終譚
時刻はそろそろ日付が変わる頃合いか。この部屋には時計が無いので、あくまで感覚的なものでしかないが。
ひとり呟きながら、椅子が二つと机が一台きりのかなり狭い会議室、あるいは取調室で笠場は愉しく待っていた。
笠場と若い男は車での移動に二時間ほど掛けている。
方向が分からないのと迂回の可能性を考えると可能性は下がるが、恐らくは都内かその周辺だろう。
見た目は雑居ビルの、その地下駐車場で降りてこの部屋に一直線に案内された。
それ以来ここまで案内してきた若い男も姿を見せず、かなり退屈しても仕方がない状況でしかし笠場は、車に乗った時と変わらぬ笑みを微かに口角に浮かべている。
監視されていると考えているから、という事もある。
が、単純に愉しいからこそ笑っているという側面の方が強い。
なにせ初めての成果からどれだけの時間も経っていないのだ。
愉しむ要素が次から次へと浮かんできて今夜は眠れないかもしれない、とすら思っている。
・・・・実際に笠場はかなり油断している。
顔面にこそ思考は及んでいるが、その眼は昏く、寒気を覚えさせる淀んだ霊気を周囲に放っている。
気付いていれば止めている行為を続けていることも、油断している証拠だろう。
そもそも、彼が一人きりで放置されているのもここに原因がある。
この部屋には結界が張られているので、笠場が撒き散らす霊気は外に漏れていないが、負荷は掛かっている。それもかなり強烈に。
それを外から見た場合、内側から攻撃乃至干渉をしているようにしか見えない。
その為の対策に時間が掛かっているのである。
コンコン
ノックの音に意識を引き戻した笠場が、やっと自分のしていた事に気付く。
慌てて精神を平静状態に換え、周囲の霊気を吸収して安定させる。
「あ、どうぞ。入って下さい」
入ってきたのは先ほどの若い男性とは別の、齢は五十頃の壮年の男性だった。
緊張感を押し付けず、柔らかく自分を律する空気を纏った、一見してそれなりの地位にあることが見て取れる人物だ。
これが会社勤めなら十分に重役クラス、それも営業よりも生産や経理関係に長く関わっていたと目星を付けたくなる、穏やかな風体である。
笠場の向かいの椅子に座ると、顔を見て驚いたように言う。
「随分と緊張されていますが、どうぞ、もっとリラックスして下さい」
「あ、すみません。睨みつけるような目をしてしまって・・・・・」
恥じる様に俯きながら、笠場は背中で冷や汗が流れるのを感じていた。
視線を落とせば、膝に置いた右手が痙攣しているのが見える。
目の前の人物が何者か知らないが、部屋に入ってきた瞬間から笠場は異常に緊張しっぱなしだった。
自分の中を見渡し、緊張の原因を探す。
眼前の対象は、これまでの経験に置いて比較できる例は無い。つまり記憶以外の部分で警戒すべき点が有る。
身体能力は・・高そうだ。攻撃性は、不明。
洞察力は高いとみるべきだ。少なくとも目は笑っていない。
安易な表現だが、内側まで見透かすような。
そこまで考えて笠場は思い当たる。
この緊張感は同居人のものかと。となれば、対処法も絞れる訳だ。そう安堵して、緊張を和らげたかのように演技を変化させる、が
「だから、リラックスして下さい」
落ち着いた雰囲気を変えずに、言葉を重ねる。
ただ眼光が鋭くなり、この手などブラフにも通用しないと伝えている。
「・・・分かりました。これで良いですか?」
偽りの笑みから、殺気を込めて相手を睨みつける表情へと移す。声色も平板な冷たいものへ変える。
他者には滅多に見せないが、これが笠場大という人間の最も自然な表情だ。
別に相手が憎い訳ではない。ごく自然に、まるで挨拶でもするかのように他者に対して殺意を抱いているだけだ。これは非人衆の四人にも当てはまる事だが。
だが相手の男性は困った様に眉根を寄せると、子供に言い聞かせるように言う。
「今一つ本意が伝わって無いようなので言い方を変えますが、私は本性を見せてくれ、と言っているのです」
ネタは上がっている、誤魔化すな。
脳内で変換した言葉に笠場は苦笑しかできない。
・・・どうやら甘く見ていたのは自分の方だったらしい。相手が国家権力か、或いはそれに近い存在である事は若い男の反応からも分かっていた。ならば調査能力も相応として考えるべきだった。
下手に肩をすくめると、それが予備動作であったかのように雰囲気を一変させる。
殺意すらも昏い淵に沈め、皮膚を切り裂く異様な霊気を呼気とともに吐き出し始めた。
それは先程の淀んだ霊気をも上回り悪意であり、部屋そのものに物理的な軋みを生じさせる。
「確かに“人殺しの目”だ」
しかし男性に変化はない。
正確に言えば、男性が座る椅子を中心とした円柱状の空間に笠場が吐き出した霊気は侵入出来ていない。
だがそれは笠場も想定済みの事態。意表を突かれたのは、その表現。
「・・・彼女から伝わっていましたか」
「ええ、あの子から色々と聞いていました。友達の子や、君の事をね。ただ、それだけでは判断できないので、君と君に協力している存在について色々と調べさせて貰った」
固有名詞を使わなかったのは情報を与えない為ではなく、単に誰の事か双方とも了解済みという前提に立っているからだろう。笠場はそう判断した。
同時に衣司薫とこの組織が繋がっている事を認めたことにより、少なくともこの事実を公言したら不利益を被るか、公言できない立場に立たされるということも理解していた。
その上で、何の気負いもなく次の一言を口にした。
「調査の結果、危険とでも判断されましたか?」
冗談めかして物騒なことを尋ねる笠場に、
「極めて危険、だ。早急に何らかの手段を、それも具体的かつ拘束力がある手段を講じるべきと組織としては判断している。この判断に君は意見があるかね?」
相手の男性も冗談のように物騒なことを口にする。
笠場の反応を見る為の作戦なのだろうが、残念ながら笠場は普通の人間とは感覚がずれている訳では無い。
ただ欲求が狂っているだけだ。
だから自分自身に対する評価を率直に口にする。
「正直、私が考えてもその判断は妥当だと思います」
ほう。
この返答を聞いた男性が、初めて自然な反応をする。それも好意的な。
てっきり愚弄されたと不快に思うだろうと予測していた笠場は、多少の驚きを覚える。
「いや、娘の言うとおり君は随分と変わった人間のようだ」
娘。その単語が笠場の神経に引っ掛かり、該当者を瞬時に探し出す。
・・・今回の一件で関わりの有ったのは、そうか衣司姉妹か!
「君に対しては言っておいた方が良いと判断するから伝えるが、この方面に関わっているのは下の娘だ。彼女は君のことを『悪人だが、愚かでは無い』と表現した。君を見る限り人を見る目は育っていると安心できる」
「はあ、そうですか・・・・・」
唐突に明かされた真実による衝撃の裏側で、笠場は必死に頭を働かせる。
言われてみれば、可能性は十分にあり得る。むしろその可能性を考慮しなかった方が問題とも言えるだろう。
その一方で、未成年の肉親を働かせているという事実は、笠場という或る意味ではプロ意識を持つ人間にとって驚愕に値した。
すなわち目の前の男性は最悪の場合、自分の娘が殺される可能性を認識していながら笠場を泳がせていたという結論に達したからだ。
呆然としている笠場に気付かないのか、男性は更に話を進めてゆく。
「それで君はどうするかね? 事態は君が想像している以上に切迫している。特に君の友人達は、およそ考えられる中でも一、二を争う程最悪の存在だ。叶うならば君の意志を無視して対処したいと考えている」
「それが私の結末ですか」
自らの生命に関わるレベルまで話が進んでいる事実に、先ほどの衝撃は余所において、再び頭を働かせる。
この組織が治安維持を任務としているのは確定としてもいいだろう。その観点から見れば、非人衆とそれに同調する俺の抹殺を考えるのも当然だ。だが、この待遇は何だろうか?
俺という人間の人命を尊重しようとしているのかもしれないが、非人衆の総殺害数は集団としても四百人以上になると聞いている。このクラスの存在を前に人一人の命は軽い。だとすれば・・・・・
「そうだ。彼らを引き渡して全て忘れ去るか、或いは彼らと一緒に忘れ去られるか、だ」
遠回しな言い方ではあるが、要は非人衆と心中するかそれとも見捨てるかしかない。
しかも家族が殺されるのも折り込んで計画を立てるような相手だ。この場から逃げ出そうとした途端、躊躇なく殺すはずだろうし、案内の男に従わなかったとしても同じ結論が待っていただろう。
それでも、笠場はそれほど切羽詰まった緊張は持っていなかった。
確かに選択を誤ればすぐさま死ぬ事になるだろう。しかし相手が自分を殺そうと考えているのと同じ位、別の思惑を抱いている事が確信できた。
それは相手が冷酷であるにもかかわらず、いやむしろ冷酷であるが故に、信頼にすら交換可能な確信だった。
「随分と素敵で魅力的な提案だと思いますが、選択肢はそれだけですか?」
にやりと笑みを作り、尋ねる。感情の変化を受けて、放出される霊気の量と性質が、より悪い方に変化する。
それは壮年の男性の周囲に展開された障壁を歪め、徐々にその領域を消し去りつつあるが、男性もまた大きく笑みを見せる。
「無論、有る。もう一つは我々に飼われるという選択肢だ」
「飼われる? 従うでは無く?」
その諧謔に満ちた言い様に、思わず笠場は尋ね返した。
「君にとっては、この表現の方が妥当だと言われてね。いや、娘の意見だが」
「・・・・・・・首輪と餌が与えられる立場になれと」
「首輪を鬱陶しく感じるのは、檻の外に出ようとした時だ。君は適度な餌さえあれば、それで満足すると思っている」
これは私の意見だがね、と男性は加えた。
いやはや本当に俺という存在を理解しているね。
笠場は下手に肩を竦めながら、諸手を挙げて降参したい気分になった。といっても気分が悪いのではない。むしろ逆。沢村を喰ったときとは別種の喜びが身を満たしている。
なにせ問題だった安定した猟場の確保ができ、自分を理解してくれる存在が居る。その上、問題を起こしたら即座に処刑されるという人生を何回繰り返してもそうそう味わえないリスクまで背負わせてくれた。
・・・これ以上に嬉しい境遇がこの世の中にあるものだろうか?
「有難過ぎて涙が出そうですよ、嫌味ではなく。では貴方達のメリットは、ああ、毒を持って毒を制す訳ですか」
「そういう事だ。それでは、どうするかね?」
決まりきった事を聞きますね、とその昏い目をしたバケモノは嗤った。
今日も衣司薫は図書館に足を向けた。
本を借りに行くのではなく、彼女の予測によれば、目当ての人物がそこで自分を待っているはずだからだ。
「・・・・・・・・・」
一見して、図書館の中に変わった点はない。
試験前でもない今の時期は利用者も少なく、司書教諭は事務室の中で書類を処理している。
その数少ない利用者も、ほとんど校外から訪れた老人ばかりだ。
「・・・・・・・・・」
だからと言って彼女は落胆しない。
図書館の中でも最も奥まった一角へ、迷う素振りも見せずに一直線に進む。
本棚の列を通り抜けると、小さな閲覧スペースに出た。すぐ脇には倉庫が置かれているここは、人目に付かず、声も響かない密談向きの場所だ。
「おや、こんにちは。衣司先輩の妹さん」
そこで壁にもたれかかる様にして、本を読む男が一人。
文庫本を片手に立ち読みをしていた笠場大は、先日と同じく何気ない調子で挨拶をしてくる。
「こんにちは、笠場先輩。今日はどんな御用なんですか?」
彼女も先日と全く同じ挨拶を繰り返すが、今度は笑顔を作らない。
鳶色の瞳に硬質の光を宿して、貼りつけた様に薄っぺらな微笑みを浮かべる笠場を視線で射抜く。
「一つは、安藤さんのその後の経過を確認しに来ました」
「それなら問題ありません。今朝も会いに行きましたが、具合が悪そうには見えませんでした」
「そうですか。それは良かった」
彼女の視線を受けながら、髪の毛一筋の動揺も見せず、笠場は微笑んだまま幾度も頷く。
その姿に警戒心を更に強めながらも、内面の動きを全て消して問い掛ける。
「それで、他の御用は?」
「ええ。もう一つは、貴女に御礼を申し上げなければ、と思いましてね」
その言葉と共に、笠場の放つ気配が一変した。
冷たい霊気が溢れ出し、床に淀んで暗がりを生む。
「貴女の口利きが無ければ、私は殺されていたかも知れません。その事について、私は大変な感謝の念を抱いています。叶うならば、それを具体的な形へと変換したいと考えているのですが・・・」
「それなら私の質問に答えてはくれませんか?」
元々そう広くはないスペースではあるが、薫の体感は棺桶にでも詰められたような息苦しさを訴えている。
それが笠場大という存在に対する、自身の抱く警戒感の具象化であることを理解しつつ、彼女はこの事件の最後の確認を決行する。
「笠場さんは沢村さんの霊を祓った。それは間違いないんですよね?」
「ええ。間違いありません」
「ですが今日の朝、安藤さんと会ったら沢村さんの気配がしました」
「それは不思議なことです」
「より厳密に言えば、沢村さんの霊の残滓、とでも呼ぶべき存在でした。これは普通では考えられない現象です。祓われた霊の影響が、いつまでも残ることなんて有りえません」
「ならば奇跡でも起こったんでしょうか?」
「その可能性も否定できません。ですが・・・」
鳶色の瞳を輝かせて、昏黒の闇へと薫は正面から向き合う。
「残滓としか言いようのないまで痛めつけられた沢村さんを、誰かが安藤さんに戻した。そう考える方が自然だと思います」
「何の為に?」
「それが、私の質問です」
どこまでも友人の為に、薫は危険を承知でこの場所に来た。
この作為が何らかの不幸を友人にもたらすかもしれないから。
この作為をなした者を信じることなどできはしなかったから。
そんな彼女の想いをおそらくは見透かした上で、笠場は相も変らぬ、糸目の、胡散臭い笑みを浮かべている。
「・・安藤さんは幸せそうでしたか?」
「・・どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。安藤さんは沢村さんの気配を身に纏っていて、幸せそうでしたか? それとも迷惑そうでしたか?」
「・・・・・幸せそう、でした」
渋々ながら、薫はその事実を認める。
薫が稀姫に会った時、彼女はかなり立ち直っていた。
稀姫の性格を知る薫にしてみれば意外だったのだが、詳しく話を聞くと昨夜の夢でまた沢村に逢えたのだと言う。
一度は除霊されたからなのか、その姿は薄れ、言葉を交わす事はできなかったが、今までの様に見守ってくれている。それだけで私は十分だと、稀姫は話していた。
「ならばそれで良いではありませんか? 少なくとも貴女の友人は幸せでいられる。そこにどんな問題があると言うのですか?」
「それにあなたが関わっているというのが最大の問題なんです、笠場先輩。あなたという人は得体が知れない。だから怖ろしい。でも得体が知れても」
あなたはきっと怖ろしい。
その言葉を聞いても笠場の表情は変わらない。
“人殺しの眼”の中に昏黒を淀ませて、笑っているままだ。
それを迷いなく見詰めて、衣司薫は宣言する。
「先輩はまだ生きている。それはつまり、飼われる事を選んだのでしょう。ですがもしも、私の周囲の人々に対して先輩が危険であると私が判断したのなら・・・」
「判断したのなら?」
「殺します。誰の所為でもなく、私自身の意志で」
「・・・・・・・・・」
沈黙したままではあるが、笠場から放たれる霊気の質が変わる。
今まで以上に暗く、重いその霊気は、触れているだけで少しずつ命を削っているような、そんな錯覚を抱かせた。
が、
「物騒ですね」
そう笑いながら呟くと、笠場は肩を竦める。
それはひどく不格好で、全く様になっていない。
しかしその動作一つで、辺りに立ち込めていた霊気は雲散霧消した。
「ですが、大変に良い覚悟を持っている。だから愉しみにしましょう、いつか貴女が私を殺しに来る事を」
「ええ、愉しみに待っていてください。いつか貴方を殺しに行く事を」
最後は二人とも微笑みを浮かべ、そして笠場は持っていた本に視線を落とし、薫は背を向けて足早に去った。
今の約束が、互いに真剣なものであった確信を胸に抱きながら。
かくしてバケモノは飼われ、首輪に繋がれ、餌を与えられる立場となった。
それが如何なる結末を、この昏黒の鬼を含む諸々の譚にもたらすか。それはまた別の譚である
了
物語としては今回で終了です。
ですが、個人的に載せてみたい文章があるため、これで完結とはしません。
場合によっては、そのまま完結となるかもしれません。
曖昧な文章で申し訳ありませんが、話としては今回で終了です。