プロローグ
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助けて下さい。
助けて下さい、助けて下さい!
心の中で唸るように祈り、ぼくは冷たい石畳の上を駆け走る。―――許して下さい、助けて下さい! どうしてぼくがこんなことにならなければいけないんだ。普通に、身の丈にあった幸せを望んでいただけなのに!
美しい姉を持ったのがいけなかったのか。彼女に大切にされて育ったのがいけなかったのか。それとも、現王に見初められ後宮入りした彼女が、つい先週亡くなったのがぼくの不幸の始まりだったのだろうか。今となっては、わからない。
でも、ひとつだけわかることがあった。今、ここで捕まったら……! 死んだほうがましだと思えるような、口にだすだけでもおぞましいことがおきる。あいつらはぼくの人権なんて、どうとも思っていない。
ぼくは幸せに、幸せになりたかっただけなのに。
ぽろりと生暖かい液体が頬をつたう。姉が死んでから、衝撃すぎて流すことのなかった涙が、今、恐怖によって流れ出す。あうあうと泣き叫びながら走って、もう自分には遠くまで走れるほどの体力が残ってないことに気づく。そしてべたりと石畳の上に転がり落ちた。だっだっだと、重苦しく走る人の音が遠くから聞こえてくる。
反抗する気は起きなかった。
ただ、自然と、目の上にふりかかる暖かい光を感じていた。走っていて乾いた瞳から、また涙が流れる。今度は、恐怖による涙ではなかった。
「ねえ、さん……」
ぼくは、姉さんの弟でいられて、ほんとうによかったと思っています。
*
女子高生は多忙だ。埋まる埋まる週末の予定に、スケジュール帳を見てむふふと幸せそうに笑う。ぴょんと高い位置に縛られたポニーテールに、赤い縁のめがねをかけた高校二年生。成績は悪くも無い、運動は少し苦手な、普通の女子高生だった。名前は、斑鳩郁未(いかるがいくみ)という。
スケジュール帳をスクールバッグにしまって席をたつ。もう時間は下校の時間になっていた。本来ならいつも一緒に帰る友人が、今日偶然風邪をひいて休んでしまったので、郁未は一人で帰るのだ。べつにさびしくは無い。一人でいるのは慣れっこだった。
窓から見える校庭では、外部活動が活発に活動していた。ヤーとか、オーとかよく聞き取れない声を発して、彼らは青春を謳歌している。郁未は、そんな彼らを一瞥して、再び視線を前に戻す。渡り廊下を渡って、階段に行き着くと、郁未はゆっくりとした動作で階段を一段一段下りていった。
ガタン!
大きな音がしたかと思うと、郁未は誰かに背中を押された。階段から床までまだ遠い。郁未は重力に逆らうことなく落下した。どうして自分がこんなことになったのか、理解もできぬまま。
ぼんやりとスローモーションに落ちていく景色の中、郁未は、パンプキン色のふんわりとした髪の、きれいな女性の姿を捉えた。そして彼女の目が申し訳なさそうに伏していくのを見て、そこで意識が途絶えた。
カツン。女性は優美な動作で階段を下り、郁未に近づく。衝撃で腕が変な方向に曲がり、頭からは血が流れている。女性はそれを痛々しい目で見つめ、髪を撫でた。郁未の黒い髪が払われ、彼女の顔があらわになる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
女性は泣きながらうわ言を呟く。ごめんなさい、ごめんなさい、と。
やがて、女性はその場からいなくなり、階段の踊り場には、血まみれになった郁未が残された。
王道的ラブロマンスになればいいです。よろしくお願いします。