第31話 温泉街の掟と、マナー違反
宿屋での騒動を解決した後、私とジークハルト様は視察を兼ねて、完成したばかりの「温泉街」を歩いていた。
かつては岩肌が剥き出しだった山の麓は、今や見違えるような一大リゾート地へと変貌を遂げていた。
通りの両側には、木造の風情ある建物が並び、軒先には「ゆ」と書かれた暖簾が風に揺れている。
あちこちから立ち上る白い湯気が、街全体を幻想的な霧で包み込み、硫黄の香りと共に、美味しそうな食べ物の匂いも漂ってくる。
「いらっしゃい! 蒸したての温泉まんじゅうだよ!」
「こっちは温泉卵! とろとろで美味いぞー!」
活気ある呼び込みの声。
浴衣姿の観光客たちが、下駄をカランコロンと鳴らしながら楽しそうに行き交っている。その中には、以前は仕事がなく塞ぎ込んでいた領民たちの、生き生きとした笑顔もあった。
「……平和だな」
ジークハルト様が、珍しく肩の力を抜いて歩いている。
彼もまた、この領地の発展を誰よりも喜んでいるのだ。
不器用で言葉足らずな彼だが、領民を思う気持ちは人一倍強い。自分の領地で、人々がこんなに笑っている光景を見るのは、彼にとっても感慨深いはずだ。
『ご主人様、内心デレデレだぜ。「コーデリアと浴衣デートしたい。でも人前でうなじを見せるのは俺の独占欲が許さない。いっそ城の裏に二人専用の貸切風呂を作るべきか? それとも街ごと買い占めて貸切にするか?」って、また極端な脳内会議中!』
腰のグラムが、ここぞとばかりに暴露してくる。
私が「ふふ」と笑いかけ、彼の腕にそっと手を添えると、ジークハルト様はビクリとして、咳払いをしながら視線を逸らした。その耳は、湯気にあたったわけでもないのに赤く染まっている。
その時だ。
またしても、どこからか抗議の声が聞こえてきた。
今度は、もっと切羽詰まった、怒りと痛みの声だ。
『やめろー! 削るなー!』
『俺は土産物じゃないぞ! ただの岩だ! 魔鉱石じゃない!』
『熱っ! ゴミ捨てるな! 源泉が汚れるだろ! 詰まったらどうすんだ!』
声の主は、温泉街の中心にある「大露天風呂」の岩と源泉たちだ。
あそこは、ポチとガーゴイルたちが最初に掘り当てた、私たちにとっても思い出深い場所。今は誰でも自由に入れる公衆浴場として開放されている。
「……また、マナー違反ですね」
「……行くか」
私たちは甘い空気を切り替え、顔を見合わせて頷くと、大露天風呂へと急行した。
◇
露天風呂の入り口付近、源泉が湧き出る岩場には、数人の若者たちがたむろしていた。
王都から来た冒険者崩れだろうか、粗野な格好をした彼らは、立ち入り禁止の柵を乗り越え、源泉の吹き出し口によじ登っていた。
「おい見ろよ! この光る石、持って帰れば金になるんじゃね?」
「記念に名前彫ろうぜ! ナイフ貸して!」
「うひょー、飲み終わったエールの瓶、この穴に投げ込んでみようぜ! どこまで落ちるかな!」
彼らは、あろうことか岩肌をナイフでガリガリと削り、飲み干した空き瓶を源泉の穴に投げ込もうとしていた。
『痛い痛い! ガリガリすんな! 皮(表面)が剥ける!』
『瓶なんか投げ込まれたら喉(配管)に詰まっちゃうよ! 爆発しちゃうよ!』
『誰か止めてくれぇぇ! 俺たちを壊す気かぁぁ!』
岩と源泉が悲鳴を上げている。
私は許せなかった。
この温泉は、ただの観光資源ではない。ポチが一生懸命掘り、ガーゴイルたちが石を運び、そして大地が恵みとして与えてくれた、大切な「命」のような場所なのだ。それを、こんな軽率な遊び半分で傷つけるなんて。
「そこまでよ!」
私が声を張り上げると、若者たちは「あ?」と面倒くさそうに振り返った。
「なんだよ姉ちゃん。説教か? 俺たちは客だぞ」
「領主の知り合いか何か知らねーけど、堅いこと言うなよ。減るもんじゃなし」
彼らはヘラヘラと笑い、ナイフをチラつかせながら威嚇してきた。
その瞬間。
――ジャリッ。
彼らの足元の岩が、意思を持って鋭く隆起した。
「うわっ!?」
バランスを崩した彼らの目の前に、巨大な黒い影が落ちる。
見上げれば、逆光の中に立つジークハルト様が、魔剣の柄に手をかけて見下ろしていた。
その背後には、まるで怒り狂う龍のように、温泉の湯気が渦を巻いて立ち昇っている(ように見える)。
「……この地の恵みを、愚弄するか」
低い、地を這うような声。
それは、ただの注意ではない。捕食者が獲物に向ける、絶対的な「警告」だった。
『翻訳不要! ご主人様、ガチギレです! 「俺たちの思い出の温泉を汚す奴は、このまま釜茹でにして出汁をとってやる。いや、出汁にすらならんな、不味そうだ」モードです!』
若者たちは、あまりの迫力に腰を抜かした。
ナイフを取り落とし、ガタガタと震え上がる。
「ひぃっ! こ、公爵様!?」
「ご、ごめんなさい! 出来心で! 悪気はなかったんです!」
彼らが泣き言を並べて逃げ出そうとした時、源泉が『逃がすかボケェ! 散々痛い思いさせやがって!』とブチ切れ、怒りの水鉄砲を発射した。
バシュッ! バシュッ!
地底からの圧力で加速された熱々のお湯が、正確無比に彼らのお尻を直撃する。
「熱っ!? 熱ゥゥゥ!」
「お尻が! お尻が焼けるぅぅ!」
彼らはお尻を押さえてモンキーダンスを踊りながら、悲鳴を上げて転げ回った。
さらに、足元の岩が『足元がお留守だぞ!』と意地悪く隆起し、彼らを滑らせて転ばせる。
「ひぃぃぃ! 呪いだ! 温泉の祟りだぁぁ!」
彼らは這々の体で柵を乗り越え、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
二度とこの地には戻ってこないだろう。
『ざまぁみろ! 二度と来るな!』
『ふぅ……スッキリした。ありがとな、旦那様、奥様。あんたたちが来てくれなかったら、俺、爆発して自爆するとこだったぜ』
源泉がボコボコと泡を立てて礼を言う。
私は岩肌に近づき、削られた跡を優しく撫でた。魔力を流し込むと、傷跡がみるみる修復されていく。
「痛かったですね。もう大丈夫ですよ」
『あぁ〜、染みるぅ……。奥様の手、最高……』
岩がうっとりとした声を上げる。
ジークハルト様は、剣から手を離し、小さく息を吐いた。
「……守るべきものが増えると、忙しいな」
「ええ。でも、退屈はしませんね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
観光地として発展することは嬉しいけれど、こうして大切な場所を守るためには、時には厳しさも必要なのだ。
「……それにしても」
ジークハルト様が、逃げ去った若者たちの方角を睨みながら呟いた。
「……あいつら、君に変な視線を向けていた。……やはり、目玉をくり抜いておくべきだったか」
『ストップ! ご主人様、猟奇的すぎ! 嫉妬深いのもほどほどにしないと、奥様引いちゃうよ!?』
グラムのツッコミに、私は「もう」と彼の腕を引いた。
私たちは、少しだけ平和になった温泉街を、再びゆっくりと歩き出した。
今度こそ、誰にも邪魔されず、美味しい温泉まんじゅうを食べられますように。




