舞台裏 「楽園崩壊」
番外編です。
5話と6話の間の話です。
季節の概念を失ったかのように、ありとあらゆる花々が咲き乱れる花園。
そこは常に柔らかな光と温かさに満たされ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。
姿の見えない鳥の声に包まれたその場所は、まさに幻想郷、あるいは語り継がれる「エデンの楽園」そのものであった。
その中を、虹色の翅を持つ蝶が優雅に舞う。
「む。蛾?」
唐突に伸びた手が、その蝶を無造作に捕らえた。
ヤギの面を被った男、アペルである。
「旦那様〜、ここ蛾が飛んでますよぉ。気持ち悪いんで、早く帰りましょうよ」
アペルは捕まえた蝶の翅を一片ずつ無造作にむしり取りながら、花園の中央に立つガゼボへと歩を進める。
その足元では、丹精込めて咲いた花々が一切の躊躇なく踏みにじられていった。
色とりどりの花に囲まれたガゼボの中では、一組の男女が静かにお茶会を楽しんでいる。
「ふふっ。……今すぐ、あの子を花の肥料にしたいわ」
自分の愛でる花が踏み潰される光景を眺めながら、女はどこまでも慈愛に満ちた声で呟いた。
対する男は、スズランが描かれたティーカップを静かに傾ける。
「……お前の犬を貰っていいなら、好きにしろ」
その男の名は、ヒナタ。
暗く沈んだワインレッドの髪が、ガゼボに差し込む陽光を吸い込み、どこか血の混じったような鈍い光を放っている。
首元に揺れるのは、不穏な意匠を象ったネックレスだ。
二本の横棒を冠した逆十字の下部に、無限を象徴する「∞」の紋章が重なる――それは、この楽園の静謐さを嘲笑うかのような背徳の象徴。
純白のシャツの上に、前を大きくはだけた黒いカソックを羽織り、黒のズボンに包まれた足を優雅に組んでいる。
膝までを覆う重厚なロングブーツが、彼がこの場を支配する「主」であることを無言で誇示していた。
「茶をいれろ」
ヒナタは短く命じると、空になったカップを事も無げに置いた。
白いレースの施されたテーブルクロスには、可憐な花の刺繍が躍っている。
「お口に合って?……あなただけのために用意した特別な茶葉なのよ」
女の視線は、ガゼボの外へと向けられていた。
「歩きづら~い。じゃまですぅ~」
そこではガゼボに向かって歩いていたはずのアペルが、咲き誇る花々を無造作に引き抜いては放り投げている。
蹂躙される庭を眺めながらも、女の声はどこまでも穏やかだ。
「……酷く不味いな。ただ、口寂しいだけだ。何かを入れておかなければ落ち着かない」
吐き捨てるようなヒナタの言葉に、女の唇が艶やかに弧を描く。
「もしここで煙草に火をつけたら、あなたもこの花の仲間入りよ。……その時は、あのヤギをあなたの肥料にしてあげるわ」
「――やってみろよ」
射抜くような視線が交差し、一瞬、花園の空気が凍りついたような沈黙が流れる。
だが、その緊張を破ったのは、低く湿った笑い声だった。
「ふ、ふふ……ふふふ」
「はっ、はは……はははは」
どちらからともなく溢れ出したのは、互いの狂気を慈しむような、傲慢で不遜な嘲笑だった。
「……子うさぎが、欲しいの」
不意に笑いを収めた女が、ひどく静かな声で零した。
「何度死んでも、その都度生き返る力を持っているんですって。手に入れたいわ、どうしても。……うちの『狼』がデザートにすると言って聞かないのだけれど、食べさせてしまうには惜しい素材だわ」
「だから?」
「あのヤギを、貸してくださらないかしら。うちの『役者』ではないけれど……あなたが、色々と仕込んだのなら、それなりに腕はたつのでしょ? 『雪豹』も、今はいないみたいだし」
「……他のペットに頼め」
ヒナタはひどく退屈そうに言い捨てた。
先ほど「茶をいれろ」と命じたにもかかわらず、女は彼の空のカップを満たそうとはしない。
口寂しさを紛らわせるためか、あるいは単なる腹いせか。
ヒナタは躊躇いもなく、蓮の紋様が描かれた女のティーカップへ手を伸ばす。
彼女が飲み残したひどく不味い紅茶を、唇を汚すことも厭わず、そのまま自らの口へと流し込んだ。
「……そう。なら、うちの犬を向かわせるしかないわね」
女はわざとらしくため息をつき、唇に妖しい笑みを浮かべた。
「ちょうど発情期に入ったところでね。あなたのところの『質のいい雌猿』を相手にくれるなら、犬を使ってもいいのだけれど?」
「……」
その瞬間、ヒナタの周囲の空気がぞっとするほど冷え込んだ。
自分の所有物である「雌猿」が、他人の薄汚い犬に穢される光景を想像したのだろう。
ヒナタは舌打ちを飲み込むように、酷く忌々しげに目を細める。
「……ふざけるなよ」
不快感を露わにした低い声で吐き捨てると、彼はひどく面倒そうにため息をついた。
「……今回だけだからな。ヤギを使え」
交渉が成立した。女は満足げに目を細める。
「狼と遭遇して、恐ろしい思いをした可哀想な子うさぎちゃん。……けれど、同じ『草食動物』のヤギが相手なら、きっと警戒も解くでしょう?」
女の視線が、再びアペルへと戻る。
カチッ、カチッ。
無機質な音が響いたかと思うと、アペルの手にある銀色のオイルライターから小さな火が上がる。
彼はその火を、引き抜いた花々の山へと無造作に落とした。
「燃えろ、燃えろ……っ! だはははは!」
アペルは哄笑しながら、軽快なステップで次々と火を放っていく。
逃げ場のない花々が炎に巻かれ、楽園はまたたく間に紅蓮の海へと沈んでいく。
やがて焦げ臭い黒煙が風に乗り、ガゼボの中まで容赦なく入り込んできた。
しかし、熱風が肌を炙ろうと、煙が視界を霞ませようと、二人は咳き込むことすらない。
まるでそれが極上のお香であるかのように、全く意に介さず優雅なティータイムを続けている。
「――本当に、お花の肥料にして差し上げたいわ」
足元にまで迫る地獄絵図を、女はまるで愛しい我が子を見守るかのような、どこまでも慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。
明日は舞台裏2です。
6話と7話の間の話になるんですかね。
本編は3月26日18時~19時の間に投稿します。




