第41話 すれ違う時間と、公爵様の限界
賑やかだった新人歓迎会の夜から、数日が過ぎた。
元・宮廷料理人のジャン、元・男爵令嬢の掃除屋リリィ、元・冒険者の庭師ガイル、そして引退した老魔術師マーリン。個性豊かな新しい使用人たちが城に馴染み、それぞれの持ち場で驚くべき手腕を発揮し始めたことで、オルステッド公爵領の運営は劇的に効率化された。
その結果、城内業務に余裕が生まれた……はずだった。
しかし、現実はそう甘くはなかった。城内の業務が片付いた分、今まで後回しになっていた領地全体の案件が、雪崩のように押し寄せてきたのだ。
「奥様! 温泉街の組合長から相談です! 『新しいお土産のパッケージ、奥様のイラスト入りにしたい』とのことですが! あと新商品の『温泉プリン』の試食もお願いします!」
「コーデリア様! 王都の魔導具ギルドから視察の申し込みが来ています!『万物の代弁者』にぜひ講演をお願いしたいと! 日程の調整を!」
「奥方様、農村の収穫祭の日程調整を……あと、畑のジャガイモたちの成長が良すぎて、収穫の手が足りないそうです。なぜか奥方様がいらっしゃる日だけ成長が早いとかで……」
私は、執務室のデスクで書類の山に埋もれていた。
セバスチャンさんが倒れるほどの激務は、新人たちの活躍で解消された。しかし今度は、コーデリア個人への指名依頼が殺到しているのだ。
領民や観光客にとって、私は「呪われた土地を楽園に変えた女神様」らしい。ありがたいことだが、体がいくつあっても足りない。
「は、はい! 順番にお伺いしますね! ……あ、その件はセバスチャンさんに確認を……えっ、ジャガイモさんたちが? わ、わかりました、後で畑に行きますと伝えてください!」
私は笑顔で対応し、次々と決済印を押していく。
充実している。自分の力が誰かの役に立っているのが嬉しい。かつて王都で気味悪いと言われ続けてきた私にとって、必要とされることは何よりの喜びだった。
けれど、私は一つだけ、重大なことを見落としていた。
◇
その日の夕方。
私は、城の廊下を早足で歩いていた。
窓の外はすでに薄暗くなっている。次の予定は、ジャンとの夕食メニューの打ち合わせだ。その次はリリィと客室の備品チェック。さらにその次は、マーリンさんと図書室の魔導書の整理。分刻みのスケジュールだ。
「急がないと……ジャンさんを待たせてしまうわ」
角を曲がろうとした時、ドンッ! と誰かにぶつかってしまった。
硬い感触。漂う、冷たく澄んだ冬の空気のような、慣れ親しんだ匂い。
「あ、申し訳ありませ……」
「……いや。大丈夫だ」
低い声。見上げると、そこにはジークハルト様が立っていた。
彼はいつもの黒い軍服姿で、私を見下ろしている。その表情は、鉄仮面のように無表情だ。
しかし、その瞳の奥には、どこか暗い色が沈んでいるように見えた。
「ジークハルト様! ごめんなさい、急いでいて……。お仕事は終わりましたか?」
「……ああ。先ほど」
彼は何か言いたげに口を開きかけ、しかしすぐに閉じた。
そして、私の手にある分厚い書類の束へと視線を落とす。
「……忙しそうだな」
「はい、おかげさまで。領地の皆さんが張り切ってくれていて、嬉しい悲鳴です」
「……そうか」
会話が途切れる。
いつもなら、ここで腰のグラムが『ご主人様、奥様に会えてデレデレだぞ!』とか『早く抱きしめちまえよ!』と茶々を入れてくるところだが、今日の彼はなぜか鞘の中で沈黙している。
ジークハルト様の纏う空気が、どこか冷たく、重い。まるで、嵐の前の静けさのようだ。
「あ、あの……」
「……邪魔をしたな。……頑張れ」
彼は私の頭をポン、とぎこちなく撫でると、そのまま背を向けて歩き去ってしまった。
その背中が、普段よりも一回り小さく、寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
(……なんだか、様子が変だったわ。お疲れなのかしら)
私は首を傾げつつも、待っているジャンの元へと急いだ。
◇
その夜。
夕食の時間になっても、ジークハルト様は食堂に現れなかった。
いつもなら、どんなに忙しくても夕食だけは必ず二人で摂るようにしていたのに。
セバスチャンに尋ねると、彼は困ったように眉を下げた。
「旦那様は『食欲がない』と仰って、執務室に籠もっておられます。……どうやら、少しご機嫌斜めのようでして」
「食欲がない? あの健啖家なジークハルト様が?」
ジャン特製のサーモンムニエルを楽しみにしていたはずなのに。
私は心配になり、ジャンの作った特製スープをお盆に乗せて、執務室へと向かった。
重厚な扉の前でノックをする。
「ジークハルト様、コーデリアです。入ってもよろしいですか?」
返事がない。
しかし、扉のノブに手をかけた瞬間、私の脳内に大音量の「警告音」が鳴り響いた。
『緊急事態! 緊急事態発生! 奥様、心の準備はいいか!? 防御態勢をとれ! 今のご主人様は危険だぞ!』
グラムの声だ。いつもより切迫している。
ガチャリと扉を開けると、そこは真っ暗だった。
照明もつけず、魔鉱石の薄明かりだけが頼りの部屋の中。デスクに突っ伏している、巨大な影があった。
「ジークハルト様……?」
私が恐る恐る近づくと、彼はガバッと顔を上げた。
その目は赤く充血し、頬はやつれ、全身からどす黒いオーラ(のようなもの)を放っている。まるで、三日三晩寝ていない亡霊のようだ。
「……コーデリア」
「はい、コーデリアです。……どうなさったのですか? どこかお加減が……」
私がスープを置いて駆け寄ろうとすると、グラムが叫んだ。
『病気じゃねえ! これは「コーデリア不足欠乏症」の末期症状だ!』
「え?」
『聞いてくれよ奥様! ご主人様、ここ三日間、まともに奥様と話せてないんだよ! 朝は奥様が早起きして現場に行っちゃうし、昼は来客対応ですれ違い、夜は奥様が疲れてすぐ寝ちゃうから、寝顔を見ることしかできない!さっき廊下で会った時だって、本当は「寂しかった」「もっと話したい」って言いたかったのに、書類の山を見て「俺が引き止めたら迷惑になる」って飲み込んじまったんだよ! 「俺の妻なのに……。領民たちの方がコーデリアと喋ってる……。俺は……俺はただの同居人か……? いや、空気か? いっそジャガイモになりたい……」って、さっきからデスクの木目を数えながら病んでたんだよ!』
グラムの暴露に、私はハッとした。
言われてみれば、この数日、ジークハルト様とゆっくり目を見て話した記憶がない。
「仕事だから」「みんなのためだから」と思うがあまり、一番大切な人をないがしろにしていたのだ。
彼がどれだけ私を大切に思い、求めてくれているかを知っていたはずなのに。
「……すまない」
ジークハルト様が、掠れた声で呟く。
「……君が、領地のために尽くしてくれているのはわかっている。……感謝している」
彼はギュッと拳を握りしめ、まるで内側から食い破られそうな痛みを堪えるような顔で私を見た。
「……胸が、苦しい。……君の声が、他の男(組合長や商人)に向けられているのを聞くたびに、……叫び出したくなる。……俺は、器の小さい男だ」
『翻訳! 「嫉妬だ! 嫉妬で気が狂いそうだ! あいつらの目を潰してやりたい! でもそんなことしたら君に嫌われる! でも独占したい! 俺だけを見てほしい! 俺だけに笑いかけてほしい! うおおおおん!」……だそうです! もう限界メーター振り切れてます!』
私は胸が締め付けられた。この人は、強面で無口だけれど、誰よりも繊細で、愛情深い人なのだ。
彼にとって私は宝であり、世界の全てなのだ。それを、私は置き去りにしていた。
「……ごめんなさい、ジークハルト様」
私は彼のそばに行き、座ったままの彼の頭を、胸に抱き寄せた。
彼は一瞬ビクリと体を強張らせたが、すぐに私の腰に腕を回し、すがるように顔を埋めてきた。その力強さに、彼の寂しさが滲んでいる。
「私、調子に乗っていました。みんなに頼られるのが嬉しくて……あなたとの時間を後回しにしてしまって」
彼の髪を優しく撫でる。銀色の髪は、見た目よりもずっと柔らかい。
「私も、あなたと話したかったです。……寂しかったです」
「……本当か」
「はい、本当です」
こもった声で問う彼に、私は何度も頷いた。
しばらくそうしていると、彼の呼吸が落ち着いてくるのがわかった。
部屋の空気も、重苦しいものから、温かく甘いものへと変わっていく。
『ヒュー! 仲直り! ご馳走様です! ……あ、ちなみにご主人様、今「このまま押し倒したい」って思ってるけど、理性が「まだ早い、順序を守れ、彼女は疲れている」って必死に止めてるよ。偉いぞご主人様!』
グラムの余計な一言に、私は顔が熱くなるのを感じた。彼の耳も真っ赤になっているので、あながち間違いではないのだろう。
ジークハルト様が、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、もう濁ってはいない。熱っぽく、潤んでいるだけだ。
「……コーデリア」
「はい」
「……休みを、取れないか」
彼が私の手を握り、真剣な眼差しで告げた。
「仕事はセバスチャンたちに任せて……二人で、出かけたい。……誰にも邪魔されない場所へ」
「……デート、ですか?」
「……ああ。……お忍びデートだ」
彼は少し照れくさそうに、でも力強く言った。
「温泉街の奥に、新しく完成した離れがあるそうだ。……そこなら、二人きりで過ごせる。温泉も……ある」
二人きり。温泉。離れ。その単語の羅列に、私の心臓がトクンと跳ねた。
それはつまり、そういうことなのだろうか。
でも、拒む理由なんてどこにもない。むしろ、私自身もそれを望んでいる。
「……はい。行きましょう、あなた」
私が微笑んで答えると、ジークハルト様は安堵したように、そして世界で一番幸せそうに、口元を緩めた。
こうして、公爵夫妻の「極秘お忍びデート(という名の愛の逃避行)」が決定した。
もちろん、城のみんなには内緒だ。
……まあ、グラムや鏡さんが黙っていてくれればの話だが。
私たちは久しぶりに手を繋ぎ、冷めてしまったスープを温め直すために(ジークハルト様が「君が持ってきたスープなら冷めてても飲む、むしろ冷たい方が味がわかる」と言い張ったが却下した)、厨房へと向かった。
廊下を歩く二人の影が、月明かりに重なって揺れていた。




