美しい金髪の少女と黒い鎧の野良犬
「噂には聞いていたが……。あのエロジジイ……」
リューズが国王の好色ぶりに独り言を溢したとき、馬車が目的地に停まった。小さな服屋の前。
「着きました」
そう告げた御者に返事をする事もなく、リューズは馬車から降りる。兜は城に置いてきた為、暗黒を思わせる真っ黒い長髪が揺れた。
髪と同様に全身を覆う真っ黒い鎧が「ガシャリ」と音を立てる。歩を進める度に石畳の歩道から硬い音が響く。
リューズは扉を開け、服屋に入った。リューズの姿を見た瞬間、女が慌てて深々と頭を下げる。
そんな女にリューズはため息を吐く。今回の目的の母親らしき女に。
「この度は……、私どもの娘が……、大変名誉に……思って……」
母親がリューズに「礼らしきもの」を告げる。その言葉が本心ではない事をリューズは見抜いていた。顔が見えない為、表情は分からないが声色には苦しみと憎しみが滲み出ている。
「御託はいい。オレは代理だ。この店の主は?」
「お……、夫は戦死しました」
「そうか」
大した感慨を抱く事もなく、リューズは店の奥へ目をやった。
(——まだ餓鬼じゃねえか)
美しい少女が怯えた碧い目でこちらを見ている。棒立ちの身体は小さく震え続け、腰まで伸びた絹の様な金色の髪も小刻みに揺れている。
少女の真横には、洋裁道具が整然と並ぶテーブルが据えられていた。
(あのエロジジイ)
リューズに馬車の中で浮かべた言葉が再来した。
次に、オルフェンという男に対して不快感と怒りが浮かんだ。普段、この仕事はオルフェンがやっていた。昨夜、流行り病を発症したオルフェンは今も熱に浮かされているらしい。
戦争孤児だったリューズが身に付けている、剣技に代表されるあらゆる意味での「強さ」。それは全て生き残る為に必要なものだった。何も望んで身につけた訳ではない。自分の正確な年齢さえ分からない。「多分二十歳くらい」としか分からない。
気付けば傭兵になっていた。恩も義理も感じない人間たちから金を受け取り、怨みも怒りも感じない人間たちを殺していた。
(しまいには、こんな胸糞悪い仕事の代理をしてやがる)
腕っぷしを買われ、破格の契約でこの国での長期間の専属となったリューズだったが、こんなおつかいまでさせられるとは思っていなかった。
自分が迎えに行き、国王へ送り届けたらこの少女がどうなるか、リューズに分からない訳はない。
「もし……、もし私が…………」
少女の口から小さな声が漏れた。やはり身体同様、小刻みに震えている。少女とリューズの立ち位置はまだ離れているが、リューズはハッキリと聞き取れた。
「『行きたくない』と言ったらどうなりますか?」
「ミラ!? 何を言うの!?」
リューズより先に母親が反応した。顔を上げ少女に——、ミラに怒鳴った。
その母親に顔を向け、リューズは睨む。一瞬で母親の顔は蒼白になり、再び下を向いた。母親から、洟をすする音が聞こえた。
その光景にリューズは何か虚しいものを感じる。
こいつは思い込んでいるのか? 「拒否したら娘は殺される」と。
こいつは諦めているのか? 「娘を手放すのは仕方ない」と。
リューズは、ミラの目を真っ直ぐ見ながら答える。
「悪りいが『行きたくない』と言われてもオレは無理矢理連れて行く。このくだらないおつかいにも金をもらってるからな」
その言葉に、ミラが大きな瞳を更に見開く。
「わかりました」
ミラはその言葉を言い終わる前に、テーブル上の大きな裁ちバサミを素早く手に取った。目を閉じ、一気に鋭い切っ先を両手で自分の首に突き刺そうとした。
しかし、ミラの白い首にハサミの切っ先が触れる事はなかった。切っ先は首の直前で止まり、全く動かない。
ミラがゆっくりと目を開けると、真正面にリューズが立っている。ハサミの先端部を右手の親指、人差し指で摘んでいる。たった二本の指でミラの両腕の力を制していた。
その常人には信じられない速度と力にミラは諦めたのか、ハサミから手がくたりと滑り落ちる。
(――んっ!?)
リューズは気付く。そのミラの右手に再び力が込められた事に。手のひらを開き、自分の左頬に向かってくる事に。
パシッ!
リューズは簡単に躱せる少女の平手打ちをあえて受けた。予想よりも少し痛い。
背後でミラの母親の短い悲鳴が聞こえた。いよいよ娘が殺されると思ったのだろう。
(――殺す訳ねえだろ。見くびるな)
そんな事を思いながらリューズはミラに問う。
「お前……、死ぬほど嫌なら昨日でも一昨日でも死ねただろう? 何故、今なんだ?」
ミラは答える。リューズの気怠そうな目をまっすぐ見ながら。
「わかりません。死ぬほど嫌ですが、死ぬのは怖いです。まだやりたい事もあります」
(こいつはまだ諦めていない)
ミラの目に、ミラの声にリューズはそう感じた。
それは「生きる」事を諦めていないのか。
それは「死ぬ」事を諦めていないのか。
どちらなのか、リューズには分からない。
無数の兵士たちの死体が転がる戦場に忍び込み、食糧や金になりそうな物を死体から盗んでいる子供――、幼い頃の自分がリューズの脳内に浮かぶ。
「生きる」にも「死ぬ」にも興味がなかった。ただ腹が減っていた。善悪の判断以前に、善悪の基準さえなかった。
いや、それは今のオレも同じか。
こんな餓鬼を――――。
「お前、つまらない男だな」
子供の頃の自分の声が聞こえた。
「お前みたいなつまらない男になる為に、オレは必死に生き延びたのか?」
――ああ、つまらない男だな。
この国に飼われはじめた頃から、頭の片隅に積もり続けていた不満はたった一言で伝えられた。
リューズからリューズへ。
リューズはミラに気づかれないように、ため息を一つ吐いた。
「オレは傭兵だ。愛国心などない。全ては支払われる対価で決める。分かるか?」
「……はい」
リューズは首を回し、ミラの母親を見た。母親は真っ直ぐ立ち、事のなりゆきを黙って見ている。
もはや「黙って見ている」しか出来ないのだろう。
そんな母親にリューズは目で告げる。
そのまま黙っていろ。口出しするな。
リューズは、再びミラへ視線を戻した。
「行きたくないなら、オレを今日一日買え。どうにかしてやる」
「で……、でも……」
ミラの碧い瞳から涙が一滴伝う。
「そんなお金……」
リューズはニヤリと笑う。意図的に。
「その綺麗な右目でいい」
リューズは手にある裁ちバサミの切っ先を、ミラの右目に向けた。
「えっ……!?」
「どうする? オレはどっちでもいい。お前が決めろ」
「ちょっと待ってください!」
背後から、ミラの母親の鋭い声が聞こえた。リューズは振り返る。
「私の目で許して下さい! 両目とも……。いえ! 命を失っても構いません!」
そんな母親をリューズは冷めた目で見ている。
「無理な相談だ。お前の目にも、命にもオレを一日買う価値なんかねえよ」
リューズに切り捨てられ、母親は押し黙った。
「私の……、私の右目にはその価値があるんですね?」
ミラの声にリューズは身を戻す。ミラと向き合う。
「ああ、あるな」
そのリューズの言葉にミラは即答する。
「分かりました。払います」
「そうか。動くなよ。瞬きもするな」
リューズは裁ちバサミをミラの顔へ近づける。
ミラの身体がカタカタと震えはじめる。
恐怖の為か呼吸も荒くなる。
ミラは我慢していたが、つい一回だけ瞬きをしてしまった。
その瞬間――、
ジャキッ!
ミラが目を開いたとき、リューズは背を向けていた。その右手に裁ちバサミ、そして左手には美しい金色の髪の束が握られている。
「え…………」
ミラの右肩から腰にかけての髪が無くなっていた。
「お前らの覚悟は分かった。代金はこれでいい。怖がらせて悪かったな。多分、オレはキッカケが欲しかっただけだ」
それ以上は何も言わず、リューズは店を出ようとした。
入り口前で右手に裁ちバサミがある事に気付く。
「これ、戻しといてくれ」
腰を抜かしたのか、床にへたり込んでいるミラの母親へハサミを差し出す。
「……持って行って下さい。そのハサミは夫が大切にしていたものです。連れて行って下さい」
リューズは無言で、腰にある短刀用の鞘へハサミを納めた。リューズは長剣での戦いを好む。短刀用の鞘は、空である事が多かった。
何故か「こんな物、いらねえよ」の一言が言えなかった。
リューズは店を後にした。
――――
「出せ」
馬車に乗り込んだリューズは御者へ声を掛けた。
「し、しかし……、リューズ様……」
「なんだ?」
リューズはミラの髪の束を麻袋に入れながら応えた。
「その……、いいんですかい?」
「オレは『出せ』と言ったはずだが?」
御者は背後から凄まじい殺気を感じて、身を震え上がらせた。
馬車は走り出した。
(カッコつけて、大見得切ったのはいいが――)
リューズは窓から、今向かっている城を見た。
(おっかねえのが一人いるんだよなあ)
――――
城へ戻ったリューズは、その足で玉座の間へ向かった。王直属の侍女であるハンナがリューズの後を静々と付いてくる。
リューズは振り返り、ハンナに声を掛ける。
「なあ、ハンナ。何度も玉座には行ってるから、迷子にはならねえよ」
「リューズ様、これも私の仕事ですから」
そこで初めてリューズは気付いた。ハンナが、侍女の制服の一部とも言える頭のリボンをしていない。黒のロングドレス、白のエプロンや手袋などは普段通り身に付けている。
「ハンナ? リボンはどうした?」
肩口まで伸びた金色の髪が揺れていた。先ほど切り落としたミラの髪に負けず劣らずの美しい髪。
合理性を重視するリューズにとっては装備する意味があるのかないのかさえ分からない小さな白いリボン。それがない為か、リューズはその髪の美しさを今更知った。
「はい、今日は要らないかと」
ハンナが珍しく笑顔を見せたとき、玉座の間への扉前に二人は到着した。
――――
リューズは扉を開け、中へ入る。そこは床も壁も天井も真っ白な縦長の空間。今、リューズが立っている入り口から最奥の玉座まで細長い深紅の絨毯が一直線に伸びている。
その玉座に座る小さな老人が、不思議そうな視線をリューズに向けている。
この国の王――、ラファエ。
リューズはその視線を受けとめながら、周囲を確認した。
左右の壁には、近衛兵が八人ずつ等間隔で立っている。
リューズは柔らかい絨毯の上をラファエに向かい進む。
ラファエの顔に深く刻まれた皺がはっきり見える距離まで近付いたとき、ラファエが口を開いた。
「リューズよ。儂が言った事は分かっているよな?」
「ええ、それは勿論分かっております」
そう答えると、リューズは手元の麻袋をラファエへ放り投げた。この行為だけでも処刑は免れない暴挙。近衛兵たちが剣を抜いた。
ラファエが膝の上に落下した麻袋を開く。中には美しい金色の髪の毛が一束見える。
「リューズ、これは何のつもりだ?」
「御指示通り、『服屋の金色の髪』とやらを連れてきました」
ラファエの右眉がピクリと上がる。
「なんだ、リューズ? 儂をからかっているのか?」
「いえ、ちょっとお叱りを受けまして」
「お叱り……?」
リューズは剣を抜いた。近衛兵たちに緊張が走る。玉座の間に濃厚な殺気が満ちる。
「ええ、餓鬼二人に『お前、つまらない男だな』と。一人からは平手打ちを食らいました」
リューズはラファエを睨む。睨んだまま、近衛兵たちに問いかける。
「お前ら、剣を構えているが……、たった十六人でオレに勝てるつもりか?」
精鋭揃いの近衛兵たちだが、彼らはたじろいだ。
精鋭揃いの近衛兵たちだからこそ、彼らはたじろいだ。
彼らは相手の実力を見抜く能力も長けている。
「自分たちでは相手にならない」と分かっている。
リューズは絨毯をズカズカと進み、玉座に座るラファエの目の前に立った。
「このままこの国から失せてもよかったんだが、胸糞悪い風習を見て見ぬふりするのも『つまらない男』と叱られそうなんでね」
「リューズ、口の利き方に気をつけろ」
「うるせえよ。エロジジイ」
リューズはわざとゆっくり周囲を見渡した。
「こいつら、あんたを護るつもりなさそうだぜ? 日頃の行いってのも少しは関係してるんじゃないのか?」
ラファエも近衛兵たちへ視線をゆっくり周す。
近衛兵たちは下を向いた。
「お前ら……」
小さな老人の身体から強烈な怒りをリューズは感じ取る。
「なあ?」
リューズはあえて軽い口調で、近衛兵たちを睨むラファエに声を掛けた。
「なあ、そろそろとっておきの出番じゃないのか?」
その言葉に、ラファエは顔をリューズへ向けた。
「そうだな……。出番か。しかしな、リューズ」
ラファエは醜く嗤った。
「もう既に出てきてるようだぞ?」
「ぐっ…………」
そのうめき声によって、リューズは周囲の異変にようやく気付いた。
十六人の近衛兵が全員床に這いつくばっている。白い床に赤い血が流れている。
ラファエと向き合っているリューズは背後に人の気配を感じている。
(まだ、アイツの間合いには入ってねえ。離れている。大丈夫だ)
そう思いつつもリューズの顔に冷や汗が一筋流れた。
静かにリューズは振り返る。
恐怖に顔が歪むのを必死に抑える。
(――やっぱりおっかねえ。死ぬほどおっかねえよ)
白いエプロンを近衛兵十六人の返り血で染め上げたハンナが立っている。
片手には近衛兵の剣。
「驚かないんですか?」
ハンナがいつもの口調でリューズに問い掛けた。
「あ……、あんたみたいに死体と血の匂いが染み込んでいる侍女なんかいるかよ」
「そうかも知れないですね」
ハンナの整った唇が笑みを作る。
「なあ……、あんただってこのジジイが陰でなにやってるか知ってるんだろう? 何故許せるんだ?」
「ふはっ!」
ラファエの短い笑い声が背後から聞こえた。
「『知ってる』も何も、ハンナは儂のお気に入りの一人だ。何を言っている?」
「なっ……!?」
「今は事情があって、可愛がる事は出来ないがなあ」
リューズはラファエの笑い声と「事情」という言葉に怖気がした。
「まさか……」
リューズはハンナの顔、まだ平坦な腹を交互に見る。ハンナの笑みが消え、自分が想像した最悪の筋書きが事実だと確信した。
吐き気が込み上げてくる。
「な、なんで平気なんだよ?」
「さあ? 私は気付けばそういうものでしたから……。そろそろいいですか? 私の仕事はおしゃべりではありませんので」
一瞬、「ヒュンッ」と空気を切り裂く音が鳴った。
リューズは身を逸らす。顔の直前を、ハンナの剣が横一文字に掠めていったのを感じた。
リューズの左頬に一本の赤い線が走り、血が流れだす。
「よく躱しましたね」
「躱せてねえだろ」
(――なんて速さだ。信じられねえ)
リューズは、自分の認識の甘さを思い知らされた。たった一撃で。
当然ながら、今までリューズはハンナと剣を交えた事はない。そもそもハンナの戦闘態勢を見た事さえない。
「この女はおっかねえ」は完全にリューズの戦士としての直感だった。
(でも――、でもよお――――)
リューズは剣を身体の正面に構えなおしながら、立ち位置をずらす。真後ろにラファエがいるのが気に入らない。
(ここまでおっかねえとは思ってなかった)
リューズは、ハンナに向かい踏み込んだ。全身全霊をかけての一撃を放つ。右から左へハンナの首を狙って。
それは「殺す」為の一撃。リューズに手加減など出来るはずもない。
その一撃の速度にも力にも対応出来る人間など、この国にはいない。
一人を除いて。
リューズは見た。自分の剣がハンナの首へ触れるのを。
「はっ!?」
一瞬でハンナは身を下げ、リューズの剣は空を斬った。ハンナの頭上、ほんの僅かの位置を剣が通り抜けた。
普段通りリボンをハンナが付けていたら、リボンは上下真っ二つになっている位置を。
(こいつ、遊んでやがる。オレとの殺し合いで遊んでやがる……!)
リューズは通り抜けた剣を止め、再びハンナに叩き込もうとした。今度は左から右へ。
しかし、その剣はハンナの右頬直前でビタリと止まる。
ハンナが、白い手袋をした左手人差し指と親指でリューズの剣身を摘んでいる。先ほど自分がミラのハサミを摘んだ様をリューズは思い出す。
リューズがどれほど力を込めても全く動かない。
次の瞬間、リューズは剣を手放し壁際へ飛び退いた。思考よりも先に身体が反応していた。
ハンナが右手の剣を凄まじい速度で振るったから。ほんの少し反応が遅れていたら、リューズの上半身と下半身は分断されていた。
壁際に転がる近衛兵の死体からリューズは剣を拾い上げ、構えた。
「まだ続ける気か? リューズよ」
ラファエの渇いた笑い声と勝ち誇った言葉にリューズは苛立つ。
「うるせえよ……。お前、絶対ぶっ殺すからな……」
ドヒュッ!
ハンナがリューズの剣を投げつけた。リューズは身を下げ、迫る剣を躱す。白い壁にリューズの剣が突き刺さる。
「二刀流はあんたの専門外か?」
剣を一本投げ捨てたハンナへリューズは軽口を叩く。そうでもしていないと全身がみっともなく震えそうになっていた。
そんなリューズにとって、次のハンナの行動は完全に想定外だった。
(――嘘だろ!?)
ハンナが二本目の剣――、最初に近衛兵から奪った剣をリューズに放った。一本目よりあきらかに速い。リューズは横に跳んで避けようとしたが、一拍遅かった。
その剣はリューズの真っ黒い鎧の右肩を砕き、骨を砕き、壁に突き刺さった。
「ぐっ…………!」
あまりの痛みに、リューズは悲鳴を上げる事さえ出来ない。
壁際に片膝立ちの姿勢で固定されたリューズの前にハンナが立つ。
「普通、二本とも投げて素手になるか……? 殺し合いの最中にありえねえだろ……」
ハンナが腰を落とし、リューズの腹に拳を叩き込む。白い手袋の拳がリューズの鎧を粉々にし、腹に食い込んだ。肩を貫通している剣からも新たな激痛が走る。
「ガハッ!」
リューズが吐血し、ハンナの血染めのエプロンを更に染めた。
「リューズ様……、リューズ様を殺すのは素手で十分みたいですよ?」
ハンナは、リューズの頭上の壁に深々と刺さったリューズの剣をあっさり引き抜いた。
ラファエが歓声を上げ、ハンナに声を掛ける。
「よくやった。まあ、お前には遊び相手にもならなかったみたいだがな。さっさとその痴れ者の首を刎ねよ」
リューズの前に真っ直ぐ立ったハンナが剣を静かに振り被る。
ざっ、ざまあねえぜ……。手も足も出なかった。
この人形みたいな女に。
女…………?
出血により、意識が朦朧としだしたリューズの胸中に、ラファエから聞かされた醜悪な話が蘇る。
女…………?
妊娠…………?
母親…………?
ミラの母親をリューズは思い出す。
あの、娘の為になら命さえも投げ出す母親。
――チャキ。
リューズに小さな金属音が届いた。
自分の腰辺りから届いた。
(そうか。あんたらもオレについてきたんだったな)
リューズは、ほんの少しの希望を抱く。
口元から血の泡を垂らしながら、リューズはラファエに悪態を吐きはじめる。
「こっ……、このエロジジイが……」
「なんだ? まだそんな元気があったのか? リューズよ」
「ほざいてろよ。たまたまその立場に生まれただけの能無しがよ……」
その言葉にラファエが玉座から立ち上がった。
「ハンナ、待て」
ハンナの隣まで歩き、ハンナの手から剣を取る。ハンナは無言で数歩、後ろに退がった。
「リューズ……、喜べ」
「なんだよ?」
「王である儂、自ら殺してやるわ。この糞餓鬼が」
ラファエから強い怒りと殺意が漂っている。
(やはり自尊心の塊みたいな野郎だ。周りの人間など喰い物としか見ていねえ。自分が一番賢いと思ってやがる)
リューズは、ラファエに向かって呟く。
「そりゃあ、美しい餓鬼だった」
「……何だ、急に?」
ラファエがリューズの首元に刃を軽く当てた。それだけで血が滲む。
「あの服屋の娘さ。あんた、楽しみにしてたんじゃないか? 悪りい事したな」
「今更謝罪したところで、どうにもならんぞ」
ラファエが嗤った。リューズはその短い笑い声に虫唾が走る。
「誰が謝るかよ、エロジジイ。あんたは色に狂った老いぼれだ。ハンナの腹の中の餓鬼が女だったら、その餓鬼もあんたの楽しみの仲間入りか?」
「ああ勿論だ。お前には永遠に理解出来ない王としての嗜みよ」
(――こいつ、狂ってやがる)
吐き気を抑えながらリューズは返す。ラファエを煽る。
「ふざけるな。この人間の屑が……。お前程度の腕前ではオレの首は落とせねえぞ。下衆が……!」
少しずつ昂ぶっていくラファエの怒りが頂点に達したのを、リューズは感じた。口元が緩みそうになるのを抑える。
「調子に乗るな。この野良犬が! 拾ってもらった恩義も忘れおって……!」
ラファエが剣を振り被る。先ほど剣を振り被ったハンナと比べ、全く様になっていない。
そのとき――――
ドチュッ!
ラファエの右目に深々とハサミが突き刺さり、先端が後頭部から現れた。
リューズが投げつけた裁ちバサミ。
ミラの母親から渡された裁ちバサミ。
ミラの父親が愛用していた裁ちバサミ。
ラファエが途切れ途切れの言葉を続ける。
「ハッ……!? ハン……ナ? なん……のつも……りだ?」
「申し訳ありません。リューズ様が投げた物を叩き落としてお護りしようとしたのですが――」
その言葉と声にリューズが驚きと疑問を抱いたとき、ラファエの身体が左右真っ二つに分かれながら床に倒れた。赤黒い血が噴き出し、白い床を染める。
「少し手元が狂ったようです」
リューズは見た。血飛沫の向こう側で、ハンナが剣を床に投げ捨てるのを。
あの「おっかなさ」が完全に消えている。
ハンナはこの部屋の入り口へ向かい、ふらりと一歩踏みだした。その目に生気はない。
「待てっ! ハンナッ! おいっ、待てって!」
「……なんですか? リューズ様」
「怪我人を置いていくのか?」
ハンナは辺りを見回した。
「私には死人しか見えませんが」
「あのな……、お前が半殺しにした奴がここにいるだろう。頼む、この肩の剣を抜いてくれ。オレはその屑に刺さっているハサミを返さなくてはならない」
ハンナは小さくため息を吐き、リューズへ返事をする。
「かなり痛いですよ?」
「お前がやったんだろ」と言いたい気持ちをリューズは必死に抑えた。
代わりに告げる。
「ハンナ…………、オレと一緒にこの檻を出よう。これからの事なんて、どうせ何も考えてないんだろ?」
「リューズ様……、何故ですか?」
「さあな。そうしないとまた『つまらない男』とお叱りを受けそうな気がするだけだ」
――――
ミラは、買い物に出かけた母から頼まれていた生地の裁断をしている。暖かい優しい日差しが店内に差し込み、ミラの美しい金色の髪が輝いている。
あの日、肩口で切断された髪が肩を撫でる。
極悪人に切断された髪。
「傭兵の男が国王が暗殺し、侍女を誘拐した」
この事件により、この国はひっくり返ってしまった。ミラを含めた多くの国民にとっては、いい意味で。
「とっくに国外逃亡しているだろう」
「既に殺されているんじゃないか?」
世間は好き勝手に騒いでいる。
ミラはその噂話を全く信じていない。
ハサミの心地よい音がミラの手元から流れ続ける店内に、客が訪れた。
一人の男と一人の女。
女は妊婦だった。
美しい女。
幸せそうな女。
男がミラに笑いかける。差し出す手元には、ミラの父親が愛用していた裁ちバサミ。
ミラは震える手でハサミを受け取る。
「返すの遅くなって悪かったな。それとな、産着を一つ注文したいんだ」
「…………はい。おまかせください、リューズ様」
ミラは、胸の奥に小さな痛みを感じながら笑顔で応えた。
少女に自由と幸せを与えた男。
その男もまた、自由と幸せを得ていた。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます。
御感想、評価(☆)頂けるとすごく嬉しいです。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。