラヴィニアは首を傾げる。
「ここは……?」
「二つ目の湖に向かう途中の、ニレという街にある宿屋の二階だ」
頭上から降ってきた声にラヴィニアが首をめぐらせると、琥珀色の瞳と目があった。
「ユーニ……ス」
「食うか?」
ユーニスは、ラヴィニアの隣の寝台に腰掛けていた。
ユーニスは、ラヴィニアが目覚めるタイミングがわかっていたかのように、湯気のたった食事を差し出してきた。ラヴィニアはいい匂いに誘われて、体を起こす。あんなに重かった体だけれど、今日はすんなりと起き上がることができた。
シンプルに塩だけで味付けをしたスープと、焼きたてのパン。スープはほんの少しの野菜しか入っていなくて、パンには雑穀がまざっていたけれど、温かな食事は美味しかった。
「ごちそうさまでした」
「これも飲め」
食事をきれいに平らげたラヴィニアにユーニスがさらに差し出したのは、お椀に入った緑色の液体だ。
「……薬?」
「あぁ」
「苦い?」
「あぁ」
「……いらない」
ラヴィニアがぷいっと横を向くと、ユーニスはラヴィニアの顎をつかんで上向かせ、問答無用で薬を流し込んだ。
「ご、ごほっ
うぇっ、美味しくない……!」
「余計な手間をかけさせるな」
「あなたって人は……っ」
むせながらも言い返そうとするラヴィニアを、ユーニスは寝台に押し倒す。そして寝具をかけると、人差し指を口の前に立てた。
「大きな声を出すな。素性がばれてもいいのか?」
「っ」
「あんたの言動は、まだまだ俺の従者どころか男にすら見えない。
本当ならまだ街には立ち寄りたくなかったが、熱が下がらなくて仕方なく宿をとったんだ。黙ってひたすら寝て、早く治せ」
「もう大丈夫。すぐ行ける」
「無茶言うな。あんたは三日三晩寝込んでたんだぞ。
焦ることはない。次の湖はここから馬で二日ほどのところにある、五色湖と呼ばれるところだ。元気になれば、すぐに着く」
「いつ治るの?」
「食えるようになれば、すぐだろ。早ければ明日、遅くとも明後日には出発できる。ただし、あんたが俺の言うことをちゃんと聞いて、大人しく寝ていればの話だ」
「わかった。寝てる」
「よし」
寝具を顎まで引き上げたラヴィニアの頭を、ユーニスがぽんと撫でる。ほっとしたようにわずかに頬が緩んだ彼の顔を見て、ラヴィニアは少なからず心配をかけたのかもしれないと思った。
「ありがとう」
「……いや」
ラヴィニアが礼を言うと、ユーニスは一瞬気まずそうな顔をして手を引っ込めた。
ラヴィニアは、このまま彼がどこかに行くのかと思ってユーニスの袖をつかんだ。
「なんだ」
「私が眠るまで、ここにいてくれない?」
「甘えるな。俺はあんたの兄でも父親でもない。
俺は下の食堂で飯を食ってくるから、さっさと寝ろ」
袖を握った手は、またもや振り払われた。バタンと閉じた扉に、ラヴィニアは舌を出す。
「何よ、冷血漢」
弱っているときくらい、優しくしてくれてもいいのに。
さっきユーニスが微笑んだように見えたのは、幻だったのかもしれない。
ラヴィニアは、すんと鼻を鳴らすと、一刻も早くこの旅を終わらせるため、とにかく眠ることにした。
深夜、ラヴィニアはふいに目が覚めた。
室内の明かりは窓から差し込む月の光しかなく、薄暗い。
ラヴィニアは、習慣で枕元にあるはずのベルを取ろうとした。城では、夜中でも手元のベルを鳴らせばすぐに侍女が飛んでくれたからだ。けれど指は空をきり、ベルを見つけることはできなかった。
(そうだわ、ここはお城じゃなくて……)
隣を見ると、ユーニスが背中を向けて眠っていた。肩が上下し、ごくわずかに寝息も聞こえる。
ラヴィニアはまずその姿に違和感を覚え、次に眠っているところを初めて見たことに気づいた。
(野営のとき、私はいつも先に寝ちゃって……。あれ? でも一晩中焚き火はついてたよね?)
ということは。
ユーニスは、外にいる間ほとんど眠っていなかった?
「あなたのほうが具合悪くなっちゃうわよ……馬鹿」
こんな旅に出ることになったのは、元はといえば自分のせいだ。騎士団長という責任ある立場にありながら、突然巻き込まれたユーニスのほうが、いい迷惑だったろう。
早く風邪を治して早く鱗を見つけよう。
ラヴィニアはユーニスと同じ向きに体を向け、兄よりもずっと大きな背中を見ながら眠りについた。
翌朝、ラヴィニアはすっきりと目が覚めた。
「おはよう、ユーニス」
「あぁ。
今日は顔色がいいな。念のためもう一日休んで、明日出発しよう」
「うん」
ラヴィニアは朝食をとり、苦い薬湯を大人しく飲んで、寝台に横になった。
「……やはり明日も寝ていたほうがいいか?」
「なんで? 私は今日でもいいわ。でもユーニスが寝てろっていうから、寝てることにする。
ちゃんと治して、明日は万全の体調で出発しましょう」
「そ、そうか」
ラヴィニアがユーニスの目をまっすぐ見て微笑むと、ユーニスはたじろいだように後ずさった。
「では、宿の主人に携帯できる食料を揃えておいてくれるように頼んでくる」
「ん」
パタンと閉じられた扉に、ラヴィニアは目を閉じる。薬湯には眠気を催す成分も入っているのか、いくらでも眠れる感じがした。
ひとしきり眠ったラヴィニアは、大きな音で目を覚ました。
「……っ、……! ……っ」
階下で、人が怒鳴り合う声がする。
どかっという大きな物がぶつかるような音や、「キャー」という女性の悲鳴も聞こえた。
「な、何?」
起き上がったラヴィニアは、部屋の中を見渡す。ユーニスの姿はなく、物音や罵声が止む気配もない。
ラヴィニアは寝台から出ると、マスクをつけてそっと階下に降りた。
「てめぇ、ふざけんな! 俺の女に粉ぁかけやがって!」
「ふざけてるのはどっち!? 誰があんたの女よ! いい加減にして!」
ラヴィニアが階段の手すりの隙間から覗き見ると、一階は広い食堂になっていた。食堂には椅子やテーブルが散らばり、その中央では、太った禿げ頭の男と豊満な胸を持つ美女が怒鳴り合っていた。
「おいおい、つれねぇなぁ、マドリッド。若い男が現れたとたん、それか? 俺があんたにいくら使ったと思ってんだ」
「チップ程度のはした金でアタシの男ヅラされたくないね! うちにはあんたに食わせる飯なんて麦の一粒もありゃしないよ。とっとと出ていきな!」
「てんめぇっ」
女性の啖呵に、男が手近にあった椅子を持ち上げて投げつける。
彼女に当たる! とラヴィニアが目を閉じると、悲鳴の代わりに板が砕けるような音がした。
「くそがっ」
男が、誰かに殴りかかる。階段の影になってよく見えなかったラヴィニアは、途中の踊り場まで階段を下りると、手すりにつかまって身を乗り出した。
砕けた椅子。割れた食器。逃げ惑う人々。
禿げ頭の男はぶんぶんと腕を振り回し、それが効果がないとわかると、手当たり次第に周りの物を投げ始めた。
「やめて! やめなさい!」
「うるせぇ! こんな店、ぶっつぶしてやる!」
男が再び椅子を持ち上げる。高く掲げられた椅子が投げられる瞬間、黒い影が男の胴をなぎ払った。
「ぐえっ」
「迷惑だ。帰れ」
「ユーニス!」
ラヴィニアは、驚きの声を上げる。美女を背後にかばい、髭面の男と相対していたのはユーニスだった。
ユーニスは、ラヴィニアの声に気づくと上を見上げ、眉根を寄せるとシッシッと犬でも追い払うかのように手を振った。
「はんっ、ざまぁみやがれ! いつも強ぶってるあんたもこの旦那にはかなわないようだね!」
「うるせぇ! てめぇ、許さねぇぞ。この俺様に恥かかせやがって、ぶっ殺してやる!」
男が、巨体を揺らしてユーニスに向かっていく。ユーニスは美女を背後にかばったままひらりと男を避け、足をかけた。
がしゃーん! と大きな音を立てて男が転ぶ。割れたグラスの破片が男の頭に刺さり、男はだらだらと血を流した。
「痛ぇ……痛ぇじゃねぇか」
「ち、ちょっと、大丈夫かい? もうあきらめなよ。今なら酔っぱらいの喧嘩で許してやるからさ」
「あぁん? 俺ぁ、酔ってなんかいねぇぜ。
くそが、ちっとばかしいい男だからって調子に乗りやがって。死ね!」
「ひっ」
「……」
男が、酒瓶を手にする。そして壁にぶつけて瓶を割ると、尖った先をユーニスに向けた。
「へへっ、色男さんよ。てめぇの顔、二度と表を歩けねぇようにしてやるぜ」
「馬鹿なことはおよし!」
割れた酒瓶を向ける男に、ユーニスは鞘に入れたままの剣をかまえる。先程から彼は一度も剣を抜くことなく、この鞘で男の攻撃をかわしたり男の胴を払ったりしていた。
「なんだ、その剣はなまくらかぁ? 抜けよ。ほら、来い」
男がユーニスを挑発する。階段の踊り場ではらはらしながら様子を伺っていたラヴィニアは、何か自分にもできることはないかと辺りを見回した。すると、壁に据え付けられた燭台が目に入った。
「ほぉら、来いよぅ。へっへへへ」
男は酒瓶を揺らしてうすら笑いを浮かべている。ユーニスは男が向かってこない限り手を出す気はないのか、鞘をかまえたまま微動だにしない。
ラヴィニアは燭台の蝋燭を手に取ると、同じくそばに置かれていた火打石を持って、侍女の手つきを思い出しながら見よう見まねで火をつけた。
「マドリッドぉ。そんな優男より俺のほうがいいぜぇ? へっへ、朝までかわいがってやるからよぉ」
「気色の悪いことをお言いでないよ! 旦那、やっちまって! こんな男、客でもなんでもない! 責任はアタシが取るからさ!」
「なんだとぉ? このクソ女、体で客とってるくせに上品ぶるんじゃねぇよ! 俺ぁ、知ってるんだぜ、おまえが……」
男が、今度は女性に酒瓶を向ける。ユーニスの背中から顔を出していた女性は、びくっと肩を揺らしてまたユーニスの背後に隠れた。
男が一歩、ユーニスに近づく。ラヴィニアは手すりの間から顔を覗かせ、男の禿げ頭目がけて手にした蝋燭を傾けた。
「おまえが気に入った男を二階の部屋に……あっ、あちちちち!」
ぽたぽたっと垂れた蝋が、男の禿げ頭に命中する。
男は酒瓶を放り投げて頭をかばい、その隙にユーニスが男の背後に回って手刀を落とした。
崩れ落ちた男が、床に倒れこむ。つるつるの頭には、熱せられた蝋による赤い跡がついていた。
「やった! ユーニス、すごい!」
「この馬鹿が! 部屋に戻れ!」
手ばたきをして喜ぶラヴィニアに、ユーニスが怒鳴りつける。先ほどの男女のやりとりよりもよほど大きな声にラヴィニアは驚いて蝋燭を落としそうになり、慌てて持ち直そうとして火のついた先を掴んでしまった。
「熱っ」
じゅっと音がして、火が消える。駆けつけたユーニスが開いた手の平には、男の頭より酷い火傷ができていた。
「えっ、あ、ユーニス?」
ユーニスが、ラヴィニアの手を引き寄せる。
ユーニスはラヴィニアが止める間もなく、赤黒く変色した手の平に唇を寄せた。
「痛っ、や、やめて、ユーニス! んっ、んんんっ」
火傷したところを舐められて、ラヴィニアは身をよじって逃げようとした。けれどユーニスはそれを許さず、煤の跡を舐め取るとラヴィニアを抱き上げた。
「マドリッド、水!」
「あぁん? 待っとくれ。こっちの片付けがまだなんだよ」
「片付けより水が先だ!」
「あぁ、はいはい。何だよ、もう。アタシが言い寄っても全然しゃべらなかったくせに、まったく……」
宿のおかみ――マドリッドは髪をかきあげて調理場へと向かう。
そして瓶に汲んでおいた冷たい水と軟膏をお盆に乗せると、胸同様大きなお尻を揺らして、ユーニスの後を追った。