第2話 走らない席
名刺の紙は薄かった。
だが、そこに印刷された文字は、妙に重く感じた。
「……俺、選手ですらないですよ」
そう言うと、男――鷹宮コーチは肩をすくめた。
「だからいい。選手は自分の体しか見えない。
だが君は、全体を見ている」
その言い方が、気に食わなかった。
褒められているはずなのに、逃げ場を塞がれている気がしたからだ。
「一度、来い。話はそれからだ」
それだけ言って、鷹宮は去っていった。
⸻
数日後。
俺は別の高校のグラウンドに立っていた。
強豪校――ではない。
むしろ、地区大会すら通過できない、名前も知られていない学校だった。
「今日からこいつが、分析担当だ」
鷹宮の一言で、視線が一斉に集まる。
「……誰?」
「走らないの?」
「学生?」
囁き声が、はっきり聞こえた。
無理もない。
俺はジャージも着ていないし、タイムを測る道具も持っていない。
手にあるのは、ノートとペンだけだった。
「桐生恒一です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、
数人が露骨に目を逸らした。
その瞬間、分かった。
――ここでも、俺の席はない。
「いいから始めるぞ」
鷹宮の声で、練習が動き出す。
俺はベンチに座り、黙って見ることにした。
走り出し。
腕の振り。
着地の癖。
数字が、頭の中で勝手に並び始める。
「……三番、後半落ちるな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
案の定、三本目のダッシュでフォームが崩れた。
「水飲め!」
鷹宮が声を飛ばす。
俺はノートに書いた。
“疲労回復に7分必要”
それを見て、胸がざわついた。
――言うべきか。
言えば、また嫌われる。
言わなければ、予測は当たる。
数分後。
「次、リレーやるぞ!」
鷹宮の判断は、俺の予測より早かった。
結果、一本目で転倒者が出た。
「……誰だ、無理させたの」
空気が一気に重くなる。
そのときだった。
「俺です」
気づけば、声を出していた。
「七分待てば、防げました」
全員の視線が突き刺さる。
「根拠は?」
鷹宮が聞く。
俺はノートを差し出した。
タイム。
心拍。
足の接地回数。
誰も理解していない。
だが、鷹宮だけは黙って見ていた。
「……今日はここまでだ」
練習は、そこで切り上げられた。
⸻
片付けの後、鷹宮が俺に言った。
「君、嫌われるぞ」
「……分かってます」
「正しすぎるからな」
それは、忠告だった。
「だがな」
鷹宮は低い声で続けた。
「勝ちたい連中は、最後に君の席を用意する」
ベンチの端。
誰も座らない場所。
「ここが、君の席だ」
俺はそこに座った。
走らない。
声も出さない。
ただ、数字を見る。
その瞬間、はっきり分かった。
――ここから先、
俺は“好かれる側”には戻れない。
だが。
スマホに届いた速報で、
この学校の勝率が、確かに上がっているのを見た。
胸の奥で、何かが静かに笑った。
評価されない才能は、
ちゃんと牙を持っていた。




