寝苦しい夜にガリガリと
寝苦しい夜だった。
あまりの暑さに夜なのに蝉が鳴き出す始末である。
けれども明日も仕事がある。
寝ない訳にはいかなかった。
目をつむり、体をただ横たえていた。
聞こえてくるのは、蝉の声、車のエンジン音、夜でも元気な若者の声、そして隣から聞こえてくるガリガリという音であった。
隣から聞こえてくる音より明らかに外から聞こえてくる音の方が大きい。
よく気にしなければ聞こえないような音だった。
恐らく聴覚だけが鋭敏になっているためにそんな些細な音が気になってしまうのだろう。
隣の部屋の住人がペットを飼っていて、それが壁をひっかいているのだろうか?
そんな事を考えながらガリガリという音を聞いていた。
それからも熱帯夜は続いた。
そして、ガリガリという音も。
「これは一つ注意しておくべきかな?」
誰に言うでもなく呟く。
一人暮らしが長いとどうにも独り言が多くなる。
この間、テレビにつっこんでいた時、「ああ、いよいよ末期だな」と独り言を言ったのが思い出された。
休みの日、管理人さんに事情を話してみた。
苦情とは取られたくはなかったので、どうしたものかと相談をした体を取った。
管理人さんは不思議そうな顔をしていた。
「お隣誰も住んでいませんよ」
「あ、そうなんですか?」
確かに表札もないし、まだ隣人とも会った事も無かった。
「じゃあ、何なんでしょうね。あの音。もしかしてネズミでも住んでいるんでしょうか?」
「他に苦情とか聞きませんし、それも違うかと思いますけど」
ネズミと聞いて嫌な顔をする管理人さん。
そうですかと納得できずままその場を後にしようとしていた時、管理人さんが腕を掴んできた。
「もし良かったらその部屋の中を確認に一緒に行きますか?」
「別にいいですけど・・・もしかして一人で行くの嫌なんですか?ネズミ嫌いとか?」
管理人さんは神妙にうなずく。
それから管理人さんと一緒に誰もいないはずの部屋に入る。
「何もいませんか?ネズミとか、虫とか、妖怪とか」
「お、押さないでください。何もいませんよ」
「・・・本当ですか?」
閑散としている部屋を見ると自分の部屋と同じ間取りのはずなのにすごく広く感じた。
ひとしきり部屋の中を確認して、管理人さんは緊張の糸が切れたのか、大きく息を吐いた。
「少し前までここにカップルが住んでいたのですけど、その人達が毎日すごい喧嘩をするものだからよく苦情が来てたんです。もしかしたらその人達が残した負の遺産があるかもって思ったんですけど。何もなくて良かったです」
「負の遺産って・・・」
にこやかな管理人さん。
「でも、そもそもネズミがいるなんて驚かすのが悪いんですよ」
「別に驚かすつもりなんて。それにここに来ませんかって誘われたから来ただけで・・・」
「言い訳なんて大人気ないですよ」
「・・・すみません」
何だかすっかり悪者扱いだ。
結局ガリガリという音は隣の住人の仕業じゃなかった。
音は今夜も続いている。
だったらこの音の原因は何なのだろうか?
壁に耳を当ててみる。
音は確かに壁から聞こえる。
「痛っ」
何かが耳をひっかいたようだった。
まさか本当にネズミがいて、壁を突き破って出てきたのだろうかと身構えたがそうでは無かった。
壁を破り、出てきたのはネズミでは無かった。
出てきたのは指。
白い長く細い指が何もない空間をガリガリと掻いていた。