第37話 厨房の革命児と、愛妻弁当
元・宮廷料理人のジャンが厨房を任されるようになってから、オルステッド公爵家の食卓には革命が起きていた。
以前の食事は、質実剛健なジークハルト様の好みに合わせ、肉とジャガイモ、そして保存食を中心としたシンプルなものが多かった。もちろん、それも素朴で美味しかったのだが、毎日の食事としては少々彩りに欠けていたのも事実だ。
しかし今は違う。ジャンは「料理は芸術であり、愛の表現だ」と豪語し、毎回の食事に全力を注いでいる。
「本日のメインディッシュは、『北海サーモンのムニエル・香草バターソース』でございます。付け合わせには、領地で採れた旬のアスパラガスのグリルと、雪下人参のグラッセを添えて」
夕食の時間。ジャンが恭しく料理を運んでくる。
大皿に盛られた料理は、見た目も華やかだ。サーモンの鮮やかなピンク色に、焦がしバターの黄金色、そしてハーブの緑と人参のオレンジ色が鮮やかに映えている。決して派手すぎず、素材の色味を最大限に活かした美しい盛り付けだ。
ジークハルト様がナイフを入れると、パリッという小気味良い音がして皮が切れ、中からふっくらとした身が現れた。
一口食べると、サーモンの脂の甘みと、香草の爽やかな香りが口いっぱいに広がる。
「……美味い」
ジークハルト様が、目をつぶって深く味わっている。
彼の背後には、幸せオーラ全開の幻覚(お花畑と天使)が見えるほどだ。いつもは無表情に近い彼が、食事の時だけはわかりやすく表情を緩めるのが、最近の私の密かな楽しみでもある。
『翻訳! 「最高だ。仕事の疲れが吹き飛ぶ。ジャンを雇って本当によかった。今すぐボーナスを弾んでやろう。いや、厨房を拡張してやるべきか? なんなら銅像を建ててやるか?」……だそうです! ご主人様、胃袋を完全に掌握されています!』
厨房の調理器具たちも、彼の活躍を誇らしげに語っていた。
『ジャン君ったら凄いのよ! 昨日の夜なんて、新しいソースの研究で徹夜してたわ!』
『俺(鍋)の焦げ付き加減を完璧にコントロールしてやがる。火加減の魔術師だぜ! 俺の声が聞こえてるわけじゃねーのに、なんでわかるんだ?』
ジャンは、料理への情熱と物への愛で、城中の胃袋と調理器具たちの心を掴んでいた。声は聞こえなくとも、彼には素材や道具の気持ちが痛いほど分かるのだろう。
◇
そんなある日のこと。
ジークハルト様が、珍しく昼食の時間に城へ戻れないほど忙しくなる日があった。
領地の北端にある新しい鉱山候補地へ視察に行くためだ。そこはまだ道が整備されておらず、往復するだけで一日がかりの仕事になる。
「……昼は、適当に済ませる。携帯食でいい」
彼がそう言って出かけようとした時、私はある提案をした。硬い干し肉やパンだけで済ませるのは、あまりに味気ないと思ったからだ。
「待ってください、ジークハルト様。せっかくですから、お弁当を持っていきませんか?」
「弁当?」
「はい。ジャンさんにお願いして、特製のお弁当を作ってもらうんです。外で食べるご飯も、きっと美味しいですよ」
ジークハルト様は少し考え込み、そしてボソリと言った。
「……君も、手伝ってくれるか?」
「えっ、私ですか?」
「……君が詰めた弁当なら、泥でも食べる」
『翻訳! 「愛妻弁当! その響きに憧れていた! コーデリアの手作りなら毒でも完食する自信がある! ぜひお願いします! 一生のお願いだ!」……重いよご主人様! 一生のお願い安売りしすぎ!』
私は苦笑しながら「わかりました」と頷いた。彼がそこまで望むなら、やらないわけにはいかない。
◇
早朝の厨房にて。
私はエプロンをつけ、ジャンの指導のもと、お弁当作りに挑戦していた。
といっても、メインの料理はプロであるジャンが作り、私は最後の仕上げと盛り付けを担当するだけなのだが。
「奥様、そこの卵焼きはもう少し弱火で……ああっ! 焦げます! 手首を返して!」
「きゃっ! ごめんなさい! 難しいです!」
私は料理があまり得意ではない。王都の実家では厨房に入ることすら許されていなかったし、一人暮らしの経験もないからだ。
フライパンが『熱い熱い! 奥様、俺を振って! もっと激しく! リズムに乗って! ダンスのように!』と私にだけ聞こえる声でアドバイスしてくれるのだが、どうもタイミングが合わずに卵がスクランブルエッグになりかけてしまう。
「……ふぅ。難しいですね。これではジークハルト様に申し訳ないです」
「いえいえ! 味は保証しますから! 形なんて愛嬌です! むしろ手作り感があって良いのです! 完璧すぎないのが『奥様の味』なのです!」
ジャンが必死にフォローしてくれる。
なんとか一時間後、特製弁当が完成した。
メニューは、彩り豊かな野菜の煮物、ジークハルト様好みの厚切りステーキ(冷めても柔らかい特別製)、そして私が作った(少し崩れた)ハート型の卵焼きだ。
正直、卵焼きの形はいびつで、ハートというよりは歪んだ三角形に見えなくもない。
「完成です! どうかしら?」
『可愛い! 愛情たっぷりですね! 隙間なく詰まってます!』
『俺(弁当箱)に入れてくれてありがとう! 保温機能、最大にしておくぜ! 食べる瞬間までホカホカだ! 絶対に冷まさない!』
弁当箱も張り切っている。
私はそれを包み、玄関で待つジークハルト様に手渡した。
「いってらっしゃいませ、あなた。お昼を楽しみにしてくださいね。……卵焼きは、あまり期待しないでください」
「……ああ。行ってくる」
彼は弁当箱を受け取ると、まるで壊れやすい宝石か、あるいは国家機密が入ったカバンのように大事そうに抱えた。その表情は、いつものクールな仮面が崩れ落ち、これ以上ないほどデレデレに緩んでいる。背中からは、隠しきれないウキウキとしたオーラが漂っていた。すれ違う使用人たちが驚いて道を空けるほどだ。
◇
その日の夕方。
帰宅したジークハルト様は、綺麗に空っぽになった弁当箱を私に返してくれた。米粒一つ残っていない。
「……美味かった」
「本当ですか? 卵焼き、形が悪かったでしょう?」
「いや。……世界一、美味かった」
彼の言葉に嘘はないようだった。その瞳は満足感に満ちている。
ただ、後でこっそりグラムに聞いたところによると――。
『ご主人様、昼休みに鉱山の休憩所で弁当広げてさ、周りの試掘作業員たちに見せびらかしまくってたぜ? 「見ろ、妻が作った卵だ。ハート型だ。芸術的だろう。食べるのが惜しい」って。最後の一口を食べるのに三十分もかけて、作業員たちが「早よ食えよ……」「のろけかよ……」「仕事にならねぇよ」って呆れてたよ。おまけに、空になった弁当箱を「洗わずに保存したい」とか言い出してたんだからな!』
……恥ずかしい。
でも、そこまで喜んでくれるなら、また作ってあげたいなと思う。
ジャンのおかげで、オルステッド家の食卓は、ただの栄養補給の場ではなく、笑顔と愛を育む大切な場所になったのだった。
そして、私の料理スキルも少しずつ(調理器具たちの熱血指導により)向上していく……予定である。いつか、彼を唸らせるような料理を自分の手で作れるようになるまで、私の修行は続く。




