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キャンバスはここにある  作者: 黒瀬雷牙
旅立ち編

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思い出せ……!

 あれから二年が過ぎた。

 都会の喧騒にも慣れきった俺の毎日は、ただの繰り返しに変わっていた。


 バイトを終えると、帰り道のコンビニで缶ビールを一本。六畳の部屋に戻ってプルタブを開け、テレビをつけるでもなく、スマホを眺めながらそのまま酔い潰れる。

 母からのメールは今も届いている。「体調崩してない?」「ちゃんと食べてる?」と。けれど、未読の赤い数字が積み重なるばかりで、返事を打つ気力はなかった。


 給料日になると駅前のパチンコ屋へ足を運ぶ。勝った日は亮に連れられてキャバクラ。だが、負けるまでの道のりはあまりにも速く、気がつけばいつも財布の中は空っぽになっていた。

 そんな生活にすら慣れてしまった頃、ある夜、真央に真顔で言われた。


「……もうやめなさいよ。あなたがここに来ても、正直面白くない」


 いつも柔らかな笑みを絶やさない彼女が、初めて吐き出した本気の言葉だった。

 その瞬間、胸の奥で何かが崩れる音がした。

 以降、キャバクラの扉を叩くことはなくなった。だがそれは改善ではなく、ただ「楽しみが一つ減った」だけだった。


 気がつけば、酒とバイトとパチンコだけで時間が過ぎていく。夢を追うために持ってきたスケッチブックは、机代わりの段ボールの下に押し潰され、ホコリをかぶっていた。


 そんなある日、仕事終わりにスマホが震えた。

 画面には「健太」の名前。地元の友人で、唯一頻繁に連絡をくれる相手だった。


『おい、快晴。成人式来るよな?』


 短い文章に、俺の時間が一瞬だけ止まった。


 地元。成人式。

 都会に出てから二年、俺が背を向けてきた言葉たちが、画面の文字として目の前に並んでいた。


 成人式の日、俺は久しぶりにスーツに袖を通した。鏡の前に立つと、少し痩せて落ちた頬と、どこか冴えない表情が映っている。

 胸ポケットに差し込んだ安っぽいネクタイピンが、余計に場違いな自分を強調していた。


 会場に入ると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。

 あの頃、クラスの中心で威張り散らしていたガキ大将の将大は、すっかり精悍な顔つきになっていて、今は地元で建築会社を継いでいるらしい。スーツ姿も堂々としていて、学生時代の荒っぽさは消え、頼もしさに変わっていた。

 そして、休み時間はいつも携帯ゲーム機をいじっていた打保は、驚くことにIT企業に勤めていて、ゲーム好きが高じてアプリの開発に関わっているという。話す声は落ち着いていて、かつての内気さは跡形もなかった。


 二人の姿に、胸がざわついた。

 俺がこの二年で手に入れたのは、バイト先のレジ打ちスキルと、パチンコの光と音に焼きついた記憶だけ。

 机の下で拳を握る。焦りが、嫉妬が、そして苛立ちが心の奥で膨らんでいく。


「おー! 快晴!」


 声をかけてきたのは健太だった。昔から一番近くにいて、バカ話も夢の話も何でもできた親友。

 だが、その健太の隣には咲衣がいた。


 咲衣。

 初恋の人。笑うと目尻に小さなえくぼができて、俺はずっとその笑顔に惹かれていた。

 彼女は変わらず柔らかな雰囲気をまとい、晴れ着に包まれて眩しいほどに綺麗だった。


 健太は誇らしげに、しかし少し照れくさそうに笑った。


「みんなに伝えたいことがあるんだ。俺、咲衣と結婚することになった」


 空気が一瞬だけ止まり、次の瞬間、将大と打保が「おめでとう!」と声を揃える。

 健太は胸ポケットから封筒を取り出し、俺たち三人に順番に手渡した。

 白い封筒。挙式の招待状。


 受け取った瞬間、指先が震えた。

 親友が初恋の人と結婚する。

 その事実が、笑顔の裏で俺の胸を深く抉った。


 祝福の言葉を口にしようとしたのに、喉が詰まる。

「おめでとう」と言いながら、胸の奥では別の声が響いていた。


 ――俺は何をやってんだ。


 将大は会社を継ぎ、打保は夢を仕事にし、健太は愛する人と未来を誓った。


 …対する俺はどうだ?


 都会で夢を追うはずだったのに、酒とパチンコに時間を食いつぶし、母のメールすら無視して、ただ逃げ続けている。


 笑い合う同級生たちの輪の中で、俺だけが心の奥に深い穴を抱えていた。

 その穴の底から、白い招待状が重くのしかかる。

 眩しい未来を示すその紙切れは、同時に、俺自身の空虚さを突きつける刃のようだった。


 成人式の二次会。

 将大が笑いながら肩を叩いてきた。


「快晴、行くだろ? 飲み放題で久々に盛り上がろうぜ!」


 けれど俺は、首を横に振った。


「悪い、ちょっと用事あるんだ」


 口から出た言葉は、我ながら薄っぺらかった。

 将大は「そっか」と笑って流してくれたが、その一瞬の気まずさが胸に残った。


 夜の冷たい風に吹かれながら、俺は実家へ足を向けた。

 二年ぶりの玄関。インターホンを押すと、少し間をおいてドアが開いた。


「……快晴?」


 母の声が震えた。

 俺の顔を見た途端、安堵と驚きが入り混じったように微笑み、


「元気にしてたの? ずっと心配してたんだから」


 そう言って、まるで幼い頃のように肩を抱いた。


 リビングに入ると、父が座っていた。

 昔と変わらぬ無口な表情で、俺をじっと見つめる。

 その視線に、胸の奥がざわついた。

 母が「お茶いれるわね」と台所に立つ間、沈黙が落ちる。


 俺は、都会での暮らしを何も話せなかった。

 夢のことも、バイトのことも、酒とパチンコに沈んでいた日々も。

 何を口にしても中身のない嘘になりそうで、ただ曖昧に笑ってやり過ごすしかなかった。


 やがて父が口を開いた。


「……歩かないか」


 その言葉に少し驚いたが、俺は頷いた。

 寒空の下、二人で歩き出す。

 白い息が並んで夜道に消えていく。


 しばらく黙って歩いていると、ふと昔を思い出した。

 小学生の頃、夜の散歩に連れ出されたことがあった。

 手を繋ぎ、見上げた空に星がぎっしりと瞬いていて、父はあのときも言葉少なに「寒くないか」とだけ聞いてきた。


 今も同じ夜の空気が頬を刺す。けれど、隣を歩く父の背中は、あの頃よりも少し小さく見えた。


 二人で歩く夜道。住宅街の角にある自販機の光が、青白く路面を照らしていた。

 父は立ち止まり、小銭を入れて缶コーヒーを二本取り出すと、片方を俺に差し出した。


「ほら」


 受け取った缶は温かく、掌にじんわりと染みた。プルタブを開けると、父がぽつりと呟く。


「温かいな」


 その声と同時に、白い息が冬の空に溶けた。

 父はしばらく無言で空を仰ぎ、それからゆっくりと話し出した。


「俺もな、若い頃は何も考えずに都会へ出た。金を稼いだら、遊びに消えて……結局、何も残らなかった」


 驚いて横を見ると、父の横顔はいつもより遠くに感じた。

 語られる失敗談は、まるで今の俺そのものだった。酒、遊び、空っぽの日々。


「……父さんも?」


「そうだ。大事なものを見失って、気づいたら何もかも失いかけてた」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が崩れた。

 俺は視線を落とし、かすれた声で言った。


「……俺、情けないんだ。夢を追いに出てきたのに、何もしてない。バイトして、酒飲んで、パチンコして……母さんのメールも無視して、何一つ誇れることがない」


 堰を切ったように言葉があふれた。

 都会でのすべてを、惨めな自分を、取り繕わずに父へ吐き出した。

 話しながら気づけば、頬を涙が伝っていた。嗚咽が漏れ、言葉にならなくなる。


 こんなふうに泣いたのは、子供の頃以来だった。


 父は立ち止まり、俺の肩に手を置いた。

 強くも優しいその手が、全身に染み渡る。


「……がんばれ」


 短く、それでいて真っ直ぐな言葉。


「お前はまだ若い。いくらでも、頑張れるよ」


 夜空に白い息が流れ、父の声がその中に溶けていった。

 俺は涙を拭うこともできずに、ただ頷いた。


 温かい缶コーヒーの苦味が、胸の奥でじんわりと温かさに変わっていく。


 目を閉じ、心の奥底で、これまでの自分を思い切り殴りつけるような気持ちになった。


「思い出せ……!」


 全身に力を込め、過去の失敗も、逃げ続けた日々も、すべてを振り払う。

 俺は、やる。必ずやってみせる。


「父さん、俺、やるよ」


 吐き出した声は凍てつく冬の空気に吸い込まれ、でも胸の奥で確かに響いた。

 顔を上げると、冬の夜空は透明で冷たく、あまりにも澄んでいて、まるでこれから歩む未来を映し出す鏡のように輝いていた。

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