1 犬になったぼく
この物語はフィクションですが、真実を描いています。
1 犬になったぼく
ぼくはタロウ。
でも、なぜだか分からないけど、ジロウになっちゃってるみたいなんだ。
わけが分からないって?
ぼくにだって、まったくわけが分からない。
自分自身の頭のなかを整理するためにも、順を追って考えてみよう。
まず、ぼくは小学三年生だ。
ごくふつうの町のごくふつうの小学生。
人より体が小さくて、列をつくって並ぶときには、いつも一番先頭に立つ。
クラスでは、いきもの係をやっている。
ふつう、係は入れ替わるものなんだけど、ぼくの場合はずっといきもの係だ。
学校では九官鳥を飼っている。
それからうさぎも。
にわとりも。
亀も飼っている。
ぼくはそういった小動物が大好きだ。
犬も好きだし、猫も好き。
でも、ママはぼくと正反対。
動物が大嫌いなんだ。
ぼくはうちでも犬を飼いたいと思っているが、ママが反対するからダメだ。
パパはぼくと同じ意見なんだけどね。
将来は獣医かペットショップの店員になりたい。
だから、いきもの係は将来のための勉強でもある。
学校の勉強は苦手だけど、こういう勉強なら全然苦にならない。
ある日の放課後、ぼくはうさぎ小屋の裏で一匹の子犬をみつけた。
まだよちよち歩きが抜けない小さな柴犬だった。
痩せて、ひどく汚れていた。
たぶん、学校の周りを流れるどぶ川に落ちたんだと思う。
抱いてみると、ちょっと臭った。
でも、ぼくには可愛くて仕方がなかった。
そこで、深く考えもせずに、家に連れてきてしまったんだ。
ママに見つかれば、捨ててこいと言われるだろう。
だから、ぼくはぼくの部屋に隠して飼おうと決めた。
ぼくは、この犬をジロウと名付けた。
ぼくがタロウだから、ジロウはぼくの弟分だ。
ジロウを見つけたときに、給食の残りのパンをあげたので、エサはまだやらなくていい。
だから、次にやるべきことは、ジロウを洗ってやることだ。
ママは、台所で夕飯の支度中だから、風呂場に近づくのは容易だった。
夕べの残り湯を洗面器にたっぷり入れて、ぼくは2階の部屋に向かった。
部屋ではジロウが隅の方で震えていた。
かわいそうに。
早くきれいにしてあげて、タオルにでもくるんであげなければ。
そう思って、ジロウを洗面器に入れた途端、世界が変わった。
少しめまいがして、目を閉じた。
次の瞬間、洗面器のなかに入っているのは、ぼくの方だった。
目の前には、ぼく自身が笑ってこっちを見ている。
天然パーマ。
度の強い眼鏡。
しもぶくれの顔。
生まれたときからおなじみのぼくの顔がそこにあった。
向かい側のぼくは、笑いながらぼくにこう言った。
「うまくいったぞ。今日から君は犬のジロウだ」
とても意地悪な笑顔だった。
ぼくは、すごく恐かった。
その笑顔を悪魔のように感じた。
なによりも、その顔がぼく自身だからもっと恐かった。
その場にいたたまれなくなって、洗面器を飛び出すと、半開きのドアに体当たりした。
そして、あわてて階段を下りると、途中から転げて滑り落ちた。
トントントン…。
体が小さかったから、あまり大きな音はしなかった。
でも、ママは物音に気付いて台所から出てきた。
ぼくは夢中になって、ママに駆け寄った。
「ママ、ママ! 大変だ。部屋に変な奴がいるよ」
ママはぼくを見ると、身を固くして立ち止った。
そして、ママに向かって飛び付いたぼくを、思い切りはねのけた。
「きゃん!」
ぼくはまるで子犬みたいな鳴き声を上げて、廊下に叩きつけられた。
骨が折れたかと思った。
それ以上に、ママの行動にショックを受けた。
ママにはぼくが分からないらしい。
玄関先の鏡には、今のぼくの姿が映っている。
そこに映っているのは、まぎれもなくジロウだった。
さっきぼくが洗面器に入れて洗ってあげようとしていたジロウ。
痩せて、泥まみれではあるが、クリクリとした可愛い目と、一回転した愛らしい尻尾を持つ柴犬のジロウだった。
立ち止まって鏡を見つめるぼくに向かって、ママは手許の箒を振り回した。
「ちょっとアンタ、出ていきなさい!」
箒の先が、ぼくの体に当たってチクチクした。
ママは、そうやってぼくを追い出そうとしたが、負けるわけにはいかなかった。
こんな状態で追い出されたら、大変だ。
はらぺこで力が出なかったが、右へ左へ箒をかわして、なんとか耐え抜いた。
しかし、2階から、ゆっくりと“ぼく”が出て来る。
「どうしたの、ママ。その薄汚い犬はなに?」
ママはその声を聞いて、“ぼく”に対してこう言った。
「タロウ、あんたちょっと手伝いなさいよ。この犬を追い出して」
この一言で、ぼくの気持は折れた。
ママにはぼくが分からない。
ママは、偽物の“ぼく”をぼくだと思っている。
そして、二人してぼくを追い出しにかかっている。
この事実を突き付けられたとき、ぼくはされるがままになった。
ママの箒に押され、“ぼく”の足に蹴られて、ぼくは玄関先から外へ転げ出たんだ。
今ぼくは、はっきりと分かった。
ぼくは犬になった。
犬のジロウになっちゃったんだ。




