第3話 それぞれの十年
冷たい風が頬を撫でた。
駅前のロータリーでタクシーを見送りながら、翔は小さく息をついた。
十年ぶりに、バンドをもう一度やる。
口に出した瞬間は勢いだった。けれど、心のどこかで確かに“あの頃の自分”が動き出していた。
「さて……本気で、やるんだな」
独り言が、夜の空気に溶けた。
***
翌週。
仕事帰りのオフィス。
翔は会社の隅にある会議室で、PCに向かって打ち合わせ資料を作っていた。
広告代理店という職業柄、夜遅くまで残るのは珍しくない。
ただ、この日は妙に胸が落ち着かなかった。
手元には、小さなメモ帳。
そこには手書きで「スタジオ予約」「機材レンタル」「スケジュール調整」といった文字が並んでいる。
十年前なら、すべてが当たり前だった。
練習日を決めて、学校帰りにスタジオへ行く。
誰かが遅れたら軽口を叩いて笑い合う。
だが今は、仕事の合間に時間を“削り出す”ような感覚だった。
ふと、モニターの光が目にしみる。
デスクの引き出しにしまってあったイヤホンを取り出し、デモ音源を再生した。
ノイズ混じりのイントロ。
あの未完成の曲——“ラストスプリング”。
悠真のドラムが走り、海斗のギターが寄り添い、美鈴の低音がそれを支える。
そして自分の声が、その上に乗る。
十年の間に鈍ってしまったはずの感覚が、わずかに震えた。
「……まだ、いける」
翔はそう呟いて、メモ帳を閉じた。
***
放課後の音楽室。
海斗は、誰もいなくなった部屋でギターを弾いていた。
机の上には、譜面とコード進行のメモ。
“Re:wind 再始動曲構成案”と書かれている。
左手の指先が痛い。
硬くなった弦に皮膚が負け、薄く切れた。
十年というブランクが、こんなにも重くのしかかるとは思わなかった。
「おいおい、情けねぇな……」
苦笑しながら、もう一度指を押さえる。
音が鳴る。
ぎこちないけれど、確かに“自分の音”だ。
机の上には、翔から届いたメッセージが点灯していた。
『スタジオ予約した。土曜の午後、14時。久々に合わせよう』
返信を打とうとして、少し迷う。
言いたいことは山ほどある。
けれど、結局短く送信した。
『了解。弦、張り替えておく』
画面を閉じると、窓の外には夕陽が沈んでいた。
この十年、自分は“音を教える人間”になった。
でも、今度は——もう一度、自分の音で語る番だ。
***
その頃、美鈴はカメラのファインダーを覗いていた。
古いライブハウスの照明が、オレンジ色に滲む。
ステージの中央に置かれたマイクスタンドが、ぽつんと寂しく立っている。
「——ここ、やっぱりいいな」
シャッターを切る。
カシャ。
その音が鳴るたび、心の奥が静かに熱を帯びた。
あの日、彼らが初めてステージに立った場所。
今では少し壁の色がくすんで、機材も古びている。
でも、空気の匂いは当時と変わらなかった。
「美鈴ちゃん、また撮るの?」
ライブハウスのオーナーが顔を出す。
「うん。今度、再結成するの。翔と海斗と——悠真の代わりに、私がベースも」
「へぇ、あのRe:windが? そりゃすげぇな」
オーナーの笑顔に、美鈴も少しだけ笑った。
「私たち、あの春をちゃんと終わらせたいの」
言葉にしてみて、初めて気づく。
この十年、彼女は“終われなかった過去”を撮り続けていた。
でも、これからは“今を残す”ためにシャッターを切る。
***
そして土曜日。
市内の小さなスタジオ。
十年ぶりの“音合わせ”が始まろうとしていた。
翔がマイクを調整し、海斗がアンプを覗き込み、美鈴はベースの弦を張り替える。
狭い部屋に漂う懐かしい機材の匂い。
チューニングの音が、少しずつ混ざり合っていく。
「……緊張してる?」
翔が笑う。
「そりゃそうだろ。十年ぶりだぞ」
海斗が肩をすくめる。
「私は平気。……指、もう痛いけど」
美鈴が笑って答えた。
軽く合わせよう。
そう言って始まった音は、最初こそバラバラだった。
テンポも合わず、リズムも乱れた。
だが、二分ほど経ったとき——。
ドラムの音がないはずなのに、不思議と“悠真のリズム”が聞こえた。
翔が、ふっと息を吸う。
声を出した瞬間、十年前の空気が甦る。
海斗のギターが絡み、美鈴のベースが響く。
それは、まだ拙いけれど確かに“Re:wind”の音だった。
曲が終わると、スタジオの中に静寂が落ちた。
誰も何も言わない。
けれど、三人とも同じ顔をしていた。
少し恥ずかしそうで、それでもどこか誇らしげな笑顔。
翔がぽつりと呟く。
「……やっぱり、まだ終わってなかったな」
美鈴がシャッターを切る。
カシャ。
その瞬間、十年前に止まっていた時計がようやく動き出した気がした。




