チャンス到来
秋の風がオフィスの窓を叩くころ、俺たちのもとに一本のメールが届いた。
件名は「新規ブランドキャンペーン制作コンペのお知らせ」。
国内でもトップクラスのアパレル企業〈レーヴァ〉が、新ブランドの立ち上げに合わせて、クリエイティブチームを公募するというのだ。採用されれば年間契約、プロジェクトの総額は数千万…小さな事務所にとっては、間違いなく一世一代の大勝負になる。
「……来たね、チャンス」
伊川が印刷した資料をテーブルに並べる。彼女の声は落ち着いているが、その瞳の奥にかすかな高揚があった。
「応募チームはすでに二十社以上。そのうち半分近くは、AIクリエイティブ部門を抱えている会社です。企画の完成度だけでなく、どんな価値を生み出せるかが問われるでしょうね」
“AIクリエイティブ”という言葉が出た瞬間、心臓が小さく跳ねた。
……そうだ、当然だ。あの世界はもう、俺たちのような手描き主体だけでは太刀打ちできない場所へ進んでいる。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「やろう。ここで結果出せなきゃ、この先ずっと“あのときAIを使っておけば”って後悔する気がする」
自分の言葉を噛みしめるように言うと、伊川は静かにうなずいた。
「私もそう思います。今回は“覚悟”が試される勝負です。もちろん、AIに頼らないという選択肢も含めてね」
その打ち合わせから数時間後。
コンペ用の制作会議が開かれたが、チームの空気はどこかよそよそしかった。
「じゃあ、まず方向性の案出しから始めようか」
伊川の声が響くが、明石は終始モニターから目を離さず、俺とも目を合わせようとしない。言葉を交わす必要最低限の連携はとれているが、あの日以来、壁はまだ残っていた。
だが、彼女のラフスケッチはやはり素晴らしかった。アイデアも線も鋭く、見ているだけで「本気」が伝わってくる。
(……負けていられない)
心の奥で、静かに火が灯るのを感じた。
コンペの納期は三週間後。
テーマは「都市と自然の融合」。
求められているのは、ただ美しいだけのデザインではない。“ブランドの未来”を形にできるビジョンだ。
「やろうぜ、みなみさん。俺たちの手で勝てるってこと、証明しよう」
声をかけると、彼女はようやく顔を上げた。けれどその瞳は、まだ簡単には許してくれない色をしている。
「……証明できるの? 本当に、私たちのやり方が通用するって」
「通用させるよ。たとえAIが何百案出してきても、俺たちにしか描けないものがある。そう信じたいんだ」
短い沈黙のあと、彼女は小さく息を吐いた。
「じゃあ、せいぜい頑張って。私は、私の全力で描くだけだから」
それは妥協でも和解でもない。けれど、同じ目標を見据える同志としての言葉だった。
敵は最先端のAIチーム。
勝てる保証などどこにもない。
それでもこの勝負だけは、絶対に譲れない。
俺は胸の奥で、そう固く誓った。
コンペの告知から三日が経った。
オフィスには、いつになく緊張した空気が漂っていた。
伊川が用意したホワイトボードには、いくつものキーワードが並んでいる。
「都市と自然の融合」
「新世代」
「本質と未来」
これらの言葉から派生する案を、チーム全員で出し合い、壁一面が付箋とラフで埋め尽くされていく。
「よし、ここまではいい感じだな。問題は――どう“形”にするかだ」
そう言いながら俺は、机の上に広げたスケッチを見つめた。
描いても描いても、なかなか「これだ」と思える一枚が出てこない。
頭の中では、何度も完成図が浮かんでは消えていく。
都市のビル群の中に樹木の枝葉が伸びていく案。人工的な街路を草花が侵食していく構図。
どれも悪くはない――だが、決定打にならない。
「快晴くん、手が止まってるよ」
明石の声がした。
皮肉でも冷たくもない。淡々とした口調だったが、それが余計に心に響いた。
「……わかってる。でも、どうしても納得できなくて」
「考えすぎじゃない? まずは出せるだけ出して、後で削ればいいの」
そう言って彼女は、自分のラフを次々とスキャンして共有フォルダに上げていく。
そのスピードと密度は圧巻だった。どの案も方向性が違い、表情がまるで違う。
“描くこと”に迷いがない。その姿勢が、痛いほど眩しかった。
(やっぱり、みなみさんは本物だな)
胸の奥で、悔しさと同時に不思議な安心感が湧いてくる。あのとき彼女が言っていた「たたき台でもイヤ」という言葉が、今なら少しだけわかる気がした。
AIに任せれば、案は無限に出てくる。
でも、彼女は“案”ではなく“魂”を描こうとしているのだ。
「……よし、やってやろう」
俺は深呼吸して、新しいスケッチブックを開いた。
テーマは“都市と自然”。
だが、それだけじゃ弱い。ブランドが求めているのは、「未来を感じさせる希望」だ。
人工の街と、生命の森。
一見、相反するふたつが重なり合ったとき、人はどんな感情を抱くだろう。
描きながら、何度も紙を破っては描き直す。
線が思うように乗らない。構図が決まらない。アイデアが迷走する。
そのたびに、頭のどこかで“AIなら一瞬だ”という声がよぎる。…だが、描く手は止めなかった。
夜が深まっても、明石も伊川も帰ろうとしなかった。
言葉は少ないが、同じ空間で同じ目的に向かって手を動かし続ける時間は、少しずつ空気を変えていった。
「……ここ、もう少し余白あったほうがいいんじゃない?」
深夜1時。初めて、明石が俺のスケッチを覗き込み、口を開いた。
「うん、たしかに。ビルの密度が高すぎるか」
「あと、木の根の伸び方が“人の手”っぽくていい。機械じゃこういう歪みは出せないと思う」
「本当か?」
「うん。こういうズレがあると、見てる人は安心するんだよ。作られた絵じゃないって」
短いやり取りだったが、その瞬間、わずかに凍っていた空気が溶けていくのを感じた。
あの日からずっと心の奥に刺さっていた棘が、少しだけ抜けた気がした。
やがて夜明け前、ひとつの構図が完成した。
高層ビルの群れの中に、一本の巨大な樹が根を張り、枝葉を伸ばしている。
その枝の先には、まだ小さな芽がいくつも息づいていた。
「……いいじゃん」
明石が、珍しく素直な声でつぶやいた。
「まだ粗いけど、方向性としてはアリだと思うよ」
「ありがとな。みなみさんが言ってくれたこと、やっと意味がわかった気がする」
彼女は一瞬、驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「だったら、ここから本番だね。手で描くって、地獄みたいに大変だから」
「わかってるよ。だからこそ、やる価値がある」
夜明けの光が差し込むころ、俺たちはようやくスタートラインに立った。
AIには真似できない“手の仕事”で勝負するための、一枚が生まれたのだ。




