既婚者の苦悩
「でもなぁ――」
健太はグラスをゆっくりと回しながら、ぽつりとつぶやいた。さっきまでの明るい笑顔は少しだけ影を帯び、言葉の奥に、家族という現実の重さがにじんでいる。
「結婚して、子どもが生まれて……確かに幸せだよ。嘘じゃない。家に帰れば、子供の笑顔がある。あれは、本当に何にも代えられない宝物だと思う」
そこまで言って、健太は深く息を吐いた。
「でもな、その幸せってやつは、想像してたよりずっと重いんだ」
静かにグラスを置くと、健太はゆっくりと語り始めた。
「朝は子どもが起きる前に家を出て、夜は寝顔を見て終わる。休日は遊び相手で終わって、自分の時間なんてほとんどない。友達と飲みに行くなんて半年に一回あればいいほうだし、趣味? ……そんなもん、とうに捨てたよ」
それは弱音というより、事実の羅列だった。
「妻とはもちろん仲は悪くない。でも、価値観ってやつは本当に難しいな。金の使い方も、子どもの教育方針も、ちょっとした家事の分担も、話し合いを重ねなきゃすぐにぶつかる。恋人のときは気づかなかった生活のズレが、結婚すると毎日のように目の前に現れるんだ」
健太は少し笑って、頭をかいた。
「お小遣いだって、正直きつい。給料が上がっても、子どもの保険や貯金で消えていく。昼メシは毎日コンビニのパンかおにぎり、職場の自販機で買うコーヒーすら贅沢だと思うこともある」
その表情は冗談めかしていたが、冗談にはならない現実の重みがあった。
「家族を持つってさ、自分じゃない誰かのために生きるってことなんだよ。……それは、めちゃくちゃ尊いことだってわかってる。でもな、時々ふと思うんだ。俺の人生って、いつから“俺のため”じゃなくなったんだろうって」
その言葉には、既婚者であるがゆえの複雑な本音が詰まっていた。
彼が勝ち組に見えていたのは、外側だけの話だったのかもしれない。
「……とはいえ、後悔はしてないけどな」
健太はそう言って、少しだけ柔らかく笑った。
「ただ、自由に夢を追ってるお前らを見るとさ、やっぱり羨ましいんだよ」
その本音を聞いて、誰もすぐに言葉を返せなかった。結婚も、家族も、夢も、人生の形はみんな違う。
だけど、そのどれもが、決して楽ではないことだけは、みんなの胸に響いていた。
気がつけば、時計の針はすでに二三時を回っていた。
「……よし、そろそろ出るか」
将大が立ち上がり、店員に会計を頼むと、空いたジョッキがずらりと並ぶテーブルを見渡して笑った。
「いや〜、久々に語ったな。なんか学生の頃に戻った気分だ」
「ほんとにな」
俺も頷く。話した内容は昔とは比べ物にならないほど濃く、重く、そして本音ばかりだった。
だが、店を出ようとしたところで、健太が少し困ったような顔をした。
「悪い。俺、ここで帰るわ」
「え? もう一軒行こうぜ。たまにはいいじゃん」
打保が声をかけるが、健太は苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「ダメだ。嫁、怒るんだよ。終電までには帰ってきてって言われてんの」
「相変わらずだな〜、尻に敷かれてるじゃねぇか」
将大が茶化すと、健太は頭をかきながら「しゃーない」と笑った。
「でも、今日来てよかったよ。お前らと会うと、頑張ろうって気持ちになる。……じゃあな。また次、ちゃんと時間作って飲もう」
そう言って、健太は駅の方へと歩き出す。背中がどこか小さく見えるのは、彼が背負っている“家族”という現実の重さのせいだろうか。
「……健太も頑張ってんだな」
俺がぽつりとつぶやくと、将大と打保も静かに頷いた。
「よし、今日はこのへんで解散にしよう」
「そうだな、もう昔みたいに朝までとか無理だわ」
「また集まろうぜ。次は昼間からでもいいしな」
三人はそれぞれ違う方向へと歩き出す。夜風が火照った体を冷ましていく中で、心の奥にはそれぞれが抱える現実と、また前へ進むための小さな力が、静かに灯っていた。
店を出ると、年末の夜風が頬を刺した。終電も近い時間、通りを歩く人の数もまばらになっている。
「じゃあな。また集まろうぜ」
「おう、次はもっとゆっくり飲もう」
「昼間からでもいいしな!」
最後にがっちりと手を合わせ、それぞれが違う方向へと歩き出す。
健太は家族の待つ家へ、将大と打保はそれぞれの部屋へ。俺もまた、実家の方へと足を向けた。今日は飲んでから泊まりに行くということは、あらかじめ伝えてある。
夜の景色は、街の灯りが滲んでいてどこか柔らかい。学生時代には、遊び疲れて帰るだけの道だった。けれど今は、心の底から「帰る場所」があるという安心感が胸の奥を温めていた。
冷たい空気の中にほんのりとした懐かしい匂いが混じっている。夜の住宅街を歩くと、やがて見慣れた家の明かりが見えてきた。
「ただいまー……」
玄関の扉を開けると、廊下に漂う出汁の香りと、居間から聞こえるテレビの音が出迎えてくれる。
「おかえり、快晴」
母の声が台所から聞こえた。もう寝ているかと思ったが、まだ起きていたらしい。
「飲み会はどうだった?」
「楽しかったよ。久しぶりに、みんなで本音で話せた」
母はそれを聞いて、安心したように微笑んだ。
「それはよかったわね。もう遅いんだから、今日は泊まっていきなさい。部屋、ちゃんと片付けてあるから」
「うん、そうするよ」
二階の自分の部屋は、学生の頃とほとんど変わっていなかった。
机の角に刻まれた傷も、壁に貼ったままのポスターも、全部が昔のままだ。ベッドに体を沈めると、今日一日の疲れが一気に押し寄せてくる。
それぞれの道を歩き始めた俺たち。けれど、こうして年の瀬に顔を合わせれば、あの頃と変わらず笑い合えるんだ。
天井をぼんやりと見つめながら、そんなことを思う。
そして、いつの間にかまぶたは重くなり、気づけば静かな眠りに落ちていた。




