第5話 約束の譜面
スタジオの扉を開けると、湿った空気が押し寄せた。
日曜の午後、翔は一番乗りで到着していた。
ベースアンプの上には、美鈴のカメラ。レンズが彼をじっと見つめている。
「また撮ってるの?」
翔が笑うと、美鈴は肩をすくめた。
「記録だよ。再結成の軌跡ってやつ」
「撮られると緊張するんだけどな」
「いいじゃん。十年後にまた見返したら、たぶん泣くよ」
カメラの赤いランプが光る。
それだけで、この時間が「確かにここにある」と思えた。
やがて海斗が入ってきて、ギターを肩にかけた。
「悪い、授業長引いて。今日も合わせでいい?」
「うん。前回よりリズム取りやすくなってるはず」
翔が言う。
「それ、録ってたんだ?」
海斗がカメラを見て眉を上げた。
「記録用。誰にも見せないよ」
その瞬間、スタジオのドアがノックされた。
開けると、スーツ姿の男が立っていた。
「おっ、やっぱり君らか。美鈴ちゃんいる?」
「あれ……オーナーさん?」
美鈴が驚いたように声を上げた。
彼は十年前、彼らが初めてライブをしたハウスのオーナーだった。
「SNSで見たよ。リハの映像、ちょっとバズってたぞ。コメントもついててな」
「えっ、アップしてたの?」
翔が驚くと、美鈴が頬を掻いた。
「記録用のつもりだったけど……、ちょっとだけ公開した」
「ちょっとだけで数万再生ってどういうことだよ」
海斗が呆れたように言う。
オーナーはにやりと笑った。
「それでさ。来月のイベント、“Back to Youth”ってのがあるんだ。昔のバンドが集まって再演するやつ。どうだ、出てみないか?」
その言葉に、翔の心臓が跳ねた。
“ライブ”。
十年前に置き去りにしたもの。
夢の続きを、もう一度——。
「やります」
即答した翔の声に、海斗が反射的に顔をしかめた。
「ちょっと待て。準備も曲もまだ未完成だろ」
「だからこそだよ。ステージって、俺たちの原点じゃん」
「勢いだけで決めるなって」
美鈴がオーナーに視線を向ける。
「締め切りは?」
「二週間後。三十分枠。無理なら別のバンド回すけど」
「二週間……」
海斗が眉間を押さえる。
翔は、それでも言った。
「出よう。今度こそ、ラストスプリングを完成させよう」
空気が張り詰める。
海斗はギターを置いて、短く言った。
「……勝手にしろ」
そしてスタジオを出て行った。
扉が閉まる音が、静かに響く。
***
その夜。
翔は帰宅しても、ずっと天井を見つめていた。
“勢いだけで決めるな”。
海斗の言葉が頭から離れない。
けれど、胸の奥では確信があった。
悠真が生きていたら、絶対に同じことを言った。
——やろうぜ、翔。完成させよう。
その声を思い出した瞬間、スマホを握る手が動いていた。
「……行こう」
***
翌日。
翔は電車を乗り継いで郊外の住宅街へ向かった。
目的は一つ。悠真の家。
ピンポンを押すと、柔らかい女性の声がした。
「はい?」
「……翔です。Re:windの」
玄関が開き、年配の女性が顔を出す。
悠真の母親だった。
「まぁ……翔くん。大きくなったわねぇ」
「十年ぶりです。突然すみません」
「いいの。あの子の話をしてくれるの、嬉しいから」
居間には、古いドラムスティックと写真立てが飾られていた。
笑顔のままスティックを構える悠真。
その隣には、当時のバンドの集合写真。
翔は深く頭を下げた。
「……今、またバンドを再開してるんです。あいつの曲を、完成させたくて」
悠真の母親は静かに頷いた。
「知ってるわ。美鈴ちゃんから連絡があったの」
「え?」
「あなたたちが、また集まってるって」
彼女は引き出しから、ひとつのUSBを取り出した。
「これ、あの子のパソコンに残ってたの。最後に書いていたドラムの譜面。あなたたちの曲の途中みたいでね」
翔の手が震えた。
「……いいんですか?」
「ええ。悠真もきっと渡してほしかったと思うの」
小さなデータ。けれど、その中には十年分の想いが詰まっていた。
***
夜。
自宅のデスク。
翔はUSBを挿して、フォルダを開いた。
ファイル名は《LastSpring_drum_yu.ma》。
中には、未完成のリズムパターンと、短いメモ。
「ブリッジ前、テンポ上げる。翔の声が一番映える場所」
その文字を見た瞬間、視界が滲んだ。
“翔の声が一番映える場所”。
十年前、あいつはそんなことを思いながら叩いていたのか。
拳を握り、マイクに手を伸ばした。
「……やるよ、悠真」
パソコンのDAWを開く。
新しいトラックを作成し、ドラムの打ち込みを始めた。
音が響くたびに、悠真のスティックの音が脳裏に蘇る。
“トン、タッ、トン——”
“ラストスプリング”の新しい鼓動が、今、ここで息を吹き返した。
***
翌日。
翔はスタジオに早く入り、ノートパソコンをセッティングした。
ドアが開き、海斗と美鈴が入ってくる。
「昨日は悪かった」
翔が頭を下げる。
「こっちこそ、言いすぎた」
海斗も視線を落とした。
翔はUSBを取り出した。
「悠真のお母さんに会ってきた。これ、あいつのドラムの譜面だ」
再生ボタンを押す。
スピーカーから、リズムが流れた。
少し粗いが、確かに“悠真の音”が生きていた。
海斗は黙って聞いていた。
やがて、ギターを手に取る。
「……このブリッジ、いいな。テンポ、上げよう」
「だろ?」
翔が微笑む。
「じゃあ、やろっか」
美鈴が弦を弾いた。
音が重なる。
ギター、ベース、そして録音されたドラム。
悠真がいないはずの空間に、四人の音が確かに存在していた。
翔がマイクに向かって歌い出す。
“春の残響 まだ消えない 君のリズム 胸で鳴る——”
曲が終わった瞬間、三人は無言で顔を見合わせた。
そして、美鈴がゆっくり言った。
「……ライブ、やろう」
翔は頷いた。
「うん。あいつの分まで」
スタジオの窓の外で、春の光が差し込んでいた。
十年前の“未完の春”が、ようやく色づき始めていた。




