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キャンバスはここにある  作者: 黒瀬雷牙
旅立ち編

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新しい生活

 駅を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 見上げれば、ビルの壁が高くそびえ、空の青さを細く切り取っている。田舎町では決して見られなかった景色だ。


 俺は人混みに押されながらも、立ち止まって深呼吸をした。

 ここから始まる。そう自分に言い聞かせるように。


 子どもの頃、落書き帳に夢中で描いたヒーローや怪物。誰に見せるでもなく、ただ描くのが好きで、時間を忘れた。

 高校の美術の授業でキャンバスに色をのせたとき、「絵で食っていけたらいいな」なんて口にしたことがあった。健太は「漫画家?イラストレーター?いいじゃん、お前ならやれそう」って笑ってくれた。

 その言葉が、いつの間にか俺の背中を押す夢になった。


 都会に出るのは、その夢のためだ。

 絵を描く仕事につきたい。広告でも、ゲームでも、雑誌の挿絵でもいい。

 誰かの目に届き、心に残る絵を描けたなら、それが俺の生きる証になる。


 だけど現実は甘くない。


 知識も技術もまだまだだし、仕事に繋げるツテなんて何もない。それでも、あの町にいたままでは決して掴めない未来だ。


 カバンの奥には、使い古したスケッチブックが一冊入っている。

 河川敷で夕陽を描いた跡や、夜空を真似した落書き。咲衣の横顔をこっそり写した未熟な線も残っている。それを握りしめて、俺は歩き出した。


 雑踏の音に包まれながら、ふと空を見上げる。

 切り取られた空の端に、雲の隙間から光が差していた。その光はまるで、白いキャンバスに差し込む一筆目のように見えた。


 俺の未来は、まだ真っ白だ。でも、絵を描くように、線を引き、色を重ね、形にしていけるはずだ。


 そのために、俺はここに来た。


 足取りはまだ覚束ない。

 けれど、心の奥でははっきりと色づいた夢が脈打っている。


「よし…」


 俺はスケッチブックの存在を確かめるようにカバンを軽く叩いた。

 そして、都会の街並みの中へと、一歩を踏み出した。


 駅前の喧騒を抜け、地図アプリを頼りに歩き始める。

 事前に親と一緒に来て契約したアパートは、駅から少し離れた住宅街にあった。家賃が安い分、築年数はかなり経っている。外壁は薄くひび割れ、階段の鉄骨は錆びついて赤茶けていた。


 あの日、母親は「大丈夫なの?」と何度も心配そうに訊いてきた。

 父親は「最初はこれで十分だ」と、どこか突き放すように言ったが、その目は少し赤かった。

 俺は「平気だよ」と笑って答えた。けど、その言葉に自分を励ます意味が多分に込められていたのを、今さらながらに思い出す。


 二階の一室。鉄のドアを開けると、埃っぽい匂いが鼻に刺さった。フローリングはところどころ色が剥げ、畳も日焼けして黄ばんでいる。

 けれど俺には、この狭い六畳一間が、確かに自分の()()に思えた。


 カバンを床に置き、スケッチブックを取り出す。

 窓際に腰を下ろして、真っ白なページを開いた。

 ペン先を走らせると、かすれた音が静かな部屋に響く。


 描いたのは、駅で見上げた都会のビル群。

 ぎこちない線だったが、そこにこれからの自分の姿を重ねるように、心を込めた。


「ここからだ…」


 小さく呟く。

 寂しさと不安と、わずかな高揚感が入り混じった声。


 窓の外では、都会のざわめきが遠くに聞こえていた。

 俺はそれをBGMに、白いページを埋めていく。


 荷物を少し整理し、コンビニで買ってきた弁当を床に置いて食べた。

 味は特別うまいわけじゃないけれど、慣れた町の定食屋とも違う、どこか人工的な味がした。

 それでも、腹を満たすと妙な安心感が湧いてきた。


 夜になると、アパートの窓から見える街は一気に表情を変えた。

 ビルの窓が一斉に光を放ち、遠くの国道からは絶え間なく車のライトが流れていく。

 踏切の警報音、人々の話し声、遠くの笑い声……田舎では考えられないほどの音が、途切れることなく響いていた。


 それなのに、部屋の中は驚くほど静かだった。

 六畳の空間に一人きりで座っていると、騒がしい街の中で自分だけが切り離されているように感じる。

 都会の夜は明るすぎて、星のひとつも見えない。あの町の夜空が、ふいに胸に浮かんだ。


 布団を敷き、電気を消す。

 窓の隙間から差し込むネオンが、天井をぼんやりと染めている。

 それがやけに心細さを増幅させた。


 布団にくるまって目を閉じると、寂しさが静かに忍び寄ってくる。

 河川敷で笑い合った四人の声、星を見上げて語った夜の匂い、そして別れ際の健太の「いつでも帰ってこいよ」という言葉――。

 それらが次々と浮かび、胸を締めつけた。


「大丈夫だ…大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟いても、声は震えていた。

 外の街はまだ眠らない。その眩しさと賑やかさの裏で、俺は小さな六畳の闇に包まれていた。


 けれどこの寂しさも、きっと絵にできる。

 そんな思いを最後に抱きながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。


 眠りに落ちた俺は、夢の中で実家の居間にいた。

 ちゃぶ台の上には、湯気を立てる味噌汁と焼き魚。

 高校卒業を控えた頃の、あの夜の光景がそのまま浮かんでくる。


「ほんとに大丈夫なの?夢を追うなんて……」


 母の声は、心配と苛立ちが入り混じっていた。

 手に持ったお椀を置く音が、少し強く響く。


「世の中そんなに甘くないのよ。安定した仕事をして、ちゃんと暮らしていくのが一番なの」


 眉間に皺を寄せた母の顔が、やけに鮮明だった。

 俺は言葉に詰まり、ただ視線を落としたまま。


 その時、父が煙草に火をつけながらぼそっと言った。


「好きにしろよ。お前の人生だ。失敗しても、痛い思いしても、自分で選んだなら後悔しねぇ」


「ちょっとあなた!」と母は声を荒げたが、父は取り合わず新聞を広げた。

 その背中は無愛想で、けれど妙に頼もしく見えた。


 夢の中の俺は、両親の言葉の間で揺れていた。

 母の言うことは正しい。安定した道があるなら、それに越したことはない。

 でも、父の言葉が胸の奥で重く響いていた。

 自分の人生を、自分で選ぶこと。その重さと自由を、あの瞬間に感じた。


 ――やるしかない。


 夢の中でそう呟いた瞬間、俺は目を覚ました。


 薄いカーテン越しに、都会の朝の光が差し込んでいた。騒がしい街の音が遠くから届いてくる。

 寂しさの中に、父の言葉が静かに残響していた。


「……俺の人生、か」


 小さく呟きながら、布団から身を起こした。

 今日が、都会での最初の一日だ。

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