初譚
初めて投稿する小説です。一度、賞に投稿した作品なので、すぐに全編を投稿できると思います。
主人公がどういったようにアレなのかは、この編にある程度書いてあるので
そこを参考にしてください。
あらまあ、ずいぶんと懐かしい人の事を尋ねるのね。
その名前を聞いたのは、さて、何十年ぶりかしら?
ん? その顔はいったい何が言いたいの?
そんな昔の事など、とっくに忘れたんじゃないか心配してるのなら、それはお生憎さま。
あの人のことなら、初めて会った日のことまでしっかりと覚えているわ。
何故って、それはあの人ほど良くも悪くも印象的な人なんてそうはいなかったからよ。
いえ、この言い方だと、良さと悪さが半分ずつみたいに聞こえるわね。
実際は良さが一で、悪さが九ぐらいの割合かしら? あるいはもっと悪さの度合いが大きいかも知れないけど。
猛悪で、凶悪で、最悪で、そして邪悪。あの人を評した言葉はこれだけあるわ。
最初の三つは必ずしもその人となりに向けられたものではなかったけど、最後の邪悪は間違いなくその人間性に対する評価だった。
そう、邪悪。そうとしか言いようがない人だった。私もそれなりに長く生きてきたから、色んな人と出会ってきたわ。
その中には自分の心の悪に負けて罪を犯してしまった人もいたし、なんの理由もなくただ邪悪としか言いようのない人もいた。
あの人は後者の筆頭ね。
ただ、そう、あの人はそんな邪悪な人たちのなかでも比較的まともな部類に入っていた。
下の上とか、地獄では人格者とか、うまい言葉が見つからないけど、例えて言うならそんな所かしら。
え? それでは良く分からない? なにを当たり前のことを言ってるの。
一人の“人間”をそう簡単に理解できるはずもないでしょうが。
でも、そうね。分かりやすく言えば、あの人の根幹には三つの要素が有った。
その三つが入り混じってあの人という“人間”を構成していたの。
一つ目は悪意。それも底の抜けたね。世の中には他人の痛みを理解できない人がいるけど、あの人はそんなことはなかった。
そんなことはなかったけれど、だからといって遠慮することもなかった。それどころか、相手を最も苦しめる方法が大好きだった。
二つ目は知性。切れ者、という感じではなかったけれど、自分や社会について正しく理解し、決して人前では法を破らなかった。
もちろん、法を破るべきではないと考えたからではなく、それが割に合わないと計算したからでしょうけど。
社会を敵に回す。それがどれほど怖ろしい事か、普通の人の何倍も感じていたんでしょうね。
でもね、考えてもみなさい。あの人が社会を恐れていたのは、自分が人々に害を与える存在だと理解していたから。
その上で自分を隠して、人ごみの中を無害な“人間”のような顔をして歩いていた。
そんな狡猾な生き物を、邪悪と言わずになんて言えばいいのかしら?
今度の顔は、どうしてそんな危険人物を放置していたのか、そう考えているのね。
さっきも言ったように、あの人は邪悪な中でもわりとマシな方だったし、それに腕も立った。
敵は確実に殲滅、波風は最小限に、という指示を破ったことも無かったそうよ。
それでも危険すぎるから殺すべきだ、という話も何度かあったらしいわ。
実際のところ、私も何度かあの人を殺そうかと思ったのよ? それもかなり真剣にね。
できたかどうかは別にして、殺す具体的な方法まで考えたぐらいだから。
でもね、そんなにも邪悪だったのに、あの人は優しかった。
いえ、ただ優しいのとは違うわね。あの人はひどく誠実で、その誠実さが優しさに見えた。
他の人に伝わりにくい優しさだったけれどもね。なにせ普段の姿は問題だらけの人だったし。
底の抜けた悪意と、狡猾なまでの知性、そして優しさにも似た誠実さ。
あの人の“人間”を形作るこれらの要素は、社会の価値観に照らすと矛盾だらけだったけど、あの人の中では問題なくまとまっていた。
それとも矛盾も愉しんでいたのかも。ま、どっちかなんて分からないけど。
そして社会はあの人を許容できなくても、あの人は社会や人間に対して利用価値と、そして敬意を持っていた。
油断すると襲われるけど、付き合いづらくはない隣人。だから評価は下の上。
これであの人がどんな“人間”か、おおよそにも理解できた?
でも、それだけじゃ半分。あのヒトは“人間”だけではなかったから。
あるいは“人間”の皮膚を纏った“バケモノ”だったから。
“昏黒”という言葉を知っている?
“昏”とは目が見えない事。“黒”は当たり前だけど黒色の事。
それらが合わさった“昏黒”とは、月や星といった明りが一切なく、まるで視力を喪ったように何も見えない闇の事を指すの。
その“昏黒”が、瞳を覗けば淀み、口を開けば零れる。そんなモノだったのよ、あのヒトは。
いえ、あの“ヒトの形をした”モノは。
理解できない? それは良かった。
もしもこれだけで理解できるんだったら、私はあなたを殺していたわ。
日の光の下で会う限りは、危険はない。
しかし昏黒の闇の中で会ってしまったのなら、そこに立っているのは人間だろうが幽霊だろうが、見境なく痛め尽し喰らい尽す鬼。
その鬼に喰われた、ある人に言わせれば可哀想な、ある人に言わせれば自業自得な犠牲者を数えるのに、
何人分の両手両足の指が必要だったかしら?
その中で最終的に自我が壊れずに死ねた者など何人いたかしら?
だからね、坊や。私が何十年もあの人の名前を聞かなかったのは、みんなが忘れてしまったからじゃない。
覚えている者は誰一人として、口にしたいと思わなかったから。あるいは口にすべきではないと考えたから。
知りたいというのなら止めはしない。欲するのなら語りましょう。ただ、それを固く心に留めて聞きなさい。
あの“昏黒の鬼”の譚を。