第4話 未完の曲
アンプの電源を切ると、スタジオの中に静寂が落ちた。
翔は息を吐きながら、マイクスタンドにもたれかかる。
「……ふぅ。やっぱ、すぐには戻らないな」
海斗が苦笑してギターを置く。
「十年ぶりにしては、上出来だと思うけどな」
「そう?」
美鈴がペットボトルの水を飲みながら首をかしげた。
「私は、ベースの音、まだ走ってる気がする」
「走ってるどころか、翔がテンポ置いてかれてたじゃん」
「おい、それは言うな」
三人の笑い声が、小さな部屋に弾けた。
笑いながらも、翔は心の奥であの空白の重さを感じていた。
***
その夜、居酒屋のテーブル。
スタジオ帰りの三人は、久しぶりに肩を並べて座っていた。
串焼きの煙が立ちのぼり、店内には週末のざわめきが満ちている。
「で、次の練習はいつにする?」
翔が手帳を開くと、海斗は少し難しい顔をした。
「授業の準備があるから、夜なら……」
「私は撮影現場のシフトがまだ決まってなくて。週末はたぶん無理かも」
現実の壁が、早くも顔を出す。
十年前は、時間があり余っていた。
今は、仕事、責任、生活。
それぞれの“今”が、かつての“夢”とぶつかり合っていた。
「……なぁ、これさ」
翔が小さく呟いた。
「悠真がいたら、何て言ってたかな」
その名前が出た瞬間、三人の間に一瞬の沈黙が落ちた。
海斗がビールの泡を見つめたまま言う。
「きっと笑うよ。“お前ら、まだやってんのかよ”って」
「うん。でも、絶対嬉しそうに叩くよ」
美鈴が静かに笑った。
翔は、グラスを手に取って言った。
「未完のまま、終わらせたくない。あの曲も、俺たち自身も」
「“ラストスプリング”ね」
海斗がつぶやく。
「あれ、あいつがリズム組んでたから成立してたんだぜ?」
「だからこそ、完成させたいんだ」
翔は言葉を強めた。
「悠真の音を、俺たちで繋ぐんだ」
熱を帯びた声に、美鈴が一瞬目を伏せた。
翔の“真っ直ぐさ”は昔から変わっていない。
でも、その真っ直ぐさが、今の彼らには少しだけ重く感じられる。
***
翌週の夜。
スタジオで二回目の練習。
翔は早めに到着し、譜面を並べていた。
海斗が遅れて入り、ギターを構える。
「悪い、授業押してて」
「いいよ。美鈴、まだ?」
「現場の撮影が押してるって。あと十五分くらい」
翔は腕時計を見て、息をついた。
リーダーの性分なのか、こういうとき落ち着かなくなる。
十五分後、扉が開いた。
「遅れてごめん!」
美鈴は髪を束ねたままベースを抱えて入ってきた。
手にはカメラバッグ。どうやら現場から直行してきたらしい。
「大丈夫?」
翔が声をかけると、彼女は軽く笑って答えた。
「問題ない。疲れてるけど、ちゃんと弾ける」
セッティングを終えると、海斗がコードを鳴らした。
いつもの“あの曲”のイントロ。
だが、その瞬間、翔の声が止まった。
歌い出すタイミングを見失ったのだ。
テンポが早い。海斗のギターが焦っている。
「ちょっと待って!」
翔が手を上げる。
「テンポが……走ってない?」
「走ってるのはそっちだろ」
海斗が笑わずに言った。
その空気の変化に、美鈴がベースを止める。
翔が口を開く。
「いや、俺はクリック通りに歌ってた」
「俺だってメトロノーム聞いてる。ズレてんのは——」
「もう一回やろ」
美鈴が割って入った。
「細かいことは後で。今は合わせるのが先でしょ」
その一言で、二人は口を閉じた。
音が再び鳴る。
けれど、どこかぎこちない。
——それでも、進むしかない。
練習後、帰り支度をしていると、海斗が小さく呟いた。
「翔ってさ、昔から“理想”が先に立つよな」
「……どういう意味だよ」
「現実を見てねぇってこと」
「お前、何が言いたいんだよ」
言葉の空気が一気に冷えた。
美鈴が二人の間に入る。
「やめて。今はそういう話をする時じゃないでしょ」
翔は唇を噛んだ。
わかっている。
でも、自分の中で何かが引っかかっていた。
理想じゃない。
“約束”なんだ。
——悠真と交わした、あの春の。
スタジオを出ると、夜風が冷たかった。
ビルのガラスに街灯が反射し、遠くの信号が点滅している。
「……帰るか」
海斗がぼそりと言う。
「うん」
美鈴が頷き、少し遅れて翔も歩き出した。
三人の足音がアスファルトを打つ。
十年前は、何もかもが“楽しいだけ”だった。
けれど今は違う。
守るべきものがあり、過去と向き合う重さもある。
それでも——。
信号が青に変わる瞬間、翔は小さく呟いた。
「……絶対、完成させる」
その声に、美鈴は振り返らずに答えた。
「だったら、焦らないことね」
***
帰宅後。
翔は机に向かい、ノートパソコンで作業を始めた。
“ラストスプリング”の新しい構成案。
ドラムパートには、悠真の過去音源をそのまま組み込んである。
ヘッドフォン越しに聞こえるあのビート。
懐かしくて、切なくて、心臓が少しだけ痛む。
十年前、悠真が録音した最後のセッション。
何度も何度も繰り返し聞いた。
完璧ではない。むしろ粗が多い。
でも、そこにしか“本当のRe:wind”はなかった。
翔は目を閉じ、ゆっくり息を吸った。
「……あの時の続きを、今度こそ」
指先がキーボードの上を滑る。
“ラストスプリング - Re:Arrange ver.”
——画面に、新しいトラックが追加された。
***
日曜の昼。
美鈴からメッセージが届いた。
『今度の練習、ドキュメントで撮るね。 みんなの“今”をちゃんと残したい』
翔は短く返信した。
『頼む。俺たちの“最後の春”を、ちゃんと映してくれ』
そして、ノートPCの再生ボタンを押した。
未完の旋律が、部屋の空気を震わせる。
音がまだ拙くてもいい。
痛くても、もがいても。
あの日の続きを、彼らは今、歩き出していた。




