綿帽子
会社員には制服がない。その代わり、スーツ着用なのだが、これが結構、金がかかる。安物 は所詮、安物なので、すぐに形が崩れてしまうのだ。夏物は、元から皺になりやすいから使い 捨てていくほうが効率的だが、冬物は、そうはいかない。寒いから、それなりの生地で誂えな いと、本気で寒い目に遭う。
「うえーむっちゃ寒いっっ。」
仕事から帰ってきた花月が泣き言を言いながら、部屋に入ってきた。今夜は課内の宴会で、 俺より遅くなった。また、雨で寒いところへダメ出ししたような天候だった。
「やっぱり、一着一万円のスーツと、一万円のコートはあかん。」
「当たり前じゃっっ。せやから、俺が買うたるって言うたやないか。」
「あかんあかん、そんなんせんでもええ。」
いや、実際のところ、俺も、それほど給料があるわけではないから、いや、それでも公務員 の花月よりは、ちょっと多いので、一着誂えてやろうと考えていたのだが、こいつ、真っ向か ら反対した。もうすぐ、ハイツの更新がある。そのための金を残しておいてくれ、と、現実的 なことを言ったからだ。更新自体は金がかからないのだが、保険料と手数料は支払わなければ ならない。これが、五万近い金額だから、その分をキープしておけ、ということらしい。
「なあ、せめて、コートだけでもえ。」
「もうちょっとしたらバーゲンになるから、それから買うわ。・・・それより、人肌で温めて や? 水都。」
ぴとっと背後から抱きつかれて、その冷たさに、俺まで震えた。コートが濡れていて冷たい のだ。すかさず、やつの額にデコピンをかまして、「風呂で温もれっっ。」 と、追い立てた 。
・
どちらも就職一年目は、何かと入用で、なかなか貯金まで手が廻らなかった。たかが五万。 されど五万。それは、とりあえずキープしてあるが、それ以上にはない。かくいう、俺も、三万のコートと、一万円のスーツだから似たようなものだ。いや、俺はいいのだ。もし風邪をひいたら、花月が看病してくれるし、外回りのない仕事だから、寒ければ、大人しくしていれば済む。花月の場合は、外回りもあるし、何より暖房費節約とやらで、室内でも寒いらしいのだ 。
・
・
・
「なあ、みっちゃん、バイトせぇーへんか? 」
そんな時に、悪魔の囁きが響いた。言わずと知れた俺の上司だ。金がない、金がないと文句 を吐いていたら、唐突に、そんなことを切り出した。
「なんや? ケツ貸すバイトか? 」
「・・・身も蓋もない・・・わし、みっちゃんを、そんな下品に育てた覚えはあらへんで。」
「育てられた覚えなんかあるかいっっ。」
「まあ、聞け。一日、黙って言うこと聞いてくれたら、三十万。」
「二十四時間か? 」
「いや、拘束時間は・・・・たぶん、十二時間くらいやろ。」
「ゲイビデオかなんかか? おっさん。花月にみつからへんねやったら、かまへんけど。」
一日で、それだけの稼ぎとなれば、普通ではない。十二時間ということは、時給二万ちょい と言えば、そういうもんだろうと、俺は思った。みつからなければ、問題はない。貞操とかい うものは、俺の内には存在していない。
「あほか、なんで、おまえに、そんなことせなあかんねん。それやったら、わしが直接、お持ち帰りするがな。ちゃうがな、わしの知り合いの女装クラブの宣伝ポスターとプロモーション ビデオの撮影があるねんけどな。そのモデルや。」
「ん? なんや、バニーちゃんとかか? 」
「・・おまえ、とことん、わしのことを変態やと思っとるやろ? 」
「おう、百パーセント思っとるよ。」
なんで、そんな下品なことばかり言うかなあーと、おっさんは嘘泣きしつつ、説明はしてくれた。世の中には、変わった趣味の人間がいて、その欲望を満足させるための店というのもある。女装クラブというのは、男性でありながら、女性のような格好をしたいという変わった人が来る店だ。そこで、思い思いに女装して、仲間と親交を深めたりするらしい。で、まあ、こういうところは秘密裏にある場所だが、それなりに宣伝しないと廃れてしまうから、それなりの場所で宣伝を打つ。昨今では、ネットが、その主流だが、やはりインパクトのあるものが好まれる。しかし、お客様の姿を晒すわけにはいかないので、その宣伝にはモデルを使うのだ。
もちろん、モデルも、なるべくなら知名度のない人間が好ましい。無名の俳優や役者などは、そこから情報が漏れてしまうことがあるので却下されているらしい。
「つまり素人で、そこそこの男ってことか? 」
「そういうことや。おまえなら、見栄えは悪くないし、金さえ払ろたら、女装でもなんでもありやしな。ひとつ、ボランティアやと思ってやってくれへんか? 」
「金は先払いやったらええで。それと、ウィークディーにしてくれ。」
休日に、仕事関係で出かけると言うと、花月が、仕事場へお迎えに来る場合がある。職場にいないのが、バレたら追求されるのは目に見えている。金は臨時収入ということで言い訳が出来る。ちょいと大事の仕事をクリアーしたどもいえば、俺の仕事を理解してない花月なら、簡単に騙せるだろう。
「おう、そっちはかまへんで。ほな、あちらさんの都合がついたら、連絡して貰う。」
化粧されようと、バニーちゃんな格好をさせられようと、金があれば、別にいい。笑うのは、俺が知らない人間なのだから、別に、俺は気にならない。これで、冬物コートとスーツを買える、と、俺は、そちらのほうが楽しみだった。
・
・
堀内のおっさんは、ただいまは中部にある本社勤務だ。一ヶ月に数日、関西へ戻ってるが、その間に、こちらで溜まっている仕事を片付けている。その合間に、予定は組み込んだらしく、水曜日に、「ほな、デートしようか? 」 と、俺の前に現れた。
「ちょお、待て。これだけやってく。」
「ああ、区切りまでしとけ。今日は、戻られへんから覚悟しとけよ、みっちゃん。しっぽり、おっちゃんとデートやさかいな。」
こんなことを言うから、俺が、堀内のおっさんの愛人だと噂されるのだが、それは、それで有り難いので、スルっと無視だ。この噂のお陰で、女性陣から声をかけられることもないし、余計な因縁をふっかけられることもない。
連れ出された場所は、結構大きな神社だった。それも、俺でも知ってる有名どころだ。こんなとこでやって通報されるんと違うんか? と、心配したが、どうやら、ここの神主たちも、そこいらは理解があるらしい。相手は、そのままでも充分、イケメンのおっさんが三人で、分厚い封筒を差し出された。
「いやー引き受けてくれてありがとう。こういうのは、なかなかしてくれる子がおれへんでなあ。」
「それに、堀内さんの愛人さんが見られるって聞いて、大騒ぎやったんや。」
封筒の中身は、ちゃんと札束が詰まっていて、一応、確認のために数えた。きっちり三十枚の万札を手にして、「おおきに。」 と、俺も頭を下げた。たかだか、女装するだけで、これだけの大金をくれるなら、どんな格好でもするし、と、俺は内心で大喜びする。
「とりあえず、化粧と着付けしてもらって、それから、ビデオの撮影と写真。それが終ってから、うちの店で、パーティーするから、それまで頼むわな。」
昼の正午から夜の零時まで、十二時間の拘束だ。それは、最初から言われていたから、こちらも頷く。じゃあ、と、社務所へと招き入れられて、ちょっと焦った。そこに置かれていたのは、白無垢だったからだ。
「え? 」
「あれ? 聞いてへんかったん? 仮の神前式をビデオ撮影させてもらうんよ。」
「ああ、そうですか。」
まあ、高額のバイトだ。何があっても驚かない。もっと、えげつないものだと思っていたから、逆にびっくりした。
着付けの前に、襟足と足の脛毛は、きれいに剃られた。それから、化粧されて、白無垢を着付けられた。
・・・花月が見たら、絶対に暴れるわ、これ・・・・
常々、結婚式をやりたいとか、ぬかす花月は、二人揃って白の燕尾服で教会で式をあげたいという夢を語っている。男同士で、それをやる勇気は俺にはない。けど、これだったら、傍目には、俺は女にしか見えないだろうから、花月と式ができるんじゃないか、と、ちよっと思った。いや、思ったが、やりたくはない。あいつ、絶対に腹を抱えて爆笑するだろうからだ。白無垢は、かなりの重量があるので、普通は、本格的には着せないのだという。今回は、俺が男だから、本気で本格的な設えになっているとのことだ。鬘も、相当の重量があるし、その上に 綿帽子をすっぽり被されてしまうと、ちょっと歩くだけで、しんどい代物だった。そら、誰もやりたがらないだろう。
「おお、ええ感じやないか、みっちゃん。べっぴんさんの花嫁御寮やわ。」
堀内のおっさんの声がしたから、そちらへ顔を向けたら、紋付袴のおっさんが、扇子でばしばし手を叩いて笑っていた。
「なんや、おっさんもビデオに出るんかいな。」
「当たり前やろ。みっちゃんの花婿さんは、わししかおらへん。」
「げっ」
「何が、『げっ』やねん。神前式やって言うたやろ? 相手がおらんと意味あらへんがな。・・・沢野はんも来たがってたんやけどな、都合がつかへんで歯軋りしとったで。あははははははは。」
ほな、準備も出来たし、やりまひょか? と、おっさんが背後に声をかけると、介添人が俺に近寄ってきて、椅子から立たせた。そして、着物の裾を始末して、俺に、その端を持たせる。
「よろしいですか? ゆっくりでよろしいから、一歩ずつ確実に歩いてください。花婿さん、歩調は花嫁さんに合わせてくださいね。」
・・・花嫁さん?・・あ、このおばちゃん、知らんのかいな・・・・
喋ったら一発でバレる。だから、俺が口を噤んでいたら、その介添人のおばちゃんは、がはははと豪快に笑った。
・・・え?・・・
「堀内さんも隅には置けへんで。こんな可愛い子を隠しとるやなんてな。」
「わしの掌中の珠じゃ。おまはんらなんかにお披露目しとうはないで。今回は、たまたま、佐久間さんが頭下げてきやはったから、泣く泣く出すんやからな。」
地声になったおばはんは、男の声だった。顔を上げたら、どこかが不自然な黒留袖の女装したおっさんだった。
「ありゃ、ほんまに可愛い子や。」
「・・え・・・」
「ああ、ああ、心配せんでも出席者も巫女さんも神主連中も、みんな、ご同類さんがやるから気にせんでええからね。」
いや、俺は、ご同類やないて、おっさん、と、内心でツッコミつつ、前へ誘導された。そのまま社務所の玄関から外へ出ると、神主と巫女さんが並んでいた。確かに、若いが、胸のない
巫女さんたちだ。
笙、篳篥、横笛の神楽たちが、まず先頭になり、その鳴り物を鳴らしつつ、本殿へと向かう。次に神主が三人。衣装からすると、偉い神主が一番、それから二番手、三番手が続く。次に、胸はないが、そこそこ若くて見栄えの良さそうな巫女さんが二人、そして、俺と堀内のおっさんが、ゆっくりと、それに続いて、さらに、その背後に、巫女がふたり、最後に親族役の人間という行列が出来上がっていた。この親族も、みな、女性ばかりだ。いや、女装したおっさんとお兄さんだった。黒留袖、色留袖、振袖、訪問着、という派手な着物で着飾っている女性みたいな人間だ。それなりに性別がわからないのもいるが、あからさまに見るだけでキツイのも混じっている。さっき挨拶した依頼人たちも、見事な女装をしていた。
「・・・あんた・・・どういう趣味なんや?・・・」
「わしは、趣味やないで。知り合いが、そうやから、たまにクラブへ飲みに行くだけや。」
「花嫁さん、おしゃべりしたらあきませんで。」
背後から、俺の着物を持ち上げている介添人が、こっそりと注意するので、俺も黙った。
・
本格的な神前式なんてものは、俺も見たことがない。せいぜい、結婚式場でやってるのを、テレビで見るぐらいのことだ。拝殿に向かって左右に分かれて、俺と堀内のおっさんが着席すると、親族役も、その背後にある椅子に座った。
それから神主の祝詞があげられて、神楽の音色で、巫女たちが奉納舞をする。もちろん、それらはカメラマンによって、写真とビデオも撮られている。再び、神主が祝詞をあげると、巫女たちが、俺たちの前にやってきて、ふたりを拝殿に向かって並んで立たせた。四人の巫女が舞うように、杯を、俺に差し出す。一番上の小さいのを取ると、そこに酒が、少し注がれる。
・・・これ三回で飲むんやな?・・・・
常識として、それは知っていたが、さすがに、それはやりたくなくて、一度で飲み干した。
これは、神前で男女の繋がりを意味する儀式だ。三度同じ杯で、三回に分けて飲み干す。それが、婚姻の契りを意味するのだ。俺は、それを、花月以外とはやりたくないから、作法を無視した。となりの堀内のおっさんは、それを見て微笑んで、同じように一度で飲み干す。これは
、ただのプロモーションビデオだ。俺は、すでに結婚しているから神様に誓う必要はない。だから、一度で飲み干したのだ。
三度、杯を差し替えて、それは執り行われて、その度に、俺も堀内のおっさんも一度で飲み干した。
それから、神主が、また祝詞をあげて、俺たちの前で、白い紙のついた棒を、ふらふらと振った。
それが終ると、また左右に分かれて座り、親族の固めの杯というのが行われる。婚姻というものが、血族と血族を結ぶものという古いしきたりに添ったものだと、こういうことになる。親族役が、それを飲み干して、懐に、その杯をしまうと、神主が、「これにて、両家の婚姻は、神前にて結了いたしました。」 と、最後の言葉を告げた。
・・・終った・・・意外と長いもんなんやなあー・・・・
「おまえらしいわ。」
ちょっとぼんやりしていたら、堀内のおっさんが俺の横に立っていた。
「何が? 」
「三々九度はできひんって拒絶したやろ? こんな遊びでも操を立てるとこが、みっちゃんら
しい。」
「あたりまえじゃ、なんで、おっさんと婚姻の杯なんか交わさんとあかんねん。」
「あのボケにはもったいない。」
「じゃかましい。」
いつものように会話していたら、慌てて介添人のおばはんみたいなおっさんに止められた。これから写真撮影をしますので、と、カメラマンもやってくる。
拝殿の前に全員が揃って、写真に納まった。それから、社務所で、白無垢と綿帽子を取って、色内掛けになってから、もう一度、境内で撮影する。さらに、今度は、色ドレスなるものに着替えさせられてから、女装クラブのほうで、披露宴もどきが行われた。そこにいるのは、やっぱり男ばっかりで、でも、着ているものは女物という異様な場所だった。堀内のおっさんは、知り合いから祝福の言葉なんかかけられていたが、その頃には、俺も疲れていて、おっさんの腕にしがみついているのでやっとだった。夜の十二時にお開きになって、着替えて化粧も落としたら、一時を越えていた。
「延長料金も払ろたろか? 」
「・・いや・・・ええ・・・頼むから、タクシー呼んで。」
一日、とっかえひっかえに着替えさせられて、慣れない着物やドレスに四苦八苦した俺は、 どろどろに疲れていて、タクシーで家まで帰ると、その日は、そのまんま沈没した。
・
・
・
こんなふうになったで、と、後日、堀内のおっさんが、そのホームページのアドレスをメールで送ってきた。賑やかな結婚式の模様が、ちゃんと編集されて、ホームページの表紙を飾り、中には、その模様をビデオで撮影していたものも、流されていた。
「こんなもんで客が増えるんか? 」
「やりたいっていう人から問い合わせが来てるらしい。」
「物好きな。」
「まあ、そう言うたんな。ああいう人らには、一生に一度くらい花嫁姿になりたいっていう願望があるんや。」
しみじみとした口調で言っているが、堀内には、そういう趣味はない。なんせ、バツ何回か忘れたが、このおっさん、何度も女と結婚しては別れている。
「ええバイト、紹介してくれておおきに、ぐらいは言うとこか? 」
「おお、あっこの前の奴らが、また頼むって言うとったわ。」
「しばらくはええ。」
「まあ、気が向いたら、またバイトしてくれ。」
そう言われても、金が手に入ったから、もうやる必要はない。三十万という大金で、俺は、花月と自分の冬物コートを一着ずつと花月にスーツを二着買った。臨時収入が入ったというのは、あながち嘘ではないから、花月は、「やれ、有り難い。」 と、喜んでくれた。これで、多少、寒くても寒い思いはしなくてもいい。これで、一件落着と締め括ったのは、俺だけだったのは、後日、判明した。
・
・
いつも、俺の嫁は帰りが遅いので、俺が先に、郵便ポストを覗くことになる。ふたりとも、それほど手紙が来るような相手はいないから、ほとんどがダイレクトメールだ。
「ん? えええええええええええ」
その中の一通の葉書を目にして、思わず、大声を上げてしまった。それというのも、とんでもない写真だったからだ。
「結婚しました。」 という文字と、結婚式の写真の組み合わせなんてものは、ありふれたものだ。だが、その中身が問題だった。紋付袴の堀内と、文金高島田に色打ちかけの水都が、ふたりして微笑んでいる写真と、「結婚しました。」 の文字は、さすがに普通ではない。
・・・あいつ・・なんの仕事しとるんや?・・・・
隅っこに、堀内の手書きで添えられた、「ほんのジョークやから、夫夫喧嘩すんなよ?」 の文字がなかったら、俺は水都に本気で詰め寄っただろう。
・・・もしかして・・・臨時収入て、これか・・・
先頃、水都が臨時収入が入ったから、と、スーツとコートを買ってくれた。たまに、特別手当がつくような仕事があることは、俺も以前から知っていたが、いつもは一万、二万という単位だった。それが、かなりの高額だったことは不審には思っていた。堀内のおっさんとツーショットの写真を撮るだけではないんだろう。何かしら、それ以外にもあったから、その収入だ。
・・・こんなん撮るくらいやったら、俺と撮ってくれたらええのに・・・・
水都は、写真が嫌いだ。思い出になるものなんか欲しくないと、写真一切を撮らない。だから、俺も、それは諦めていた。それなのに、これだ。後で、しばいてでも白状させたろうと思って、その葉書はこたつの上に叩きつけて置いた。
・
「ただいまあー」の声がして、「なんじゃあっっ、これはぁぁぁぁぁぁぁ」 という怒鳴り声
が響いた。ああ、なんかびっくりしてるなーと台所から顔を覗かせたら、俺の嫁は、ぐしゃぐしゃと、その葉書を千切ってゴミ箱に捨てていた。
「水都、それな。俺宛やってんけど? 」
「・・・・俺、ちょっと出てくる。」
「はあ? どこ? 」
「うーん、往復四時間、いや、三時間かな。あ、花月は寝てや。」
「いや、待てぃ。」
すちゃりと携帯を取り出した水都は、「車貸してくれ。急用がでけたんや。・・あ?・・こ れからじゃっっ。おまえのが一番足が速いやろ? 心配せんでもガソリン満タンで、エンジンもええ色に焼いて返したるわいっっ。」 と、相手がびびるようなことを言って、携帯を切る。カバンを放り出し、ネクタイを緩めると、俺に、ものすごい笑顔を向けた。
「ごめんな、花月。ちょっと、あのくそボケと語りたいことができたから、行って来るわ。」
「いや、それはええねんけど、あのな、水都。あれな。」
「うん、ちょっとしたバイトや。気にせんでも、ケツ貸したりしてないから。・・・・おまえ
だけやからな。」
じゃ、行ってくるわ、と、素晴らしく爽やかな笑顔と、怒りマークが三個くらい額に浮き出た状態で、水都は、カンカンと表の階段を駆け下りて行った。もう、それだけで、内緒のバイトだったことと大金の出所は知れた。往復四時間、かっ飛ばして三時間の場所にいるであろう くそボケのおっさんは、おそらく、明日、起き上がれないだろう。
・・・成仏せぇーよ、おっさん。あんたが悪い。・・・・
すでに、突っ走ってしまった俺の嫁を止めることは不可能で、さらに、俺には、あの爽やかな笑顔の怖い嫁を止めるつもりはない。
・
・
後日、堀内から、俺に、文句の電話が入ったが、それについては、すげなく切って着信拒否にしてやった。たぶん、俺の嫁は、バイトしたことを知られたくなかったのだろう。それをバラしたおっさんに同情する気持ちは微塵もない。
ただ、しばらくして着信拒否を解除したら、堀内のおっさんが、「みっちゃんは三々九度だ けは拒否しよったわ。」 と、笑いながら教えてくれたのだけは、よしとしよう。