第1話 再会の夜
朝から取引先との打ち合わせが三本、資料作りが二本。
日向翔の一日は、いつも同じように慌ただしく始まり、同じように終わる。
新宿駅前のネオンが雨ににじんでいた。
時計を見ると、もう夜の八時を過ぎている。
「今日も一日、よくやったな」と、誰に言うでもなく呟いて、翔はコンビニの袋をぶら下げたままマンションへ向かった。
夕飯はいつも通り、カップラーメンと缶ビール。それで十分だった。
玄関を開けて靴を脱いだ瞬間、スマホが震えた。
仕事関係の通知かと思って画面をのぞき込んだ瞬間、翔の手が止まる。
『天野悠真が亡くなった』
ただ、それだけの短いメッセージ。
送信者は昔のバンド仲間の結城海斗だった。
頭の中で、しばらく文字の意味が理解できなかった。
悠真――ドラム担当。いつも笑っていて、どんな時も空気を和ませてくれる男。
彼が、死んだ?
翔はソファに崩れ落ちた。
缶ビールが床に転がり、開けることもなくぬるくなっていく。
通知の詳細には、「葬儀は明後日、地元の教会で」とだけ書かれていた。
あれから十年。
高校を卒業して、東京に出て、バンドを解散してから一度も帰っていなかった。
それなのに、悠真の死で初めて帰ることになるなんて——。
その夜、翔はまともに眠れなかった。
***
翌朝の新幹線。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、翔はイヤホンを耳に差し込んだ。
スマホのプレイリストには、学生時代に録音した曲がいくつか残っている。
もう何年も再生していなかった音。
ためらいながらも、再生ボタンを押す。
拙いギター。走りすぎたドラム。少し音を外した自分の声。
それでも、どこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
『俺たちの音、悪くないだろ?』
当時の悠真の声が、頭の中で蘇る。
あの春の日、文化祭のステージで笑っていた顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
新幹線が地元の駅に着くと、空は鉛色に曇っていた。
11月の冷たい風が、頬を刺す。
改札を抜け、古びた商店街を歩く。
かつてメンバーでよく集まった喫茶店の看板はなくなり、代わりにチェーンのカフェができていた。
時間は、確実に進んでいた。
***
教会の前には、数台の車と数人の参列者が並んでいた。
木造の扉を押し開けると、柔らかなオルガンの音が響いていた。
前方の遺影には、変わらぬ笑顔の悠真がいた。
白い花々に囲まれて、まるで今にも冗談を言い出しそうだった。
受付を終えると、翔は思わず足を止めた。
そこに立っていたのは——。
「……翔」
振り向いた先にいたのは、結城海斗だった。
黒いスーツ姿。昔よりずっと落ち着いた印象。
高校のときは尖っていて、何かとぶつかってばかりだった男が、今は穏やかな目をしていた。
「来てくれたんだな」
「ああ……連絡ありがとう。……本当、信じられないよ」
言葉が途切れる。
海斗もただ小さくうなずくだけだった。
その隣には、もう一人。
ふと視線を向けると、彼女は少しだけ微笑んだ。
「久しぶり、翔」
「……美鈴」
佐伯美鈴。
昔のバンドでベースを担当していた。
黒い服の下から覗く手首には、カメラのストラップ。
あの頃と変わらず、彼女は“何かを見つめる目”をしていた。
「東京にいるって聞いてたけど、元気そうでよかった」
「まあ、なんとか。美鈴こそ、カメラマン続けてるんだって?」
「うん。相変わらず食べていけるほどじゃないけどね」
ふっと笑い合う。けれど、次の瞬間、また沈黙が落ちた。
どうしても、その空間にはひとり足りない感覚がつきまとう。
葬儀が始まり、牧師の祈りが静かに流れる。
翔は目を閉じた。
言葉の一つ一つが遠くに聞こえていく。
思い出すのは、十年前の夏。
汗だくで練習した放課後。
初めて作ったオリジナル曲を悠真が叩いた瞬間の高揚感。
——あれが、たしかに自分たちの青春だった。
気づけば、頬を伝うものがあった。
翔は慌てて手の甲で拭う。
誰にも見られたくなかった。
***
葬儀が終わったあと、悠真の母親が控室で彼らに声をかけてきた。
小柄で優しい笑顔のまま、どこか力の抜けたような表情をしている。
「翔くん、来てくれてありがとう。……あの子、あなたたちの話ばかりしてたのよ」
「そうですか……」
「亡くなる少し前まで、昔の録音を聴いてたみたい。ほら、これ」
差し出されたのは、一枚のCD-Rだった。
透明のケースに、マジックで書かれた文字がある。
“Re:wind/未完デモ”。
翔は思わずそれを手に取った。
指先が震える。
「これ、悠真が……?」
「ええ。最後まで手放さなかったわ。翔くんたちに渡してほしいって」
言葉を失った。
十年ぶりの再会。十年ぶりの名前。十年ぶりの音。
翔は深く頭を下げ、CDを胸に抱いた。
その重みが、妙に現実味を帯びて感じられた。
***
その日の夜、三人は久々に地元の居酒屋に入った。
店の壁には見慣れた風景写真。地元の山並みが映っている。
それが逆に、時間の流れを感じさせた。
「まさか、こんな形で集まるとはな……」
海斗がジョッキを傾けながら言う。
翔はうなずき、泡の消えたビールを見つめた。
「なあ、悠真……なんでだろうな。急すぎるよ」
「事故らしい。夜道で車に……。仕事帰りだったって」
「そうか……」
美鈴は黙ってグラスを指でなぞっていた。
彼女のカメラバッグが椅子の横に置かれている。
撮るつもりはなかったのだろうが、その存在だけが今も続く彼女の生き方を語っていた。
「——ねえ」
静かな声で、美鈴が口を開いた。
「悠真くんが残したCD、聴いてみない?」
翔はポケットから取り出したCDを見つめる。
白いレーベルに手書きの文字。
それだけで、胸が締めつけられるようだった。
「……ホテル戻ったら、聴いてみるよ」
「みんなで聴こう。あいつの“最後の音”だ」
海斗の言葉に、翔は小さくうなずいた。
***
夜遅く、ビジネスホテルの一室。
テーブルの上にノートパソコンを置き、CDを入れる。
機械音のあと、スピーカーからかすかなノイズが流れた。
そして——ドラムのカウント。
続いてギター、美鈴のベース、翔の声。
懐かしい曲だ。だが、途中で途切れている。
その直後、マイクの前で悠真の声が響いた。
「——この曲、やっぱ完成させたいな。みんなで、もう一回やろうよ」
「次集まれるの、いつだろうな」
「さあ。でもさ、またあの音出せたら、それでいいじゃん」
録音はそこで終わっていた。
翔はパソコンの前でしばらく動けなかった。
胸の奥に、何かがこみ上げる。
後悔、懐かしさ、そして……微かな温かさ。
窓の外では、地元の街灯がぼんやりと光っている。
十年前と同じ夜風の匂いがした。
彼はゆっくりと息を吸い込み、呟いた。
「——もう一度、聴きたかったな。お前のドラム」
その言葉は、静かな夜の中に溶けていった。
けれど、心の奥では確かに響き続けていた。
止まっていた音が、ほんの少しだけ、再び鳴り始めた気がした。




