投資家が見た「 ~ サンクコストのウェディングベル ~ 」
親族の結婚式。豪奢なシャンデリアの下、キャンドルサービスで練り歩く新郎新婦を眺めながら、私は手元のシャンパングラスを揺らしていた。
「あーあ。お姉ちゃん、いい相手をゲットしたよねえ、ホント、大物のマグロを釣り上げた感じ?私も、あやかりたいわ……」
隣の席で、20代半ばの姪がため息をつく。私はグラスをもてあそびながら、やや人の悪そうな微笑みを浮かべて、極めて現実主義的な視点で新郎の心の内を論評し始めた。
「新婦の方もそれなりの人魚だとは思うけどね? ほら、新郎のあの表情を見てみろ。幸せそうに笑っているが、彼の脳内にある、これまでの投資コストと、それに見合うリターンの有無、費用対効果の検算や、サンクコストの呪縛ってやつが私には見えてしまうよ」
「……おじさん、お祝いの席でなんてこと言うの?」
また始まったかと言わんばかりに、姪がジト目を向けてくるが、私の口は滑らかだった。
「いいか、婚活市場において女性が格上を狙う場合、最大の武器となるのは『コンコルドの誤謬』だ。超音速旅客機コンコルドの開発の話は知ってるだろう?費やしたコストが大きくなりすぎると、望んだ結果が得られないとしても後戻りが出来なくなる例えだ。ハイスペックな男ほど、自身の仕事においてはシビアに損切りラインを設けるが、プライベートの人間関係となると途端に情緒というバグを起こす。結婚・婚活に応用してみせようか?」
「えっ、バグ?…うん」
姪は不謹慎だと言いたげな表情を浮かべたが、好奇心に負けたという様相で食いついてきた。
「そうだ。最初は『居心地の良さ』という名の初期投資を彼に提供する。愚痴を聞き、承認欲求を満たす。時間をかけ、彼に『君への投資(時間・労力・少しの金銭)』を蓄積させるんだ。するとどうなるか。いざ関係を清算しようとした時、彼は無意識にこう計算する。『今この女を手放して、また別の女をゼロから探して教育し直すコストは莫大だ』とね」
「でもそれって、ずっと私が下手に出なきゃいけないってことじゃない?」
「いや、この市場の面白いところは、ひとたび『結婚』という契約が成立してしまえば、多くの場合、力関係が逆転するという点だ」
「逆転?」
「そうだ。結婚前はスペックの高い側に主導権があるが、事後は法と社会的体裁が彼を縛り付ける。彼が積み上げたサンクコストはそのまま『人質』に変わり、下手に出ていた側が突然、生活の実権を握るようになる。いわば合法的な敵対的買収だな」
「……なんか、聞いてるだけで疲れそう。そもそも、そんな買収を仕掛けるには、こっちのスペックも相当高くないと相手にされないんじゃないの?」
「そこがコンコルドの誤謬を語る上での面白いところだ。実は、女性自身のスペックは、世間が思っているほど重要じゃないんだよ」
「え、そうなの?」
「ああ。最低限の足切りラインさえクリアできれば、あとは『自分にどれだけ投資させたか』の勝負になる。男は最終的に、君の美貌や経歴に執着するんじゃない。君に対して費やした『自分自身の時間や労力』に価値を感じて、手放せなくなるんだ。だからスペックの差は、やり方次第で十分にひっくり返せる」
「最初は君が投資する側であっても、一度相手に、時間や金といった資本を使わせればそれがサンクコストとして自身を縛る鎖となるのさ」
「でもさ、おじさん。そのやり方で頑張っても、結局30歳前後でもっと若い子に乗り換えられちゃった、みたいな悲惨な話もよく聞くよ?」
「ああ、よくある話だ。だがそれは多くの場合、女性側が『貢ぎすぎている』可能性を検証すべきケースだな」
「貢ぎすぎ?」
「そうだ。相手を繋ぎ止めようと尽くし、相手に合わせすぎた結果、いつの間にかコンコルドの誤謬が『女性側』に発生してしまっているんだよ。『私の貴重な20代をこれだけ彼に捧げたんだから、なんとしても結婚して回収しなきゃ』とな。こうなると主導権は完全に相手に移る」
「……なるほど。引くに引けなくなってるのは女の方ってことね」
「その通り。一方、男性側からすれば、自分自身はさしてコストを払っていないのだから撤退のハードルは低い。むしろ、今損切りして別の若い女性に乗り換えた方が、トータルのリターンが大きくなる可能性があると、極めて合理的に判断できてしまうわけだ」
「うわぁ、えげつない……」
「だから、投資と同じで常に『損益分岐点』を意識しなければならない。相手に気持ちよく投資させつつも、自分自身が過剰にのめり込んで莫大な含み損を抱えないよう、定期的に関係性を見直す『リバランス』が不可欠なんだ。極端に偏った投資は必ず破綻するからな」
姪は呆れたように笑いながら、目の前のローストビーフにフォークを突き刺した。
「おじさん、25年も相場張ってると、人間の心までチャートに見えてくるわけ?」
「期待値で物事を考える癖がついているだけさ。期待値がマイナスなら、そのゲームはやってはいけない。それは大数の法則と同じ、私が信じる数少ない絶対真理の一つだよ」
姪はふと、意地悪そうに笑った。
「なるほどね。じゃあ、おじさんが今、私にこうやって長々とありがたいお説教をしてくれてるこの時間も……私が『話を合わせて聞いてあげてる』っていう、おじさんのサンクコストになってるわけだ」
私が苦笑して言葉を返そうとしたその瞬間、隣からふわりと上品な香りが漂い、弾むような声が割り込んできた。
「ふふっ、本当にねえ」
いつから聞いていたのか、親戚へのあいさつまわりを終えた妻が、シャンパングラスを傾けながら楽しそうにこちらを見つめていた。その瞳には、長年連れ添った夫をからかうような、小悪魔的な光がキラキラと揺れている。
「ずいぶんと流暢な市場分析ですこと。でもね……投資と夫婦関係には、一つだけ決定的な違いがあるのよ」
妻は姪にパチンとウインクをして見せ、それから私へと甘えるように少し身を寄せた。
「夫婦が共有した時間は、誰にも売却できない『流動性ゼロ』の資産だということ。互いの失われた若さも、共に乗り越えた苦労も、すべてが換金不可能なの」
そして、妻は私の腕にそっと手を添え、上目遣いで悪戯っぽく微笑んだ。
「……ねえ、あなた。私たちも互いに莫大なサンクコストを積み上げてきたわけだけれど……まさかここから、どこかの若い銘柄を『ポートフォリオ』に組み入れたり、悲しい『リバランス』をご希望かしら?」
怒っているわけではない。
完全に私を手のひらで転がして遊んでいるのだ。この頭の回転の速さと愛嬌こそが、私が彼女という資産に惚れ込み、長年手放せなかった最大の理由だった。
私はやれやれと肩をすくめ、手元のグラスをそっとテーブルに戻した。
「……とんでもない。現行のポジションこそが、私の人生における最高値だよ。上場廃止になるまで、永久に保有させてもらうさ」
姪が笑いをこらえて、肩を震わせる。
「ごちそうさま。ねえ、のろけ話を聞くサンクコストがあるなら、あたしの時のご祝儀弾んでよね!」
現代っ子のちゃっかりさと愛嬌が光る。
ああ、きっとこの娘は自力で巨大な本マグロを釣り上げるだろう。確信させる輝きじゃないか。
倍率幾万倍のIPO銘柄を相手に野暮な話をしたものか……気恥ずかしさを覚えつつ、残っていた酒を静かに飲み干した。
普通の優しい投資家を書きたかったけどどうだろうか?
Xに投稿したものの再掲




