1 はじまりはため息とともに
カィエターン王国には、建国の祖がもたらしたという銀竜の鱗がついた王冠がある。銀竜は、カィエターン王国のはるか北、ベネティクト山脈にあるサガルマータという山に棲んでいるという。
始祖が記した書物にはこう書かれている。
『……数々の町や村を超え、銀の道が示す先に、それは在った。~(中略)~気高き孤高の存在よ。穢れ無き者のみが彼の者にあいまみえることができるであろう』
「ですからね、姫様。この王冠は、それはそれは大切なものなのです。
それをひっくり返して落としたあげく、聖水をぶっかけて鱗を失わせるとは……!」
「きいぃっ」と奇声を発して、カィエターン王国第一王女ラヴィニアの教育係であるソシエが卒倒する。白目を向いて泡を吹く彼女に侍女たちが駆け寄り、抱え上げてバタバタと隣室に運んでいった。
今日は、来年行われるラヴィニアの双子の兄・イーティスの戴冠式のために、宝具の点検を王族一家で行っているところだった。めったに見られない宝具に興奮したラヴィニアは、ちょっとした好奇心で、兄しかかぶれない王冠をかぶってみようと思ったのだ。
「ラヴィニア。銀竜の鱗は水につけてはいけないのは知っておるな」
「はい、お父様」
「銀竜の鱗は、めったなことでは壊れない。しかし、水に触れることだけは厳禁なのだ。なぜなら、国に繁栄をもたらすという鱗が、銀竜のもとに戻ってしまうからじゃ」
「よく、存じ上げております」
「なのに、なぜ聖水をそばに置いておいたのじゃ」
「王冠を、拭こうと思って」
「そもそもそれが間違っておる!」
ぴしゃぁん! と父王の雷が落ちる。びくっと肩をすくめたラヴィニアは、しかし「てへっ」と舌を出した。
「ごめんなさい、お父様。でも、ほら、お兄様の戴冠式は来年だし、それまでに新しいのを作れば」
「馬あぁっっっっっ鹿もん!」
「やぁぁんっ」
盛大な唾きとともに怒鳴られたラヴィニアは、咄嗟に兄の後ろに隠れる。ふわりと風に揺れる金の髪にすみれ色の瞳。ラヴィニアと同じ色合いを持った兄は、ラヴィニアにはない落ち着きを発揮して、父をなだめた。
「まぁまぁ、父上。ラヴィニアは鱗の価値がわかっていないのです。
ラヴィニア、新しく作ればいいと君は言うけれど、銀竜の鱗は、私たちの祖先がもたらしたもの以外、ひとつも市場に存在しないんだよ」
「え……」
「だから、消えてしまった鱗の代わりはないんだ。鱗のない王冠をかぶったとして、はたして民は僕を王と認めてくれるかどうか……」
「そんな!
えっと、あの、じゃぁ、似たような色の貝殻を磨いてはめるとか」
「見る角度によって虹色に輝く銀の貝なんて、あると思う?」
「聞いたことない……。
じゃぁ、どうすれば……」
ここにきて、ラヴィニアは事の重大性をようやく理解した。
自分のせいでなくなってしまった鱗。それがそんなに希少なものだとはわかっていなかった。
「お父様、お母様、どうしよう」
両手を胸の前で組み、すがるように見つめてくる娘に、国王夫妻は顔を見合わせてため息をつく。
「おまえが、探しに行くしかないの」
「えっ」
「幸いなことに、始祖が銀竜の元へ旅したときの記録は、王家の書庫に残っておる。しかし、その内容を部外者に漏らすわけにはいかん。かといって、わしやイーティスが出かけるわけにもいかん。おまえしかいないのじゃ。
安心しろ、供はつける」
「私が、鱗を探しに? それはあの、何日くらいかかるものなのですか?」
今まで他にひとつも見つかっていないというものが、一週間やそこらでとって帰ってこられるとは思えない。そんなに長い旅に出たことのなかったラヴィニアは、さすがに不安そうな顔になった。
「わからん。世界中を旅した始祖の記録は膨大でな。銀竜に関するものだけ抜き出すにも、それなりの時間がかかる。これは王妃とイーティスにやってもらうから、ラヴィニアは旅の準備をするがよい」
「は、はい」
「わしはおまえと共に旅に出るものを選出するからの。
おまえのことだ、よほどしっかりした者を供につけないと、何をしでかすかわからん。
うぬぅ、これも時間がかかるわい……」
「す、すみません」
嫌だといっても、原因を作ってしまったのは自分である。ラヴィニアはがっくりとうなだれて、父に言われた通り、旅支度をすることにした。
数日後、ラヴィニアの供を決めた王は、娘の部屋を訪れて、再び雷を落とすことになる。
「馬っ鹿もん! こんなに持っていけるわけがないじゃろう!」
娘の部屋で王が見たのは、ドレス、靴、アクセサリーなどの山だった。
「あの、だって、何日にも渡る旅なのでしょう? 着替えがたくさんいるわ。靴だって、このドレスにはこっちだし、あのドレスにはあっちの靴が……」
「そんなに持ちきれるわけがないであろう!
ラヴィニア! おまえはこの男と二人、騎馬で鱗探しの旅に出るのじゃ!」
「は……?」
「え……?」
「騎馬……?」
ラヴィニアと、少しは事情を知っていてラヴィニアの手伝いをしていた侍女たちが、ぽかんと口を開ける。ラヴィニアたちは、てっきり馬車を組んで、何人ものお供と騎士を連れて旅に出るのだと思っていた。
「そんなわけがあるか。そんなことをしたら、鱗がなくなったことを人々に知らしめるようなものじゃろうて」
「あ、そっか」
ぽんと手を打って納得するラヴィニアに、王はため息をつく。
「黒狼よ。こんなやつだが、よろしく頼む」
「御意」
王の後ろで、低い声がした。そのとき、初めてラヴィニアは、父が一人で自分の部屋に来たのではないことに気づいた。
「どなたですか?」
「おまえと共に旅に出る、ユーニス・ラパス・デヴァデュルカじゃ。我が国の騎士団長の顔くらい覚えておくがよい」
「騎士団長……」
父の後ろに膝をついている男が、顔を上げる。黒髪に琥珀色の瞳、黒い鎧。一目見て、ラヴィニアは彼が“黒狼”と呼ばれた理由がわかった。
「あなたが私と一緒に行ってくださるの? よろしくね」
「身に余る光栄です。不肖、ユーニス・ラパス・デヴァデュルカ、誠心誠意お仕えさせていただきます」
「黒狼、遠慮はするなよ。必要なことは多少厳しくとも言ってやってくれ。わしの子育ての不出来を押し付けるようで悪いが、ラヴィニアには少々世間知らずなところがあってな。迷惑をかけるが、重ねて頼む」
「私などにもったいないお言葉、ありがとうございます。主君にお仕えするは臣下の務め。無事、御命を果たして帰ること、この命と剣に誓います」
王と黒狼とのやりとりを、ラヴィニアは黙って見ている。
本当は「臣下にそこまで丁寧に頼むことないんじゃないの」とか、「世間知らずで悪かったわね」とか言いたかったが、黙っていた。
「荷造りもな、見ての通りじゃ。何が必要で何が必要でないか、さっぱりわかっておらん。
黒狼、おまえが必要と思うものを街で揃えて、請求書だけ城につけてくれ」
「御意」
「え、お父様。待ってください。私の持ち物をこの男が選ぶんですか?」
「ラヴィニア。“この男”じゃない。ユーニスじゃ」
「ユー・ニ・ス騎士団長サマが選ぶんですか!? 嫌です。自分のものくらい自分で選びます」
「自分で選んだ結果がこれじゃろう。出発は明日だ。黙って言うことを聞け」
「お父様!」
旅路の確認をしてくる、と王はラヴィニアの部屋を去る。侍女たちも王によって退去を命じられ、ユーニスと二人部屋に残されたラヴィニアは、途方に暮れた。
「こんな……真っ黒な服しか着てない人のセンスなんて信用できない……」
「悪かったな」
「え」
ユーニスが、すっくと立ち上がる。見上げるほど背の高い彼に間近に立たれたラヴィニアは、びくっと震えて身をすくませた。
「王が遠慮はするなとおっしゃられたからな。言わせてもらう。
明日までに髪を切って色を染めろ。そんな目立つ色では旅はできない。目の色は変えられないから、マスクをしろ。目元を布で覆うだけでも印象が変わる」
「目を? 目隠しなんてしたら、前が見えないじゃない」
「あんたは馬鹿か。目のところは開いているに決まっているだろう」
「馬っ……」
馬鹿? 馬鹿って言った!? とラヴィニアは体を震わせる。父に言われるのとは違う。この男は臣下のはずだ。その男に、王女である自分が馬鹿呼ばわりされるなんて!
「それから、これからあんたは俺の従者ということにさせてもらう。銀竜の鱗を探す冒険者とその従者だ。つまりは俺がご主人様。そのつもりでしゃべれよ」
「な……な……」
ふるふると震えるラヴィニアは、二の句が告げない。
「明日の朝、夜明け前に東門に来い。衣服は今夜のうちに届けさせる。荷物は俺が用意しておくから、服以外何も身につけてくるな」
ユーニスは、ラヴィニアにそう言いおいて、とっとと部屋を出て行ってしまった。ぱたん、としまった扉の音に、ラヴィニアの固まっていた体が動き出す。
「なんなの、あの男おおおおおおお!」
どすっ
ばたんっ
どかっ
投げられたクッションが、ユーニスの閉めた扉にぶつかって、大きな音を立てる。
「姫様、あの、ちょっとお行儀が」
「うるさいわねっ こんなときに上品になんてしてられるもんですかっ」
戻ってきた侍女が止めるのも聞かずに、ラヴィニアはクッションへの八つ当たりを続ける。
扉の向こうでは、すぐには立ち去らなかった騎士団長が、盛大なため息をついた。