旅立ち
朝の空気はまだ冷たく、田舎町の駅前は薄暗かった。
俺は小さなカバンを肩に掛け、ホームに立つ。握った切符の紙は手のひらにしっとりと吸い付く。
隣には健太。いつも通り、だらしなく足をぶらぶら揺らして座っている。
「おまえ、ほんとに行くんだな」
言葉の端に笑いを含ませながらも、声は少し震えていた。
「行くよ。ここにいたら、変われない気がする」
俺は答えた。胸の奥がざわついて、息を飲む。
健太は小さくうなずくと、ぬるい缶コーヒーを差し出した。
「朝メシ代わりに飲め」
町は何もない。商店街はシャッターが閉まり、港の向こうの海は灰色に沈んでいる。
でも、だからこそここには居場所があった。
学校帰りに河川敷で語り合った夢も、夜の山道で見た星も、全部が胸に刻まれている。
俺は都会に出る自分を想像する。
広い世界、知らない人々、誰も助けてくれない街。
怖い。けど、この町にいたままでは、未来はない。
手のひらの切符が、決意を押し付けるように温かくなる。
「向こうに行ったら、すぐ彼女できんじゃね?」
健太は冗談を言う。
俺は小さく笑って返す。
「うるせぇよ、お前じゃあるまいし」
でも、その声が少し震えているのは、互いに気づいている。
電車のベルが鳴り、白い息が消える。
寒さを越えて、日差しが山の端から漏れた。
健太の目が光を受けてきらりと揺れる。
「いつでも帰ってこいよ」
背中を軽く叩かれた。俺は振り返らず、ゆっくりと一歩を踏み出す。
踏み出したその足が、俺の未来を描くキャンバスの最初の一筆だった。
どこに線を伸ばすかは、まだ誰も知らない。
電車がゆっくりと駅を離れる。窓の外を流れる田園風景は、冷たい朝の空気を映している。俺は、手のひらに握った切符を眺めながら、ふと目を閉じた。
ーーーー
小学生の頃のことだ。
学校の帰り道、いつも健太、将大、打保と一緒にいた。四人で河川敷を駆け回り、木の枝を剣に見立てて戦ったり、泥だらけになって野球をしたりした。健太は相変わらずチャラくて、道端に落ちている小石で他人を笑わせようとした。将大は喧嘩が強く、町の誰もが一目置く存在だった。口ではふざけながらも、四人の間では自然とリーダー的な立場を占めていた。打保はゲームの達人で、放課後には誰も勝てないボードゲームやカードゲームを持ち出し、俺らを手玉に取った。打保だけ苗字呼びなのは、いま思えば不思議だ。珍しい苗字に対して、名前は太郎と普通すぎたからだろうか…
その頃の俺は、ただ一緒にいるだけで楽しかった。声を張り上げて笑い合い、喧嘩してもすぐに仲直りした。あの頃の時間は、無邪気で、軽くて、でも確かに胸に重く残っている。
中学に上がると、少しずつ世界が広がった。
健太は相変わらず自由奔放で、女子にも人気があった。俺は、いつも彼の後ろで笑っているだけだった。|咲衣がクラスに転校してきたのはその頃だ。笑顔が柔らかく、誰にでも優しい。俺はすぐに心を奪われた。彼女を見かけるたびに胸が痛くなり、どうしても声をかける勇気が出なかった。
健太はあっけらかんと笑いながら、ある日咲衣に声をかけ、気づけば二人は付き合い始めた。
胸が、ぎゅっと締め付けられたのを覚えている。
俺は何も言えず、ただ四人で遊ぶ日々の中で、自分の感情を押し込めた。
河川敷で自転車を走らせながら、打保が勝利の歓声をあげ、将大が喧嘩の話で盛り上がり、健太と咲衣が笑い合う光景を、少し離れて見つめるしかなかった。
高校生になると、四人の関係も少しずつ変化していった。
将大は相変わらず強く、たまに俺らに喧嘩自慢を披露しては笑わせた。打保はゲームだけでなく、勉強も得意になり、学校で少し距離を置くこともあった。健太と咲衣の関係は安定していたが、俺の中の焦燥感は増すばかりだった。
それでも俺らは変わらず、放課後の時間を共有した。
河川敷で自転車を並べ、夕陽を浴びながら無意味な話で笑う時間。
山道で星を数えながら、互いの夢を語り合った夜。
誰かがけんかを吹っ掛けても、笑いながら解決してしまう日々。
その記憶のひとつひとつが、胸の奥で温かく、でも少し痛く響く。
咲衣に何も告げられなかった自分。
それでも、彼女を見守るしかなかった俺。
ーーーー
電車がトンネルを抜ける。
車内の光が流れ、窓の外は都会のビル群が少しずつ見えてくる。
俺は手の中の切符を強く握り直した。
あの時の自分は、ここにはいない。
でも、あの四人で過ごした日々が、今の俺を支えていることは確かだ。
小さな駅前での別れ、背中を押してくれた健太の言葉。あの笑顔も、あの星空も、あのほろ苦い初恋も…
すべてが、今の旅立ちの一歩に繋がっている。
俺は窓に顔を寄せ、流れる景色をぼんやりと見つめた。胸の奥で、ずっと消えなかった思いが、少しだけ静かに微笑んでいるような気がした。
電車は速度を上げ、街の景色が迫る。
低いビルの合間に人影がちらつき、車や自転車の音が混ざる雑踏の匂いが漂ってくる。田舎町の静けさとは違う、このざわめき。俺は胸の奥が小さくざわつくのを感じた。
「大丈夫か、俺…」
小さく呟く声は、自分に向けられた問いだった。
あの頃の四人の笑い声や、ほろ苦い初恋の痛みが、まるで背中を押してくれるかのように思い出される。あの記憶があるから、怖くても踏み出せるのだと、胸の奥で静かに自覚する。
初めて一人で都会に降り立つ。
駅の改札を抜けた瞬間、知らない人々が行き交う人混みに飲み込まれる。誰も知っている顔はなく、助けてくれる人もいない。
でも、それでいい。ここに残っていたら、あの町にいた自分のままで終わってしまう。
都会での生活は、楽しみだけじゃない。
すべて自分次第。失敗もあるだろうし、孤独に押しつぶされそうになることもあるだろう。
けれど、あの河川敷で笑った日々や、夜空に星を数えた夜、そして健太や将大、打保と分かち合った時間がある。
それが俺を支える、確かな力になる。
電車が都会の駅に滑り込む。
窓の外、ガラスに映る自分の顔を見つめる。まだ少し幼さの残る顔だが、瞳には決意の光が宿っている。
心の中で、かすかな微笑みを浮かべた。
「行くしかない…」
俺は立ち上がり、肩のカバンを整えた。
駅のホームに降り立つ一歩が、もう一度、新しいキャンバスに線を描く瞬間だ。
どこに線を伸ばすか、どんな色で塗り重ねるかは、まだ誰も知らない。
ただ、あの町の笑い声や星空の思い出が、確かにこの先を照らしてくれる。
そう信じながら、俺は大きく息を吸い込んだ。




