第一話(一)
彼女が『彼』を初めて見たのは昼日中の学校。場所は図書館前、時間は昼休み、
『彼』が司書教諭と共に脚立を動かしている時のことであった。
「ここで大丈夫?」
「ま、届くでしょう」
ガタガタと音を起たせながら動かしている『彼』は実に不審な人物だった。
まずその服装から教師には見えない。一応Tシャツ? とジーパン?を着ているつもりなのだろうが、
二つとも限界まで朽ち、断末魔も既に絶えたほどに着古されたものだった。
では生徒なのかと思えば、それも疑わしい。
そもそもこの高校では制服の着用が義務化されているのだから、私服でいる時点で生徒である可能性は 低い。
加えて『彼』の持つ雰囲気から若さや元気さといったものが微塵も感じられなかった。
つまり正体不明以外の何者でもない『彼』が、周囲を通りがかった生徒達の疑問に満ちた視線を一身に 浴びながら、
蛍光灯に手を伸ばしている場面に彼女は出会ったのだった。
「こんにちは、先生」
「あら、こんにちは衣司さん」
危なっかしい様子で蛍光灯を取り外そうとしている彼から目を逸らすことなく、司書教諭は彼女の挨拶 に返答した。
「一体どうしたんですか?」
「蛍光灯が一本、切れちゃったみたいでね。他の先生に頼んでも良かったんだけど、
丁度彼が図書館に来てた所だったから、ついつい頼んじゃったのよ。ほら、彼は元図書委員でしょ?」
「と言われても、どなたか知らないんですけど・・・・」
「そうだったっけ?」
ようやく彼女の方に化粧気の薄い、細いフレームの眼鏡を掛けた顔を向ける。
浮世離れした、とまではいかないが緊張感の感じられない表情だ。
「彼は去年まではここの生徒で、今は近くの・・・・・あれ? 何て名前だったかしら・・・ま、思い出 せないならそれで構わないんだけど、近くの大学に通ってるの。
とはいってもつい一か月前までは高校生だったし、ここの図書館は一般の方にも開放されているからち ょくちょく利用しに来てる・・」
「先生、済みません」
話を遮るようにして声がかけられる。話題の対象となっていた『彼』が、上半身を捩じって脚立の上か ら話しかけて来ていた。
「もう取り外せたので、新しいのを箱から出してくれませんか?」
「あらそう? じゃあ、はい」
そう言いつつ脚立の上に立つ『彼』から、古い蛍光灯を司書教諭が受け取ろうとした瞬間、
ゴォッ!
鈍い音を響かせながら前触れもなく噴き上がった突風が、他の生徒達を突き飛ばしながら脚立を激しく 揺さ振った。
「わっ!」
「きゃ!」
無防備だった司書教諭は倒れかかり、身構えていた彼女も耐え切れず態勢を崩してよろめく中、
「っと!」
脚立の上の『彼』は何かに支えられたかのように安定したまま、落としかけた古い方の蛍光灯を右手で 受け止めていた。
「おおー、なかなか凄いじゃない」
「そんなでもな・・・」
ピンッ
司書教諭からの賞賛を、満更でもない様子で謙遜していた『彼』の言葉は、聞きなれない音によって中 断させられた。
ピピンッ
張りつめた弦を爪弾くようなその音の発生源を捜して、彼らのみならず周囲の生徒達もあちこちに目を 向ける。
「これは・・・・」
ピ ピ ピピピピピピピピピピピピ
「蛍光灯?」
という不思議そうな司書教諭の声と、
「ッ! 伏せろ!」
という緊迫した『彼』の声と、
パァッン!!
という音を起てて蛍光灯が破裂したのはほとんど同時のことだった。
「うわっ!」
「きゃあ!」
先ほどの突風に数倍する悲鳴が脚立を中心に上がる。
「みんな、大丈夫? 怪我してない?」
流石にこの緊急事態を前にして教師としての義務感に駆られたのか、
司書教諭が真っ先に声を出して生徒達を落ち着かせようと努力している。
「先生こそ怪我してませんか?」
「私なら大丈夫よ、衣司さん。ちょっと」
そう言って頭をはたき、
「蛍光灯の粉末が頭にかかっただけだから」
その言葉通り細かな欠片がパラパラと零れ落ちてゆく。
「せんせぇー、私達もだいじょぶでぇーす」
周囲からも似たような報告が相次ぎ、落着きを取り戻していた。それらを見渡しながら教諭は一応の注 意をする。
「うん、怪我した人はいなさそうね。ただ、ガラスの欠片が服に付いているかもしれないし、中の白い粉 は人体に有害だからよく叩いて落として置くようにね。
・・・・それにしても何が起こったのかしら」
野次馬だった生徒達が三々五々散ってゆく中で、誰に尋ねるともなく教諭は疑問を口にする。そこに、
「多分、ですけどね。俺が原因ですよ」
よっと、と年寄りじみた掛け声を上げながら脚立から降り立った『彼』が思いもよらない一言を返す。
至近距離で蛍光灯が破裂した筈なのだが、おそらくは手や角度の影響で細かい破片以外被っていないよ うだ。
「君が?」
「ええ。さっき蛍光灯を落としかけた時、こう」
ギュッと手を握り、
「強く握りしめてしまった所為で、変な風にヒビが入ってあんな割れ方をしてしまったんだと思います よ」
「なるほどね。って、そんなことより君こそ怪我してない?」
「俺は大丈夫ですって、あ」
「え! 怪我してた?」
「いえ、手のひらにちょっと・・・・」
そう言いつつ開いた右手を司書教諭に向ける。
白い粉がまばらに着色する中にぽつんと赤い染みが一つ。
それが見る間に深紅の珠へと膨れ上がってゆく。しかし
「ま、舐めときゃ治る程度ですけどね」
といって本当に舐めとってしまった。
そんな『彼』に呆れつつ、
「君が大丈夫って言うんだったらそれで良いけど、ちゃんと手を洗う位はしておきなさいよ」
「いくら俺がズボラだとしても、流石にそれ位はしますよ。・・・・・・しかし本当に何が起こったんで しょうね」
「何がですか、先輩?」
「さっきの突風ですよ。いきなりの出来事だったから、思わず蛍光灯を落としてしまったし、強く握りす ぎてしまったんでね」
彼女に答える『彼』は肩をすくめるような仕草をしていたが・・・・正直微妙だ。
肩をすくめるというよりは腕を激しく上下移動しているようにしか見えない。きっと彼が撫で肩だから だろう。
「そうそう、最近こういった出来事が多いのよね」
「そうなんですか、先生」
「今日みたいな突風は初めてだけど・・・・・。やっぱりドアの開け閉めとは無関係に風が吹いたり、換 えたばかりの蛍光灯が点滅したり。
この前なんて廊下の窓が割れるなんてことまで起こったのよ」
そう言った途端、頭上の蛍光灯が点滅する。思わず見上げてしまった三人だが、気を取り直すように彼 女が司書教諭に確認する。
「廊下の窓の事件は、禁止されているのにボールを投げ合ってた一年生が犯人だって聞いてますけど」
「一応そうなってはいるんだけど・・・・。でも一年生達が遊んでた場所から割れた窓まで結構な距離が ある上に、かなり無理のある動き方をしないと届かないのよ」
「そうなんですか・・・・」
相槌を打つ彼女の目線はしかし司書教諭ではなくあさっての方向、先ほどの突風が来た方向に向けられ ていた。
『彼』はそんな彼女を気にした様子もなく、じっと手のひらを見つめ、
「ま、何にせよ。原因があるなら早いとこ対処して欲しいもんですね」
べろり
と、再び手のひらに浮かんだ血の塊を愛おしそうに舐めとった。
「そう、原因があるならね・・・・・」
そしてその眼は彼女が見ているのと、ほぼ同じ場所を見ているように見えた・・・・。




