第1話 お前は結果を出さない
大会前日の夕方、グラウンドには湿った土の匂いが残っていた。
最後の調整を終えた陸上部員たちは、いつもより口数が少ない。空が暗くなるにつれ、緊張だけが濃くなっていく。
その輪の外で、俺――桐生恒一は一人、記録表を見ていた。
ノートに書き込まれた数字は、誰が見ても地味だ。
タイムは平均的。跳躍距離も突出していない。
だから俺は補欠だったし、それは納得していた。
「桐生」
顧問の声が、やけに事務的に聞こえた。
「明日の大会だが、お前は帯同しなくていい」
一瞬、意味が分からなかった。
「……外される、ということですか」
「そうだ。結果を出さない選手は連れて行けない」
理由は単純だった。
そして、正しかった。
俺は走れない。
勝負を決める瞬間に、主役にはなれない。
「分かりました」
それ以上、何も言わなかった。
言っても、意味がないと分かっていたからだ。
ただ一つだけ、胸の奥に引っかかるものがあった。
「……あの、顧問」
「なんだ」
「エースの出走順、変えた方がいいと思います」
顧問は眉をひそめた。
「理由は?」
「今日の練習、後半のフォームが崩れてました。疲労が抜けてない。今のままだと――」
「桐生」
遮るように言われた。
「お前はコーチじゃない。選手だ」
いや、選手ですらないか。
その言葉は、口に出さずに飲み込んだ。
「分かりました」
顧問はそれ以上、俺を見なかった。
⸻
大会当日。
俺は家で速報を追っていた。
スタート、予選通過。
ここまでは予定通りだ。
問題は決勝だった。
中盤。
エースのタイムが、明らかに落ちる。
「……やっぱり」
独り言が漏れた。
フォーム。
呼吸。
足の運び。
全部、昨日ノートに書いた通りだった。
結果は惨敗。
優勝候補だった学校は、表彰台にすら上がれなかった。
数分後、スマホが震えた。
『桐生、お前……なんで分かった?』
同級生からのメッセージだった。
俺は返事をしなかった。
どう返せばいいのか、分からなかったからだ。
俺の「分かる」は、いつも役に立たない。
記録にならない。
点数にもならない。
誰の評価表にも書かれない。
だから、価値がない。
――そう思っていた。
⸻
数日後、校外の競技場。
忘れ物を取りに来ただけのはずだった。
「君」
声をかけられ、振り返る。
見知らぬ男だった。
年齢は三十代後半。ジャージ姿だが、ただ者じゃない雰囲気がある。
「君、先日の大会を見てたか?」
「……はい」
「エースが失速するって、事前に分かってた?」
心臓が跳ねた。
「なぜ、そう思う?」
男は笑った。
「君がベンチにいないのに、ベンチを見てたからだ」
意味が分からなかった。
「勝つチームのベンチには、必ず“数字を見る目”がある。
今回は、それがなかった」
男は名刺を差し出した。
そこには、元プロ選手であり、現在は複数校の外部コーチを務めていることが書かれていた。
「走らない才能は、嫌われやすい」
男は続けた。
「だがな、勝たせる才能は――」
一拍、間を置いてから言った。
「一番、金になる」
俺は名刺を握りしめた。
初めて、自分の中の“役に立たないはずの何か”が、
別の名前で呼ばれた気がした。
――評価されない才能。
それが、動き出す音がした。




