第98話 夫婦水入らずの夜と、愛しき軌跡
テオドールがスヤスヤと心地よい寝息を立て始めた夜更け。
子ども部屋のミスリル製ベビーベッドには、防音と快適な温度を保つ魔法がかけられ、過保護な寝具たちが我が子を優しく包み込んでいる。
私たち夫婦は、静まり返った自室の長椅子に腰を下ろしていた。
『ヒュー! 俺様たちは空気を読んで寝たふりをしておくぜ! 朝まで存分にイチャイチャしてくれよな!』
壁に立てかけられたグラムさんが気を利かせて(?)オーラを完全に消し、部屋中の家具たちも『おやすみなさいませ』と静かな休眠に入ってくれた。
完全な、夫婦水入らずの空間。
魔鉱石のランプが、オレンジ色の淡い光で部屋を優しく照らしている。
「……テオは、よく眠っていたか」
「はい。今日はいっぱい遊んだので、絵本を読み終わる前にぐっすりでしたわ」
私が微笑んで答えると、ジークハルト様は空のワイングラスをテーブルに置き、長い腕を伸ばして私の腰をぐいっと引き寄せた。
「きゃっ……」
そのまま彼の膝の上に横座りになる形で抱き上げられ、広い胸板にすっぽりと収まってしまう。
トクトクと、彼のリズミカルな心音が耳元ですぐに聞こえた。
「昼間、テオの前で言っただろう。……夜になれば、『ぎゅー』だけでは済まさない、とな」
ジークハルト様の低く掠れた声が、頭上から降ってくる。
その言葉通り、私を抱きしめる腕の力は強く、逃げ場なんてどこにもない。でも、逃げるつもりなんて最初からなかった。
私は彼の胸に頬をすり寄せ、そっと目を閉じた。
「……ふふっ。パパ公爵様は、昼間のテオの暴露がよほど恥ずかしかったのですね」
「からかうな。……俺がどれほどお前を想っているか、お前自身の体でわからせてやる」
彼は私の顎を指先でそっとすくい上げ、重く、熱い口づけを落とした。
――んっ……。
甘く溶けるようなキスの連続に、頭の芯がぼんやりと麻痺していく。彼の匂いと体温に包まれていると、世界中に私たち二人しかいないような錯覚に陥ってしまう。
唇が離れると、ジークハルト様は愛おしそうに私の髪を撫でた。
「……王都で、俺との縁談を受けた時、お前は泣いていたのだろうか。こんな雪と氷に閉ざされた辺境の、血生臭い男の元へ嫁がされると」
不意に紡がれた過去の話題に、私はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。泣いてなんていませんわ。……ただ、不安でした。王都で独り言が多くて気味が悪いと婚約破棄された私を、辺境伯様は受け入れてくださるのだろうかって」
私は、当時の孤独だった自分を思い出しながら、彼の大きな手に自分の手を重ねた。
「でも、この北の大地に来て……ジークハルト様に出会って、すべてが変わりました。あなたは私の秘密を察しても、決して気味悪いなんて言わなかった。『お前の声で、この城が明るくなった』と、私を必要としてくれた」
私が彼を見上げて微笑むと、ジークハルト様のアイスブルーの瞳が、微かに潤んだように揺れた。
「……俺の方こそだ、コーデリア」
彼の手が私の頬を深く包み込む。
「沈黙の辺境伯と呼ばれ、誰からも恐れられていた俺の人生は、お前が来てから色鮮やかに塗り替えられた。お前がモノたちの声を聞き、領民に寄り添い、この凍てつく大地に春をもたらしてくれたんだ」
ジークハルト様の言葉は、どこまでも真っ直ぐで、飾らない本音だった。
「お前は俺に、愛するという感情を教えてくれた。……そして、テオというかけがえのない宝物をくれた。俺が何度命を懸けても足りないくらい、お前たちから多くのものをもらっている」
「ジークハルト様……」
嬉しくて、胸の奥が熱くなり、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
彼はその涙を唇でそっと拭い去り、再び私を強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「泣かないでくれ、俺の愛しい女神。……お前が笑ってくれるなら、俺はどんな敵からも、どんな運命からもお前を守り抜く。この命が尽きるその時まで、俺のすべてはお前のものだ」
「……はい。私も、私のすべてをあなたに捧げます。……愛しています、ジークハルト様」
私たちは、お互いの存在を確かめ合うように、再び深く、熱い口づけを交わした。
窓の外には、北の大地の澄んだ夜空に、無数の星が輝いている。
呪われた土地と呼ばれたこの辺境は、今や愛と笑い声に溢れる、世界で一番温かい楽園だ。
おしゃべりなモノたちの静かな寝息と、愛する夫の体温に包まれて。
私たちの甘く静かな夜は、更けていくのだった。
次回最終話です。




