復讐の準備
夜の街の灯りが、どこか冷たく滲んで見えた。
山瀬の尾行から二日後。俺と亮は、あの時撮影した画像データを持って、真央の元へと向かった。
路地裏にある小さなバー――表向きは隠れ家的な店だが、実際は真央の情報拠点でもある。扉を開けると、薄暗いカウンター越しに真央が静かにグラスを拭いていた。
「……来たわね。例の“証拠”ってやつ、見せて」
俺はスマホを取り出し、山瀬が喫茶店で接触していた3人の写真を順に見せた。
スーツの男、山瀬、そして――金髪にピアス、鋭い眼光の男。
その顔を見た瞬間、真央の目がわずかに細まった。
「……こいつ、知ってる」
低くつぶやく声に、俺と亮は思わず顔を見合わせる。
「誰だ? ただのチンピラじゃないのか?」
「ただのじゃ済まないわ。|三國公徳〈みくにきみのり〉。通称ミッキー。この街じゃ札付きの悪として有名よ」
その名を聞いた瞬間、空気が一気に重くなった。
俺はごくりと唾を飲み込む。
「中学の頃から暴れ回ってて、警察も手を焼いた。喧嘩は無敗、恐喝、シノギの取り合い、何でもやる。でも、一番厄介なのは、今も裏で、越後みたいな上の連中と繋がってるってこと」
亮が苦い顔をした。
「つまり、山瀬と越後だけじゃなく、反社の実働部隊も絡んでるってことか……」
「そうなるわね。でも、だからこそ好都合でもある」
真央はグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「ミッキーが出てきた以上、これは表だけの話じゃ済まない。こっちも“裏”に話を通す必要がある」
「……裏?」
「炎刃組よ。この街の夜を裏から仕切ってる連中。表向きは企業家や政治家とも繋がってるけど、本質は“治安屋”みたいなもの。無秩序な奴らを潰すのが商売」
その名は噂で聞いたことがあった。暴力団でも、チンピラでもない。裏社会の「秩序」を維持するためだけに存在する組織――炎刃組。
「越後の件、私から炎刃組に話を持っていく。彼らが“協力に値する”と判断すれば、ミッキーへのルートも割れる」
「じゃあ……俺たちは何をすれば?」
「証拠を取るの。どんなに凶悪な奴でも、証拠がなければ警察は動かない。逆に、確実な証拠さえあれば、越後も、山瀬も、ミッキーも一網打尽にできる」
真央の声は静かだったが、その奥に揺るぎない決意があった。
「次の動きは――“アジト潜入”よ」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
亮が最初に反応する。
「まさか……俺たちが、あの連中の本拠地に入るのか?」
「そうよ。山瀬が通っていた喫茶店の奥に、彼らの情報拠点がある。資料も、契約書も、証拠になるものが全部そこにあるはず。外からじゃ絶対に手が出せない。だから内部から盗るの」
冗談じゃない。心臓が一瞬で冷えた。
でも、逃げ道がないこともわかっていた。
ここまで来て、引き返せる道なんて、もう存在しない。
「……やるよ」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
「俺もだ。ここでかわいい後輩の地獄、終わらせる」
亮も同じ覚悟を決めていた。
真央はわずかに口角を上げる。
「決行は来週の水曜。越後が外部と接触する予定の前日。あんたたちは夜間にアジトへ侵入し、データを抜き取る。私は炎刃組に話をつけ、バックアップを確保する」
俺は深く息を吸い込み、頷いた。
翌日、俺は昼休みの時間を使って伊川に声をかけた。周囲に人がいないことを確認してから、静かに口を開く。
「……伊川さん、話があります」
「顔が本気ね。何?」
俺はすべてを話した。越後と反社の繋がり、山瀬の動き、真央の作戦、そして――水曜の潜入計画。
伊川は黙って聞き終えると、しばらく考え込み、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。私も協力する」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、私は現場には行けない。けど、社内でできることはある」
そう言って、伊川はわずかに笑みを浮かべた。
「決行の日、わざと大失態を演じてやる。資料を間違えて取引先に送るとか、重要書類を紛失したフリをするとか……とにかく、越後を数時間は足止めできる」
「……助かります。本当に」
俺は深く頭を下げた。
その瞬間、ほんの少しだけだが、肩に乗っていた重みが軽くなった気がした。
作戦は動き出した。炎刃組の裏の支援、伊川の足止め、そして俺たちの潜入。
すべての歯車が噛み合った時、長く続いた地獄の時間は終わりを迎える。
もう、後戻りはできない。一歩踏み出せば、そこは生還の保証もない世界。
命がけの「潜入」だ。




