決行の夜
夜の帳が降りた頃、街の明かりがまるで別の世界への境界線のように滲んでいた。
作戦決行の時。
真央から最後の指示が届いたのは一時間前だ。炎刃組は水面下で動き始め、伊川も予定通り越後を足止めしてくれている。会議室で取引先を巻き込んだ大騒ぎを演出し、越後は社に缶詰状態だという。
「……本当に行くぞ」
亮の声に、俺は小さく頷いた。
心臓が鼓動を早めているのがわかる。だが、不思議と恐怖はなかった。ここまで来たら、ただ進むだけだ。
二人で路地を抜け、例の喫茶店の裏口へと向かう。昼間とは違い、人気はほとんどない。防犯カメラの死角を縫って、真央から聞いた合鍵で裏口のロックを外した。
「……よし、入るぞ」
静かに扉を開くと、薄暗い廊下が奥へと伸びている。足音を殺し、ゆっくりと進む。
喫茶店の奥…そこはまるで別の場所だった。洒落た内装は影もなく、古びた金属棚と機密書類らしきファイルがずらりと並んでいる。
「……ここか、情報室」
亮が低く呟く。机の上には複数の契約書、入出金データ、取引先のリスト。どれも裏と繋がっている証拠になり得るものばかりだ。
「このフォルダ、完全に黒だな……越後のサイン入りだ」
「よし、全部撮れ。持ち出す時間はない」
スマホで次々と写真を撮り、USBメモリにもコピーする。真央の読み通り、内部からでなければ手に入らない証拠が山ほどあった。
作業は思いのほか順調に進んだ。異常もなく、警備の姿も見えない。
だが、そんな「順調」こそが最も危険な兆候だった。
資料を詰め込み、出口へ向かおうとしたその瞬間だった。
「……やっぱり来やがったか」
背筋を氷の刃がなぞったような感覚。出口の前に、二つの影が立ちはだかっていた。
一人は金髪にピアス、鋭い眼光のチンピラ、三國公徳。もう一人は、あの尾行の夜、俺の背後に立っていた黒いコートの男。
「コソコソ盗みとは、ずいぶん安い真似するじゃねぇか。……ガキども」
三國が口の端を吊り上げ、金属バットを肩に乗せた。黒コートは何も言わず、ただ獲物を見定める獣のような眼でこちらを見ている。
「亮さん……!」
「行け、快晴!」
亮が一歩前に出て、俺の前に立ちはだかる。
「ここは任せろ。お前が持ち出さなきゃ、全部が水の泡だ!」
言葉より先に、身体が動いた。
俺は資料を抱えて走り出す。背後で、三國の怒号と金属のぶつかる音が響いた。
「逃がすと思ってんのかよ!」
黒コートの男が滑るように追いすがる。廊下の先へと続く足音が、背後でどんどん近づいてくる!
その一方で、暗い室内では二人の男が睨み合っていた。
「面白ぇ……なかなかいい目してやがる」
「うるせぇな。喧嘩で勝てるなんて思ってねぇ。ここでお前を止める!」
亮は構えを取った。拳は自然とガードに上がり、足の重心は低く沈む。
学生時代から続けてきたボクシング…それだけが、今の彼に残された唯一の武器だった。
「来いよ、小僧。地獄ってやつを教えてやる」
金属バットを振り上げる三國。その殺気を正面から受け止め、亮は一歩踏み出した。
同じ頃、ドリームフューチャーの会議室。
深夜に差し掛かろうというのに、社内にはピリついた空気が満ちていた。
「…ふざけるな!!こんな初歩的なミス、ありえんだろう!」
重低音の怒声が会議室を震わせる。越後の怒りは、今夜に限って尋常ではなかった。
原因は、伊川だ。普段は完璧な仕事をこなす彼女が、今夜ばかりは信じられないようなミスを連発していた。
「送信先を間違えただと? よりにもよって、取引先の前で競合の内部資料を映し出すとはどういう了見だ!」
「す、すみません……! 確認を怠ってしまって……!」
顔を青ざめさせて謝罪する伊川。だが、その目の奥は、ほんの一瞬だけ鋭く光った。…わざとだ。
この混乱こそが、快晴たちのための時間になる。そうわかっているからこそ、彼女は自分のキャリアを賭けてでも芝居を打っていた。
「……この場は私が責任を持って収めます。先方には私から直接――」
と、言いかけたところで、越後のスマホが震えた。画面には「非通知」の文字。眉間に皺を寄せ、越後は短く応答する。
「……ああ。――なに? データを盗まれただと?」
無言の報告を聞き終えた瞬間、越後の表情が一変した。冷たい光を宿したその目が、まっすぐ伊川を射抜く。
「……なるほどな。茶番はここまでか」
「えっ――」
ドゴッ!
乾いた音とともに、越後の拳が伊川の頬を打ち抜いた。華奢な身体が椅子ごと床に倒れ込み、会議室が凍りつく。
「このタイミングで偶然こんな失態をやらかすかよ。……なめてんじゃねぇぞ」
唇から血をにじませながら、伊川はそれでも越後を睨み返す。
「……森峰くんを、止められると思うな……」
「言ってろ。お前はもう終わりだ」
越後は鼻で笑い、部屋の隅で控えていた事務課の山瀬を呼んだ。
「山瀬、あとはお前に任せる。この女の処分も含めて全部だ」
「承知しました、社長」
「俺は“本丸”へ向かう」
越後はジャケットを翻し、ドリームフューチャー本社を飛び出していった。
その頃――。
「……終わりだ、坊や」
人気のない裏通り。黒いコートの男の拳が快晴の腹をえぐるたび、肺の空気が押し出される。
「ぐっ……は、ぁ……っ」
壁際に追い詰められ、血を吐きながらも、快晴は胸ポケットにしまったUSBを絶対に手放さなかった。
「出せ。渡せば命だけは助けてやる」
「……嫌だ」
次の瞬間、頬に蹴りが飛び、地面に転がされる。だが、快晴は歯を食いしばり、USBを握り締めたまま立ち上がった。
「どれだけ殴っても……渡すかよ……! これは、俺たちが掴んだ証拠だ!」
「死ぬぞ、ガキが!」
黒コートの拳が何度も顔面を襲う。鼻から血が滴り、視界が滲む。だが、快晴の両手は一度も胸元から離れなかった。
――そして。
「警察だ! 動くな!」
鋭い声とともに、複数の警官が路地へなだれ込んだ。通行人が異常を察して通報していたのだ。
「離せ! 俺は――!」
「黙れ! 暴行現行犯だ!」
黒いコートの男は地面に押し倒され、手錠が掛けられる。
ふらつく足で壁にもたれかかりながら、快晴は小さく息を吐いた。血でべったりと汚れたUSBは、まだ彼の胸元にあった。
守った。どんなに殴られても、渡さなかった。
遠くでサイレンが鳴り響く。だが、安堵する暇などない。越後が動き出すのは、まだこれからだった。




