沈黙の反撃
バーの外は、秋の夜風が静かに街路樹を揺らしていた。
俺はグラスを握りしめながら、頭の中で今までの恐怖や絶望の瞬間をひとつずつ思い返していた。越後の怒声、机を叩かれた衝撃、胸ぐらを掴まれた痛み、どれもが紛れもない現実だった。
だが、真央の言葉が胸の奥で微かな光を灯す。
「まだ終わっちゃいない」
その短い一言に、長く閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。
亮が拳を握りしめ、俺の方へと頷く。
「……わかった、快晴。どんな危険でも、俺はついていく」
その眼には、今まで見たことのない純粋な覚悟が宿っていた。真央は煙草を灰皿に押し付け、静かに立ち上がる。
「作戦は簡単じゃない。越後だけじゃなく、バックの連中もいる。下手に動けば、誰かが確実に怪我をする」
その言葉に、背筋が凍った。怖い。正直、震えるほど怖い。けれど同時に、心の奥に小さな決意が芽生えていた。
このまま逃げ続ける人生なんて、もう嫌だ。
真央は店の外に出て、夜の街灯の下で俺たちを見つめる。
「方法はある。でも、うまくいく保証はない。何よりも情報が命。越後の動き、反社の影……全部、頭に叩き込むの」
亮と視線を交わす。緊張と期待が入り混じった表情が、鏡のように映った。
「……やるしかないな」
俺が小さくつぶやくと、真央はわずかに口角を上げてうなずいた。
その瞬間、街の遠くから救急車のサイレンが微かに聞こえ、現実へと引き戻される。
だが、俺たちの心にはもう逃げ場はなかった。
次に動くのは、俺たちだ。
ジャズの音が静かに夜を包む中、三人の影が長く伸びていく。
その背中に、希望と不安が交錯していた。
ーーーー
朝のオフィスは、いつも通り冷たい空気に満ちていた。
俺は背筋を伸ばし、パソコンに向かう。越後の視線を避けながら、ひそかに情報を集める毎日。営業先で拾った噂、社内の動き、誰が越後の意向を伝えているのか、細い糸を手繰るように、少しずつ断片を拾い集めていった。
昼休み、意を決して伊川に声をかけた。
「伊川さん、ちょっといいですか?」
伊川は驚いた顔で顔を上げる。
「どうしたの?」
俺は小さく息をつき、視線を伏せながら言った。
「……越後のこと、あんまり一人で抱えたくなくて。協力してもらえませんか?」
一瞬、伊川の目に驚きと警戒が浮かぶ。
だが、やがて静かにうなずいた。
「……わかった。でも、誰にも話さないで。職員の中には越後の息がかかってる人がいて、少しでも情報が漏れたら、すぐに越後に伝わる」
俺は深くうなずく。
「分かってます。慎重にやります」
伊川は机の引き出しから小さなメモ帳を取り出し、俺に手渡した。
「これ、私が気づいたこと。ほんの少しだけど、役に立つはず」
ページには名前や行動、怪しい動きが細かく記されていた。少しずつだが、暗闇の中に輪郭が浮かび上がっていく。
オフィスは依然として恐怖に支配されていた。越後の怒声、圧迫感、監視の目……だが、俺と伊川は静かに作戦の歯車を回し始めていた。
視線を交わす俺たちに、言葉は要らなかった。この日常の陰で、確かに希望が芽吹き始めている。
ーーーー
それから数日、俺は一見いつも通りの営業マンとして過ごしながら、水面下で情報を集め続けた。
社内で越後とよく話す者、なぜか定時前に資料室に立ち寄る者、メールの送受信先が不自然に多い者……パズルのピースのような断片が、少しずつ繋がっていく。
そしてある夕方、伊川が小声で囁いた。
「……快晴、越後、来週の水曜に外部の人間と会うみたい」
俺の心臓が一拍、強く跳ねた。
「外部って……反社か?」
伊川は頷く。
「たぶん。場所はまだわからないけど、経理の山瀬が資料をまとめてる。彼、越後とつながってる可能性が高い」
ついに核心へと近づいている…そう思った瞬間、恐怖と同じくらい大きな高揚が体の奥から込み上げてきた。
「……ありがとう、伊川さん。ここからが本番だな」
窓の外では、秋の夕暮れが静かに沈んでいく。
俺は深呼吸し、拳を強く握った。
逃げる人生は、もう終わりにする。
次は、俺がこの地獄を終わらせる番だ。
木曜日の夕方、オフィスの空気がざわめき始める頃だった。経理の山瀬がいつもより早くパソコンを閉じ、そそくさと帰り支度を始めたのを、俺は見逃さなかった。
――今日だ。
胸の奥が高鳴る。俺はさりげなく書類をまとめるふりをして席を立ち、少し距離をあけて山瀬の背中を追った。
駅前の改札を抜け、人混みに紛れるように進む。山瀬は何度も振り返り、警戒している様子を見せる。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。だが、足を止めるわけにはいかない。
やがて彼は、繁華街の大通りを外れ、裏路地の方へと曲がった。ネオンが消えかけた古びたビル。飲み屋と雀荘が並ぶ一角。
俺は通行人を装って距離を保ち、スマホのカメラをポケットからのぞかせた。山瀬はビルの奥にある古い喫茶店へ入り、そこでスーツ姿の男と合流する。
カメラのズーム越しでもわかる。あの男、間違いなく越後と繋がっている。以前、別件で営業部を出入りしていた人間だ。
しばらくすると、さらに一人、見覚えのない男が現れた。金髪、刺青、耳にピアス。明らかに企業関係者ではない。
三人はドリンクも頼まず、すぐに資料らしき封筒をテーブルに広げた。
俺は喉が渇くのも忘れてスマホを握りしめたまま、撮影を続ける。これが、越後の外部との接点……。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、黒いコートの男が数メートル後ろからこちらを見ていた。
目が合った瞬間、男はゆっくりと歩み寄ってくる。
心臓が跳ね上がる。
バレたか?
思わず視線を逸らし、通行人を装って店の角を曲がる。男の足音が一歩、また一歩と近づいてくる。
冷や汗が背中を伝った。
そこへ、突然スマホが震えた。画面を見ると、亮からのメッセージだ。
「裏口に回れ。車で拾う」
俺は息を詰め、足を速めた。曲がり角を二つ抜けると、暗がりに停まった車がヘッドライトを点滅させている。ドアを開けて飛び乗ると、亮がハンドルを握ったまま低く言った。
「やっぱり動いてたか」
「間違いない。山瀬、反社と接触してた。写真も撮った」
亮は無言で頷き、アクセルを踏む。後方のミラーには、さっきの黒いコートの男が通りを見回している姿が映っていた。
「……もう後戻りはできねぇな」
「最初から、そのつもりです」
夜の街が遠ざかる。胸の鼓動はまだ早いままだが、恐怖の奥に奇妙な静けさが広がっていた。
確実に、歯車は動き始めている。




