表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
キャンバスはここにある  作者: 黒瀬雷牙
ドリームフューチャー編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/23

アフター

 俺はそれからも必死に食らいついた。

 だが、あの日の啖呵を境に、越後の態度はあからさまに変わった。


「森峰、お前は特別だ。パソコン使うなら、一時間千円だ」


 そう言って、共有のパソコンにまで料金を課す。誰も逆らえず、俺だけが財布を痛める羽目になる。


 営業先で成果が出なければ、帰社後に会議室で怒号が飛んだ。


「お前の口は飾りか!?真面目に働けやクズ野郎!!」


 机を叩かれ、胸ぐらを掴まれ、時には拳が飛んできた。頬に鈍い痛みが走るたび、心の奥で何かが崩れていく。


 給料からは平然と「指導料」と称して差し引かれ、手元に残るのは雀の涙。

 夜道をふらつきながら、都会のネオンが滲んで見えた。俺はただ、生き延びることしか考えられなくなっていた。


「逃げたら殺すからな」


 越後は繰り返す。その声は夢にまで響き、俺の足を縛った。


 逃げられない。恐怖が、俺の世界を支配していた。


 そんなある日、伊川がふと俺に声をかけてきた。


「森峰、あんた……よく耐えてるね」


 その声音は、いつもの冷たい響きとは違っていた。


「俺は……ただ、逃げられないだけだ」


 情けなく漏れた言葉に、伊川は一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐに俺を見た。


「……私も同じだった」


 ぽつりと落とされた告白に、思わず息を呑んだ。


「本当は、絵の仕事がしたくてここに入ったの。騙されたんだよ。夢を餌にされて、気づけば越後の傀儡」


 彼女の指先が机の縁をぎゅっと掴む。声は淡々としているが、その奥には確かな怒りが潜んでいた。


「生き延びるために、従うしかなかった。……中には、越後の……処理に使われてる子もいる」


 俺は息を飲んだ。想像したくもない現実に、胃の奥が冷たくなる。


「でも、私は助かってる。幸か不幸か、あいつの好みは派手な金髪ギャル。私みたいなタイプは対象外」


 淡々と語る伊川の瞳は、諦めと憎悪と、そしてわずかな希望を湛えていた。


「だから言ったの。ここに来たら終わりだって」


 俺は言葉を失った。だが、同じように夢を奪われ、縛られ、それでも生きようとしている彼女がいる。その事実が、胸の奥で何かを灯す。


 ――俺は、本当にこのまま終わっていいのか。


 ズタボロの毎日が続いていた。

 越後の怒鳴り声、殴られる拳、減らされる給料。俺の世界は狭く暗く、ただ恐怖だけで回っていた。


 そんなある夜、スマホが震えた。画面には「亮先輩」の文字。ファミレスで一緒にバイトしていた、あの頃の先輩だ。


「元気か? 今日スロで万枚出てさー、お前と呑み、行こうかと思ってよ」


 電話口から聞こえる明るい声に、胸の奥が少しだけ緩んだ。亮は変わらない軽いノリで、でも不思議と人を安心させる力があった。


「……あ、はい。行きます」


 気づけば、俺は返事をしていた。


 待ち合わせはバイトしていたファミレス。亮は俺を見て驚いた。


「久しぶ…おいおいおい!なんだよ快晴!?誰にやられたんだ!!?」


「ははは…色々ありまして…」


 亮は、越後に殴られ、少し腫れた顔の俺を心配してくれた。連れて行かれたのは、煌びやかなネオンの下に佇むキャバクラだった。


「ここなら元気出るって! ほら、人生楽しまなきゃ損だろ?」


 先輩は豪快に笑い、ドアを押し開ける。


 中はシャンデリアの光が反射して、非日常そのものだった。ドレスをまとった女性たちの笑顔が飛び交い、俺の心臓は場違いな鼓動を刻んでいた。


 そして――視線が合った。胸までの茶髪、白いドレス、落ち着いた大人の色気。


 綾瀬真央。


 自堕落な俺を突き放しつつも、本気で気にかけてくれていた。


 「……快晴?」


 彼女は小さく名を呼んだ。その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが揺れる。


 「ひ、久しぶりです……」


 俺の声はかすれて震えていた。


 そのぎこちなさを、真央は見逃さなかった。笑顔の裏で、瞳が鋭く光る。


 「アンタ……ただごとじゃないわね」


 心臓が跳ねた。

 ほんの一瞬で、俺がどんな闇に沈んでいるかを見破られた気がした。


  店が終わったあと、真央に「アフター行くわよ」と言われた。

 俺は胸の奥がぎゅっと縮むような緊張を覚え、亮先輩は「マジかよ! やったな快晴!」と浮かれている。


 タクシーで連れて行かれたのは、路地裏にひっそり佇むバーだった。ドアを押すと、柔らかなジャズと琥珀色の光に包まれる。客はまばらで、店全体が落ち着いた空気をまとっていた。


 奥の席に腰を下ろすと、真央は無言でバッグを開けた。白い指が中を探り、小さな箱。タバコのパッケージを取り出す。

 カチリ、と箱を開ける乾いた音。中から一本をつまみ出し、唇にくわえる。

 ライターを手に取り、金属のキャップを弾く。シャッと火花が散り、青白い炎が揺れる。

 その火を吸い込みながら、真央はゆっくりと煙を吐き出した。白い煙が淡く漂い、照明に溶けていく。


 そして、まっすぐ俺を射抜くような眼差しで言った。


 「――話な」


 その一言に、背筋が凍るような重みがあった。

 亮も冗談を挟むことなく、グラスをいじりながら俺を見ている。


 俺は迷った。けれど、この場で隠し通すのは無理だと悟った。

 喉が焼けるように乾きながら、少しずつ言葉を吐き出していった。

 ブラックな職場のこと、越後の本性、イジメ、給料、脅迫。

 俺がどれだけ恐怖に支配され、逃げ場を失っているか。


 話し終えた時には、胸の奥から冷たいものが全部吐き出されたようで、身体が重く沈んでいた。


 沈黙の中、氷がグラスの中で小さく鳴った。

 真央の顔からは、キャバ嬢の笑顔は消えていた。真剣で鋭い、かつて俺を突き放した時と同じ大人の表情。

 亮も、軽さを完全に失っていた。目を伏せ、ただ深く息を吐く。


 二人の表情が変わった瞬間、俺は初めて――自分の話が、他人に届いたのだと実感した。


 重たい沈黙を破ったのは、亮だった。

 氷の溶ける音とともに、拳を握りしめる。


「……なぁ快晴」


 顔を上げたその表情に、いつものチャラさは一切なかった。


「俺がぶっ飛ばしてやるよ。こう見えても、俺は高校からずっとボクシング続けてっからよ」


 その言葉は、ふざけた調子ではなく、腹の底から絞り出された本気だった。

 けれど真央は静かに煙を吐き、グラスを指先で回しながら首を振った。


「亮……頭に血が上ってるわね」


 彼女の声は低く、研ぎ澄まされていた。


「殴ってどうにかなる相手じゃない。むしろ越後のバックに反社がついてる可能性がある。下手に暴力で行ったら、あんたが潰される」


 亮は悔しそうに舌打ちし、唇を噛んだ。

 その横で、俺は何も言えなかった。殴り倒して解決してほしい気持ちもあれば、真央の言葉の冷たい現実も痛いほどわかる。


 真央は煙草を灰皿に押し付け、まっすぐ俺を見た。


「快晴。アンタ、まだ終わっちゃいない」


 その目は、夜の街を切り裂く刃のように鋭い。


 そしてグラスを置き、低い声で続けた。


「…方法はある。ちょっと危ないけどね」


 亮と俺は息を呑む。

 真央の言葉はそれきりで、店内のジャズが再び静かに流れた。

 彼女の頭の中で何かが組み上がっていくのを、俺たちはただ黙って待つしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ