第45話 星空の下の混浴と、触れ合う熱
雪景色に囲まれた岩造りの露天風呂。
脱衣所で準備を済ませた私は、ジークハルト様より一足先に、白く立ち上る湯気の中へと足を踏み入れた。
「……ふぅっ」
『あらあら、奥様のお肌すべすべね! 私の美肌成分、たっぷり吸い込んでいってちょうだい!』
ちゃぷん、と肩までお湯に浸かると、源泉が嬉しそうに気泡を立てて私を包み込んだ。
芯から冷えていた体が、じんわりと解けていく。見上げれば、冬の澄んだ夜空に満天の星が瞬いていた。
ほどなくして、ガラス戸が静かに開く音がした。
「……入るぞ」
低く、どこか強張った声と共に、ジークハルト様が露天風呂に姿を現す。
腰にタオルを一枚巻いただけの姿。
月明かりに照らされたその体は、厚い胸板と、戦場で鍛え上げられた無駄のない筋肉で覆われている。そして、無数の古い傷跡が、彼がこれまでどれほどの修羅場を潜り抜けてきたかを物語っていた。
思わず見惚れてしまった私の視線に気づいたのか、ジークハルト様はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……傷だらけで、見苦しいだろう」
「そんなことありません! ……ジークハルト様が領地や皆を守ってこられた、誇り高い証です。私は、その傷も含めて……好き、ですから」
お湯の熱さのせいにして、私は思い切って本音を口にした。
ジークハルト様の動きがピタリと止まる。
『うおおお! ご主人様に会心の一撃! 「天使だ……俺の妻はやっぱり天使だった……。こんな無骨な体でも受け入れてくれるなんて……!」って、今にも天に昇りそうな顔してるぞ!』
脱衣所のカゴに置かれたリュックの中から、グラムのやかましい実況が響いてくる。
ジークハルト様は「……っ」と短く呻き、顔の下半分をお湯に沈めるようにして、私から離れた対角線上の岩場に腰を下ろした。
耳まで真っ赤になっているのが、湯気越しでもはっきりとわかる。
広い露天風呂の中で、私と彼は一番遠い距離で向かい合う形になった。
(……なんだか、とても遠いです)
せっかく一緒に入れたのに、これでは少し寂しい。
私はお湯の中でキュッと拳を握り、ちゃぷちゃぷと音を立てながら、彼のいる方へと少しずつ近づいていった。
「……! こ、コーデリア!?」
「ジークハルト様……。せっかくですから、もう少し、お近くにいきませんか?」
私が上目遣いで尋ねると、彼はひどく狼狽したように目を泳がせた。
視線を私の顔から下へ向けまいと、必死に星空を睨みつけている。
『おいおいご主人様! 「ち、近づいたら理性が吹き飛びそうだ! お湯で濡れた彼女の姿など、直視できるわけがないだろう! 俺は獣にはなりたくない!」って、必死に煩悩と戦ってるぜ! でもちょっとは男見せろよ!』
……また一人で勝手に葛藤してくれている。
彼がどれだけ私のことを大切に(そして女性として意識して)くれているかが痛いほど伝わってきて、私は胸の奥がくすぐったくなった。
「ジークハルト様」
私はついに彼の手が届く距離まで近づき、お湯の下で、彼の大きな手にそっと自分の手を重ねた。
ビクリ、と彼の肩が跳ねる。
でも、振り払われることはなかった。
重ねた手から、彼のごつごつとした指先の感触と、お湯の熱さ以上の体温が伝わってくる。
「……本当に、いいのか」
星空を睨んでいた彼が、ゆっくりと視線を落とし、私の目を見つめた。
その赤い瞳は、普段の冷静さなど微塵もなく、熱っぽく揺らいでいる。
「はい。……私から、お誘いしたんですから」
私が微笑むと、ジークハルト様は小さく息を吐き、負けたとばかりに目を伏せた。
そして、水面下で私の手を力強く握り返し、ぐいっと自身の胸元へと引き寄せた。
「っ……」
お湯が波立ち、私たちの距離がゼロになる。
彼の広くたくましい胸板に、私の額がコツンと当たった。
ドクン、ドクンという、早すぎる心音がお互いに伝わってくる。
「……お前は、俺をどうしたいんだ」
頭上から降ってくる、掠れた甘い声。
普段の彼からは想像もつかないほど、切実で、色気を帯びた響きだった。
「……俺は、聖人君子ではない。こんな風に無防備に近づかれたら……我慢できなくなる」
大きな手が私のお湯に濡れた髪を撫で、そのままそっと顎をすくい上げる。
見上げた先には、私を射抜くような、熱を孕んだ真剣な瞳があった。
彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
触れ合う鼻先。重なる吐息。
私は静かに目を閉じ、彼の熱を受け入れようと――。
『ヒュウウウ! キタキタキタァァ! ご主人様いっけえええ! 俺様は何も見てない! 布被ってるから何も見えないぜぇぇ!』
『あらあら! お熱いわねぇ! 私ももっとお湯の温度上げちゃおっと! ボコボコボコッ!』
「……っ!!」
グラムの空気を読まない大絶叫と、岩風呂の謎のサービス精神(源泉大噴出)によって、甘い雰囲気は一瞬にして吹き飛んだ。
突如として足元からボコォッと熱湯が湧き上がり、露天風呂の温度が一気に急上昇する。
「あちちっ!?」
「くっ……!」
あまりの熱さに、私たちは慌てて体を離した。
そして、急激な温度変化と、先ほどの極限の緊張状態が重なったせいだろう。
ジークハルト様の顔色がみるみるうちに茹でダコのように真っ赤になり、その大きな体が、グラリと湯船の中で傾いた。
「ジ、ジークハルト様!?」
『あーあ! ご主人様、完全にのぼせちゃったよ! オーバーヒートだ!』
私は慌てて彼を支えようとしたが、私の顔もまた、熱さと恥ずかしさで限界を迎えており、視界がぐるぐると回り始めていた。
「あ、あれ……私も、なんだかフワフワして……」
『ちょっ、奥様まで!? 二人揃ってのぼせてどうすんだ! 誰かー! セバスチャーーーン!(※不在)』
結局、私たちは極上の甘い時間を最後まで堪能しきれないまま、二人してフラフラになりながら露天風呂から這い出すことになった。
◇
「……すまない。情けない姿を晒した」
湯上がりの広縁。
火照った体を冷ましながら、ジークハルト様は冷たい水を一気に飲み干し、深く肩を落としていた。
「いいえ。私も、最後は少しクラクラしてしまいましたから……」
私も隣で水を飲みながら、苦笑する。
結局、いいところでお預けになってしまったけれど。それでも、彼とあんなに至近距離で見つめ合い、触れ合えた熱は、私の体の中に確かに残っている。
「でも……すごく、ドキドキしました。……幸せでした」
私がそう伝えると、ジークハルト様は目を見開き、そして照れ隠しのように手で顔を覆った。
「……次こそは、お前をちゃんと……」
ボソリと呟かれたその言葉は、私にははっきりと聞こえなかったけれど、真っ赤になった耳が、彼の決意を雄弁に物語っていた。
二人きりの、極秘のお泊まりデート。
完璧なロマンチックとはいかなかったけれど、私たちにはこれくらいの不器用なペースが、ちょうどいいのかもしれない。




