アフター
俺はそれからも必死に食らいついた。
だが、あの日の啖呵を境に、越後の態度はあからさまに変わった。
「森峰、お前は特別だ。パソコン使うなら、一時間千円だ」
そう言って、共有のパソコンにまで料金を課す。誰も逆らえず、俺だけが財布を痛める羽目になる。
営業先で成果が出なければ、帰社後に会議室で怒号が飛んだ。
「お前の口は飾りか!?真面目に働けやクズ野郎!!」
机を叩かれ、胸ぐらを掴まれ、時には拳が飛んできた。頬に鈍い痛みが走るたび、心の奥で何かが崩れていく。
給料からは平然と「指導料」と称して差し引かれ、手元に残るのは雀の涙。
夜道をふらつきながら、都会のネオンが滲んで見えた。俺はただ、生き延びることしか考えられなくなっていた。
「逃げたら殺すからな」
越後は繰り返す。その声は夢にまで響き、俺の足を縛った。
逃げられない。恐怖が、俺の世界を支配していた。
そんなある日、伊川がふと俺に声をかけてきた。
「森峰、あんた……よく耐えてるね」
その声音は、いつもの冷たい響きとは違っていた。
「俺は……ただ、逃げられないだけだ」
情けなく漏れた言葉に、伊川は一瞬だけ目を伏せ、それから真っ直ぐに俺を見た。
「……私も同じだった」
ぽつりと落とされた告白に、思わず息を呑んだ。
「本当は、絵の仕事がしたくてここに入ったの。騙されたんだよ。夢を餌にされて、気づけば越後の傀儡」
彼女の指先が机の縁をぎゅっと掴む。声は淡々としているが、その奥には確かな怒りが潜んでいた。
「生き延びるために、従うしかなかった。……中には、越後の……処理に使われてる子もいる」
俺は息を飲んだ。想像したくもない現実に、胃の奥が冷たくなる。
「でも、私は助かってる。幸か不幸か、あいつの好みは派手な金髪ギャル。私みたいなタイプは対象外」
淡々と語る伊川の瞳は、諦めと憎悪と、そしてわずかな希望を湛えていた。
「だから言ったの。ここに来たら終わりだって」
俺は言葉を失った。だが、同じように夢を奪われ、縛られ、それでも生きようとしている彼女がいる。その事実が、胸の奥で何かを灯す。
――俺は、本当にこのまま終わっていいのか。
ズタボロの毎日が続いていた。
越後の怒鳴り声、殴られる拳、減らされる給料。俺の世界は狭く暗く、ただ恐怖だけで回っていた。
そんなある夜、スマホが震えた。画面には「亮先輩」の文字。ファミレスで一緒にバイトしていた、あの頃の先輩だ。
「元気か? 今日スロで万枚出てさー、お前と呑み、行こうかと思ってよ」
電話口から聞こえる明るい声に、胸の奥が少しだけ緩んだ。亮は変わらない軽いノリで、でも不思議と人を安心させる力があった。
「……あ、はい。行きます」
気づけば、俺は返事をしていた。
待ち合わせはバイトしていたファミレス。亮は俺を見て驚いた。
「久しぶ…おいおいおい!なんだよ快晴!?誰にやられたんだ!!?」
「ははは…色々ありまして…」
亮は、越後に殴られ、少し腫れた顔の俺を心配してくれた。連れて行かれたのは、煌びやかなネオンの下に佇むキャバクラだった。
「ここなら元気出るって! ほら、人生楽しまなきゃ損だろ?」
先輩は豪快に笑い、ドアを押し開ける。
中はシャンデリアの光が反射して、非日常そのものだった。ドレスをまとった女性たちの笑顔が飛び交い、俺の心臓は場違いな鼓動を刻んでいた。
そして――視線が合った。胸までの茶髪、白いドレス、落ち着いた大人の色気。
綾瀬真央。
自堕落な俺を突き放しつつも、本気で気にかけてくれていた。
「……快晴?」
彼女は小さく名を呼んだ。その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かが揺れる。
「ひ、久しぶりです……」
俺の声はかすれて震えていた。
そのぎこちなさを、真央は見逃さなかった。笑顔の裏で、瞳が鋭く光る。
「アンタ……ただごとじゃないわね」
心臓が跳ねた。
ほんの一瞬で、俺がどんな闇に沈んでいるかを見破られた気がした。
店が終わったあと、真央に「アフター行くわよ」と言われた。
俺は胸の奥がぎゅっと縮むような緊張を覚え、亮先輩は「マジかよ! やったな快晴!」と浮かれている。
タクシーで連れて行かれたのは、路地裏にひっそり佇むバーだった。ドアを押すと、柔らかなジャズと琥珀色の光に包まれる。客はまばらで、店全体が落ち着いた空気をまとっていた。
奥の席に腰を下ろすと、真央は無言でバッグを開けた。白い指が中を探り、小さな箱。タバコのパッケージを取り出す。
カチリ、と箱を開ける乾いた音。中から一本をつまみ出し、唇にくわえる。
ライターを手に取り、金属のキャップを弾く。シャッと火花が散り、青白い炎が揺れる。
その火を吸い込みながら、真央はゆっくりと煙を吐き出した。白い煙が淡く漂い、照明に溶けていく。
そして、まっすぐ俺を射抜くような眼差しで言った。
「――話な」
その一言に、背筋が凍るような重みがあった。
亮も冗談を挟むことなく、グラスをいじりながら俺を見ている。
俺は迷った。けれど、この場で隠し通すのは無理だと悟った。
喉が焼けるように乾きながら、少しずつ言葉を吐き出していった。
ブラックな職場のこと、越後の本性、イジメ、給料、脅迫。
俺がどれだけ恐怖に支配され、逃げ場を失っているか。
話し終えた時には、胸の奥から冷たいものが全部吐き出されたようで、身体が重く沈んでいた。
沈黙の中、氷がグラスの中で小さく鳴った。
真央の顔からは、キャバ嬢の笑顔は消えていた。真剣で鋭い、かつて俺を突き放した時と同じ大人の表情。
亮も、軽さを完全に失っていた。目を伏せ、ただ深く息を吐く。
二人の表情が変わった瞬間、俺は初めて――自分の話が、他人に届いたのだと実感した。
重たい沈黙を破ったのは、亮だった。
氷の溶ける音とともに、拳を握りしめる。
「……なぁ快晴」
顔を上げたその表情に、いつものチャラさは一切なかった。
「俺がぶっ飛ばしてやるよ。こう見えても、俺は高校からずっとボクシング続けてっからよ」
その言葉は、ふざけた調子ではなく、腹の底から絞り出された本気だった。
けれど真央は静かに煙を吐き、グラスを指先で回しながら首を振った。
「亮……頭に血が上ってるわね」
彼女の声は低く、研ぎ澄まされていた。
「殴ってどうにかなる相手じゃない。むしろ越後のバックに反社がついてる可能性がある。下手に暴力で行ったら、あんたが潰される」
亮は悔しそうに舌打ちし、唇を噛んだ。
その横で、俺は何も言えなかった。殴り倒して解決してほしい気持ちもあれば、真央の言葉の冷たい現実も痛いほどわかる。
真央は煙草を灰皿に押し付け、まっすぐ俺を見た。
「快晴。アンタ、まだ終わっちゃいない」
その目は、夜の街を切り裂く刃のように鋭い。
そしてグラスを置き、低い声で続けた。
「…方法はある。ちょっと危ないけどね」
亮と俺は息を呑む。
真央の言葉はそれきりで、店内のジャズが再び静かに流れた。
彼女の頭の中で何かが組み上がっていくのを、俺たちはただ黙って待つしかなかった。




