第43話 お忍びデートと、二人の距離
早朝の城を抜け出した私たちは、朝霧の中を歩き、オルステッド領自慢の温泉街へと辿り着いた。
時刻はまだ早いが、朝市の準備をする人々や、朝風呂目当ての観光客で、通りはすでに活気づいている。
湯煙が漂う石畳の道。軒先に吊るされた魔鉱石のランタンが、淡い光で足元を照らしている。
普段は領主として、大勢の随行員を引き連れて視察に来る場所だ。
「……不思議な気分だな」
隣を歩くジークハルト様が、黒い伊達眼鏡の位置を直しながら呟いた。
地味な旅人の服に、黒く染めた髪。完璧な変装のはずだが、すれ違う人々がちらちらと振り返るのは、隠しきれない彼のスタイルの良さと、滲み出る気品のせいだろう。
「そうですね。いつもは遠くから眺めるだけの景色が、こんなに近く感じられるなんて」
私も亜麻色のウィッグを被り、村娘風のワンピースを着ている。誰にも正体がバレていない(はず)という背徳感と解放感が、胸を高鳴らせていた。
「手は、離すなよ。……はぐれたら困る」
ジークハルト様が、私の手をぎゅっと握り直す。その手は少し汗ばんでいて、彼の緊張と、それ以上の高揚感が伝わってくるようだ。
『ヒュー! ご主人様ったら、「はぐれたら困る」じゃなくて「一秒も離したくない」って顔に書いてあるぜ! 朝から熱いねぇ!』
背中のリュックサック(布でグルグル巻きにされたグラムが入っている)から、茶化すような念話が届く。
私は小さく笑って、彼の手を握り返した。
「はい。絶対に離しません」
◇
私たちは、観光客に混じって通りを散策した。道の両側には、湯気を上げる屋台や、色とりどりの土産物屋が並んでいる。
「いらっしゃい! 蒸したての温泉まんじゅうだよ! 皮には魔鉱石パウダー(食用)練り込み済み! 食べれば魔力回復間違いなし!」
威勢のいいおじさんの声に釣られて、私たちは屋台の前で足を止めた。
「……一つ、もらえるか」
「あいよ! お兄さん、彼女さんと旅行かい? お似合いだねぇ!」
おじさんがホカホカのまんじゅうを包んで渡してくれる。
「彼女さん」。その響きに、ジークハルト様の耳が赤く染まった。
「……あ、ああ。……妻だ」
「おっ! 新婚さんかい! じゃあこれ、おまけしとくよ!」
おじさんは豪快に笑い、もう一つまんじゅうをサービスしてくれた。私たちは礼を言って、ベンチに腰掛けてそれを分け合った。
「……熱いな」
「ふふ、でも美味しいです。皮がもちもちで、餡も甘すぎなくて」
ハフハフと言いながらまんじゅうを頬張る。
ジークハルト様も、普段の優雅な食事マナーとは違う、手づかみでの買い食いを楽しんでいるようだ。口の端に少し餡がついているのが愛おしい。
「……あ、ついてますよ」
私が指先でそれを拭ってあげると、彼はビクリと固まり、湯気が出るほど顔を赤くした。
『ご主人様、ショート寸前! 「今の指! 俺の口元を! ああっ、舐めたいけど変態だと思われるから我慢だ!」って葛藤してるぞ!』
グラムの実況を聞かないふりをして、私は微笑んだ。
◇
その後、私たちは土産物屋を覗いて回った。
ガラス細工の店、木彫りの店、魔鉱石のアクセサリーショップ。どれも領民たちが工夫を凝らして作ったものだ。
「綺麗……」
私が小さな髪飾りの前で足を止める。それは、透き通るような青い魔鉱石で作られた、雪の結晶を模したピンだった。
ジークハルト様の瞳の色に似ている。
「……欲しいのか?」
「いえ、ただ綺麗だなって」
私が言うと、彼は「少し待ってろ」と言って店に入り、すぐに戻ってきた。
その手には、綺麗に包装された小箱が握られている。
「……やる」
「えっ? でも……」
「日頃の……感謝だ。それに、その色は……君によく似合う」
彼はぶっきらぼうに言って、箱を私の手に押し付けた。
箱を開けると、先ほどの青い髪飾りと、もう一つ、アメジスト色の髪飾りが入っていた。青は彼の色、紫は私の瞳の色。
「……お揃いだ」
彼がボソリと呟く。
どうやら、こっそりと自分の分も買っていたらしい。
不器用なサプライズに、胸が温かくなる。
「ありがとうございます。……つけていただけますか?」
「……俺がか?」
「はい。あなたにつけてほしいです」
私が背を向けると、彼は震える手で、私の髪に青いピンを挿してくれた。
そして私も、彼の上着の襟元に、紫のピンをつけてあげる。
「ふふ、これでお揃いですね」
「……ああ。……悪くない」
彼は襟元のピンを愛おしそうに撫でた。
その表情は、どんな高価な宝石を得た時よりも幸せそうだった。
◇
散策を楽しんだ私たちは、いよいよ本日の目的地へと向かった。温泉街の喧騒から離れた、静かな森の中に佇む隠れ家旅館。
その名も『雪月花』。一日三組限定、全室離れの露天風呂付きという、領内最高級の宿だ。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
門をくぐると、着物姿の女将が出迎えてくれた。
彼女だけは、私たちの正体を知っている協力者だ(セバスチャンの古くからの知り合いらしい)。
「お忍びの旅、お疲れ様でございました。お部屋へご案内いたします」
案内されたのは、一番奥にある離れ『白雪の間』だった。純和風の落ち着いた室内。畳の香りが心地よい。
そして、広縁の向こうには専用の庭園が広がり、そこには――。
「わぁ……!」
思わず声が出た。
そこには、岩作りの立派な露天風呂があったのだ。もうもうと湯気を上げ、源泉かけ流しのお湯が溢れている。
『おおっ! すげぇ! 部屋に温泉があるぞ! これなら人目も気にせず入り放題だ!』
背中のリュックから、グラムが興奮した声を上げた。布越しでもその驚きが伝わってくる。
さらに、部屋の方からも歓迎の声が聞こえてくる。
『ようこそ! い草の良い匂いがするだろう! ゴロゴロしていけ!』
『障子も張り替えたばかりよ! 真っ白で綺麗でしょ! 穴を開けないでね!』
グラムだけでなく、部屋の畳や障子たちも歓迎してくれているようだ。
ジークハルト様は、部屋に入るなり「ふぅ」と大きく息を吐き、変装の眼鏡を外した。
「……やっと、落ち着けるな」
「はい。素敵なところですね」
二人きりの空間。もう誰の目も気にする必要はない。
ジークハルト様が、私を正面から見つめる。その赤い瞳が、熱っぽく揺れている。
「……コーデリア」
彼がそっと私の頬に触れ、顔を近づけてくる。
心臓が早鐘を打つ。
キス……?
「……その、まずは……」
彼は寸前で止まり、視線を泳がせた。
「……ひとっ風呂、浴びないか? 汗をかいただろう」
『ズコーッ! ヘタレ! そこはいくとこでしょうご主人様!』
リュックの中のグラムが叫ぶが、私もホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちだった。
でも、彼の真っ赤な耳を見れば、彼がいっぱいいっぱいなのはよく分かる。
「そうですね。……では、お言葉に甘えて」
私は微笑んで頷いた。ここには、二人で入れる大きな露天風呂がある。
……ということは、もしかして混浴なのだろうか?
私の思考を読んだのか、部屋の襖が『あっちに脱衣所あるよ! 浴衣も用意してあるからね!』と親切に教えてくれた。
これから始まる、二人きりの甘い(そして多分ドキドキの)時間。
私は期待と緊張で胸を膨らませながら、用意された可愛い柄の浴衣を手に取った。




