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キャンバスはここにある  作者: 黒瀬雷牙
ドリームフューチャー編

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合同会社・ドリームフューチャー

 成人式から数日後、俺は再び都会の雑踏に戻っていた。

 冬の冷たい風が肌を刺すが、胸の奥には父との夜の散歩で芽生えた決意がまだ温かく残っていた。


 ネットで見つけたウェブデザイン会社、合同会社・ドリームフューチャーに応募し、運良く採用された。

 初出社の日、オフィスビルのガラス張りの玄関を抜けると、白い光が差し込む開放的なフロアが目に飛び込んでくる。机が整然と並び、ディスプレイにはコードやデザインの画面が映っていた。


「森峰くんか。君の実力を楽しみにしていたよ」


 代表の越後が声をかけてきた。四十代半ばのスマートな男性で、鋭い目に柔らかな笑みを浮かべている。

 その笑顔に、思わず背筋が伸びた。期待されている。そう思った瞬間、都会での無為な日々を振り払う決意が再び胸に芽生えた。


「森峰君、自己紹介してみて」


 入社初日のミーティングで、越後に促されて立ち上がる。深呼吸をひとつ。


「森峰快晴です。ウェブデザインの経験はまだ浅いですが、精一杯頑張ります」


 周りからは「森峰君」と呼ばれ、軽く笑顔で頷かれた。同年代らしい女性社員も小さく手を振ってきた。肩までの黒髪、落ち着いた雰囲気の美しい顔立ちだが、その瞳の奥には冷たい光が宿っている。


「伊川です。同い年だね、よろしく」


 彼女は名乗ったあと、小さくため息をつくように言った。


「ここに来たら終わりだよ」


 あまりに唐突な言葉に、思わず声が詰まった。


「え……?」


 伊川はそれ以上何も言わず、表情を変えずに席へ戻っていった。


 …何が終わるんだ?


 その意味を理解できず、ただ胸に奇妙なざわめきを抱えたまま、俺の新しい職場生活は始まった。


 だが、すぐに違和感は現実となって突きつけられる。与えられたパソコンは一台だけで、社員全員の共有。空いた時間に勝手に作業しろ、というスタイルだった。


 さらに俺に回ってきた業務は、なぜかウェブデザインではなく水道工事の営業。

 伊川は見積もり作成、別の同僚も営業を担当しており、ウェブデザインなど誰もまともにやっていなかった。


 「森峰君、まずは今日の訪問先リストを確認して」


 伊川が淡々と告げる。その声の奥には、あの日の言葉――


「ここに来たら終わりだよ」


 が潜んでいる気がした。


 俺は机の前に座り、パソコンの画面を眺めながらため息をついた。

 デザインを学びたい気持ちはある。だが現実は、水道工事の契約書と営業電話に追われる日々。


 窓の外に広がる都会の夜景は冷たく光り、心の温度を削いでいく。

 それでも、父との夜の散歩で誓った決意は、まだ胸の奥に残っていた。


 逃げるわけにはいかない。昔の自分とは違う、新しい役割を背負わされている気がして微かに身が引き締まる。


 俺は深く息を吸い、椅子に座り直した。やるしかない。何もせずに終わるわけにはいかない。


 配属されてからの数週間は、想像以上に泥臭く、そして疲弊する日々だった。

 朝から夜まで、営業用のスーツに着替えてはアポ先を回る。現場では、あくまで丁寧に振る舞うよう指示されるが、実際のやり方はどこか掟破りだった。


 「見積もりは一通り出しておけばいい。お客さんは不安になったら金を出す。安心を買わせろ」


 伊川も、越後からそんな調子の指示を受けていた。彼女の顔は相変わらず冷たく整っているが、業務に入ると目の奥が鋭く光る。


 俺は違和感を覚えながらも、まずは覚えることに徹した。押しの強い営業トーク、必要以上のオプションを勧める言い回し、早口で合意を取り付ける空気の作り方。ウェブの勉強は、共有パソコンで確保したわずかな空き時間にこっそり画面に向かうだけだ。


 ある日、玄関先で恐縮する年配の夫婦に対して、俺は言葉を選びながら最低限の説明をしていた。だが隣で伊川が淡々と書類を並べ、別の同僚がにこやかに説明を重ねると、夫婦の表情は次第に不安と諦めを混ぜたものに変わっていった。胸の奥が冷たくなる。これが職場の日常なのだと、少しずつ理解していった。


 それでも、父との夜に誓った決意がある。やめるのはいつでもできる。まずは一度ここで学んで、何かを掴んでみせる。そんな弱い希望が、ぎりぎりで俺を支えていた。


 そして給料日が来た。

 越後の席に名前を呼ばれて一人ずつ封筒を渡される。手が震えそうになりながら封を切ると、中には十万円の紙幣が並んでいた。思わず数え直す。見間違いではない。


「これだけか……」


 声が思わず漏れた。正直に言えば、都会での生活費にも心許ない。だがそれよりも、あの泥臭い仕事ぶりや会社の実態を考えると、十万円があまりにも小さく感じられた。


「ブラックだろ、これ」


 勢いで口に出してしまう。周りの空気が一瞬固まった。越後は軽く笑って、椅子の背にもたれたまま肩をすくめる。

 

「土日休みだぞ? ウチはホワイトだろ」


 簡単に返されて、俺の言葉は宙に消えた。だが、怒りが胸に沸き上がる。


「ウェブデザインなんてないし、水道工事の営業なんてやってられるか! 俺はデザインがしたくて来たんだ!」


 言葉が熱を帯びる。喉から出た啖呵は、自分でも驚くほどまっすぐだった。


 越後の表情が、わずかに変わる。最初の柔らかな笑みは消え、代わりに冷たい影が差した。


「イキるなよ、クソガキ」


 越後はひとつ顎を動かし、袖をまくった。白い腕に刻まれていたのは、太い曲線を描く龍の刺青。腕に巻き付くように描かれたその絵柄は、不穏な迫力を放っていた。インクの濃淡が、蛍光灯の下で鈍く光る。


「逃げたら、殺すからな?」


 その刃のような一言は、会議室の空気を一瞬にして凍らせた。心臓が大きく跳ね、身体の奥から冷たい汗が溢れる。


 周りの誰も反応を示さない。越後の背後では伊川が淡々と資料をめくり、まるで何事もないかのように視線を逸らしていた。その冷たさが、むしろ脅威を際立たせる。


 俺は拳をぎゅっと握りしめた。恐怖と怒りが混ざって、言葉が震える。だが口を閉ざしたのは、誰かに突き飛ばされるでも、意志で踏みとどまったでもなかった。単純に、今は反抗すれば取り返しのつかないことになると、身体が教えてくれたのだ。


 それでも、胸の中の小さな火は消えていなかった。爪先に伝わる冷たさ、父の手の温もり、あの日の夜空の透明さ。その断片が、か細く光り続けている。


 越後は椅子からゆっくり立ち上がり、封筒を撥ねるように机に置いた。


 「よし、じゃあ今日はここまでだ。明日も早いからね」


 冷たい言葉とともに会は終わり、社員たちはそれぞれの席へと散っていった。だが俺だけは、すぐに動けなかった。龍の刺青と越後の声が頭から離れない。胸の内側で、何かが固まるように決意めいたものが芽吹いた。


 逃げるのは簡単だ。だが、ここで終わるわけにはいかない。


 俺はゆっくりと立ち上がると、共有のパソコンの前に向かった。画面の端に小さく開いたデザインソフトのウィンドウに、かすかな希望を込めて、手を伸ばした。


 だがその手の先には、薄暗い影と、これから引き起こされるであろう抗争の予感が横たわっていた。俺はまだ知らない…

 この会社が、俺に何を求め、どこまで追い詰めてくるのかを。

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