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1話

 大天使だいてんしミカエルだとかなんだとか、名だたる偉大いだいな天使様はいる。でも、それは偉大だから名前が残っているだけなのだ。

 天使なんてものは実はたくさんいて、大天使と呼ばれているのは結構昔の話。歴史をたどれば、過去の人間の方が偉大な人が多いのではと思ってしまうのと同じ。

 だからてきとうに寝て起きてをかえしていたら千年なんてあっという間に過ぎると思っていた。


「二九三番。早急に神殿しんでんへ顔を見せよ」


 天の声がひびいて、その他天使たちはまたアイツかとあきれた顔をする。同僚どうりょうの一人が二九三番の鼻提灯はなちょうちんを割ると、しぶい顔で神殿の方を指さした。


招集しょうしゅう。何やったの」

「何もやってない」

「何もやってない、をやったってわけか」


 二九三番はぼやけた視界に目をこすって大きく伸びをする。

 この時まではただいつものようにしかられるだけだと思っていたのだ。




「……へ?」

「もう一度言う。地上に降りて天使としてのり方を学び直して来なさい」


 これは堕天だてんの一歩手前の命令。地獄じごくくだれと言われないだけましだが、しぱしぱと瞬きをして現実を受け入れるのに時間を要していた。

 しかし神も無慈悲むじひ、というか、もうしびれを切らしたようだ。


「七つの大罪のうち三つも犯し続けている。これは重罪だ」

「たった三つだけで!? 天使生てんしせい初めてまだ三百年なんだから、なにも地上に下ろさなくても──」


 これが最後の言葉だった。

 二九三番は天使のいない地上で唯一の天使に。番号ではなく、そう人間を名前でなく『人間』と呼ぶように、『天使』と呼ばれる生活が始まるのだ。


「……っていや、地上の生き物に天使は見えないはずなんだけど!?」


 少なくとも地上よりも格上である天界に住む天使は、どうやって生きて行こう。前途多難ぜんとたなんである。

 天使は天界から突き落とされ、それが遺言ゆいごんごとくなった。


 天使三百歳、突然ピンチです。






 ざあざあと雨が降る。

 天使は今が夏でよかったと心から思った。

 何よりもこんなゲリラ豪雨ごううに降られるとは思っていなかったのだ。着の身着のまま白い布一枚。人間に見えなくてよかったと心底思う。

 こうぜんわいせつざい、だったか。そんな罪に問われて、天使界で生涯しょうがい笑われ者になるところだった。と、言ってもすでに空の上では笑われ者だろうが。


 シャッターの下りた軒先のきさきで天使はしゃがみ込んだまま小さなくしゃみをした。


「大丈夫ですか?」


 まさか声がかけられるとは思っていなかった。

 視界が少しだけ暗がり、天使は首をもたげてその足の持ち主を見上げる。


 ゆうに百九十は超えそうな長身。しかし一番おかしいところは全身が真っ黒で夏には似つかわしくなくきっちりスーツを着込んでいた。中折なかおぼうも、傘まで黒という徹底てっていぶりだ。


 天使はその容貌ようぼうに顔をしかめて手で追い払った。


悪魔あくまが何の用だよ。さっさとどっか行け」

「やっぱり天使だったんですね。私、初めて見ました」


 悪魔は悪魔らしくない丁寧ていねいな言葉で返しながら、帽子を取る。きっちりとオールバックにセットされている髪もまったく悪魔という感じがしなかった。


 なんなんだ、こいつ。


「天使って地上では見えないんですよね? というか、どうして降りてきているんですか?」

「それはぼくが堕天使だてんし予備軍だったから。……悪いかよ」

随分ずいぶん仕事をなまけてたんですね」


 悪魔の正論は天使の心を容赦ようしゃなくしていく。

 天使は苦虫にがむしつぶすような表情のまま食って掛かった。


「好きなだけ言えよ! 言いたいだけ言い終わったらさっさとねぐらに帰れ」

「じゃあ言い終わらなさそうなので、うちまで来てくれませんか?」

「な……何言ってんのお前」


 お人好ひとよしなのか、はたまたなにかたくらんでいるのか。

 天使はきゅっと身を縮込ちぢこめる。


「何もしませんよ。雨も強くなってきたし、あと十分は止まなさそうですよ?」

「十分しか、だろ」

「家に来たらお風呂がありますけど」

「風呂入んねえし」

「でも地上の雨は汚いですよ。ほこりとか含んでるって言いますし」


 ほら立って、と悪魔は天使の腕を引っ張る。

 天使は強い力と体格差で負けた。ぐっと体が持ち上がり、果ては悪魔の腕の中に納まる。聖母が赤子を抱きかかえるときのような姿勢だった。


「ばっ、馬鹿ばかにすんな。もう三百だぞ!」

「年上なんですね。私は先日で二百です」


 れた天使の体を軽々と抱きかかえる悪魔は、服のわりに濡れることを気にしていなさそうだった。

 じたばたと手足を動かすが、大きい身なりの悪魔は腕の中で猫が嫌がる程度でしかないのだろうか。微動びどうだにせず傘を持ち直す。


「ゆ、誘拐ゆうかいだ!」

「保護です」


 そんなわけで天使は心地いい寝床ねどこと、対話のできる相手を見つけたのだった。








 どさり、と玄関口にて、天使は顔面から落とされた。


「勝手にかついでおいてもっと丁寧ていねいにしろよ……」


 悪魔は天使のうらごとは聞こえていないふりをして部屋に上がっていく。

 まるで悪魔が住んでいるとは思えないあまりに清潔せいけつすぎる空間。天使は床に伏せたまま呆然ぼうぜんとして見上げる。白い壁に白い家具。黒に満ちた全身からは想像もつかないほど明るい部屋だ。

 廊下にバスタオルを敷くと悪魔は軽く手招きをした。


「廊下()れると困るのでバスタオルの上踏んでください」


 仕方なく誘導ゆうどうされるがままたどり着いたのは、これまた清潔な洗面所だ。天使は指さされた扉の先の意味が分からず首をかしげた。


「天界は大衆たいしゅう浴場よくじょうでしたっけ」


 悪魔にうながされるまま扉を開くとそこはコンパクトな浴室だった。


「おおー……って、風呂なんか入ったことないんだけど」

「天界では風呂は娯楽ごらくらしいですね。でも地上じゃそんなこと言ってられません。必須ひっすです」


 濡れた一枚布と一緒にぐいぐいと押し込められると、悪魔はたなに並んだポンプを指さした。


「右からシャンプー、コンディショナー、ボディーソープです。プッシュ回数に制限をつけるわけじゃないですが、使い過ぎないようにしてください」

「布は」

「布は水で一回流したら絞って、その辺りに放っておいてください。後で回収します」


 それでは、と悪魔が扉を閉めることによって、浴室と洗面所が断絶される。


 天使はくもり一つない鏡の中の自分と目を合わせてため息をついた。初めて見た自身は想像以上に幼くて、人間でいうところの十二歳程度に見える。もちろん、水面みなもに映った自分を見ることは少なくなかったが、はっきりと映し出されるとなんだか複雑な気分になった。

 悪魔が意地でも保護すると言ってきた心情が分かる。


 とにかく天使は手探てさぐりで蛇口じゃぐちをひねるとシャワーの水を出すことに成功した。


「つっめた!」


 ただ、出てくるそれが冷水だということには気づけなかった。




「あくまー? 出てきたけど……」


 布で水気はふき取って、よくわからない形状の服を何とか着込み、やっと洗面所を脱出した。

 天使の正装は裸に一枚の布と言っても過言ではないので、貫頭衣かんとうい以上の服を着たことがなかったのだ。これで合っているのかわからないが、ひとまず家主やぬしの姿を室内に探す。


「あ、服は着れたんですね。よかった」


 悪魔は奥の部屋から出てくると、天使の頭の先からつま先までをながめてうなずいた。


「ズボンのひもゆるいですか。すそまくりましょう」


 天使はズボンの腰に通された紐を掴んだままでいた。悪魔は天使から二本を受け取ると手際てぎわよく蝶々《ちょうちょう》結びにする。


「裾は自分でできますよね」

「それくらいできるわ!」


 蝶々結びができないのは機会がなかったからだ。捲るという単純作業くらいできる。悪魔の視線が痛いが、天使はなんとか転びそうになりながらも両足とも裾を踏まないようにすることができた。

 座ってもいいのに、という一言は言わないでくれるらしく、悪魔は黙ってキッチンの方に姿を消した。

 作業音がしばらく続いたのちに悪魔の声が天使を呼ぶ。


「天使って食べ物とか食べるんですか」

「食ったことないな。無理ではないだろうけど」


 天使にもちゃんと消化器官はある。


「地上にとされたのに暴飲暴食は働いてなかったんですか?」

「食べ物自体がないんだよ」


 悪魔は何か言いたげに視線を向けてくるが、天使がにらみ返すと一言「そうですか」としか言わなかった。もしや天使たちが知らないだけで食べ物はあったのかもしれない、と今更いまさら思う。


「一応誓約(せいやく)を聞いてもいいですか?」


 誓約、と聞いて天使は何のことか分からなかった。しかし少し考えて、落ちる直前神様が何か言っていたのを思い出す。


「……『七つの大罪を犯さず、真っ当に過ごすこと』」

「じゃあ、激しい飲み食いがダメってだけですね」


 悪魔がキッチンから持って来たのは。いい匂いのする何かが盛り付けられた皿がいくつかと、色のついている水が注がれたグラスを二つ分だった。片方は泡の立つ黄色い飲み物と、もう片方は淡い色の飲み物。


「なんだこれ」

「ビールとリンゴジュースです。子供にはこっち」

「三百だって言ってんだろ」


 リンゴジュースを渡されて天使はしぶしぶ受け取りながら口をつける。

 甘い。美味おいしい。

 その二文字が頭の中から離れなくなった。


「……今日堕天するかも」

「ジュースは一日一杯だけにしましょうね。それからこっちはチンジャオロースとチャーハンです」


 取り皿とはしを差し出されて、天使は知らずうちに両手を合わせる。


「いただきます」


 悪魔が何か変な顔をしたので箸を持つ手を止めると、悪魔はどうぞ食べてくださいとだけ言った。

 チンジャオロースと言われた緑と茶色はピーマンと牛肉らしい。チャーハンは米だと言った。米と卵とその他たくさん。渡されたレンゲで食を進めていると、悪魔が何も手をつけずに見つめてくるのに気が付く。


「ん、食わねえの?」

「……。いえ、よく食べるなぁと思って」


 悪魔は気を取り直すと両手を合わせていただきますと言った。

 よくよく聞けばチンジャオロースもチャーハンも中華料理の仲間らしい。日本にいるのに初めての食事が他国の料理だろうとは思っていなかった。




「いくつか決めておきましょう」


 悪魔が持って来たのは大きな白紙を何枚かと、黒の油性ペンだった。


「何を?」

「この家のルールです」

「別に住むなんて言って……」

「『衣食』、借りてるのにですか?」


 天使が閉口するのを確認した悪魔はペンのキャップを外して、紙を目の前に寄せる。


「じゃあ、まず。天使さんには働いてもらいます」

「人間には見えないのにどうやって……まさか、悪魔の巣窟そうくつに?」

「そんなわけないでしょう。ちゃんと人間がやってるファミリーレストランです。知り合いに融通ゆうづうの利く店長さんがいるので、手っ取り早く皿洗いの方法を学んでください」


 箇条かじょう書きの一番上の点に『働くこと』と書き加えられる。


「それから不用意に外出しないこと」


『一人で外に出ない』


「ぼく、やっぱり子供だと思われてるよな?」

「もちろん、誰かが訪問してきても応答しない。居留守いるす決め込んでください」


『チャイムに返事しない』


 天使のぼやきに応えられることはなく、もうすでに三つ目が書き加えられていた。


「あと家事手伝いは積極的にお願いします」

「わかった」

「あとは……暮らすうちに決めていきましょう」


 悪魔がペンのキャップを閉めるの見届けて、天使は口を開く。


「なんでこんな良くしてくれんの?」


 悪魔は「なんででしょう」とつぶやくとななめ上を見上げてあごに手を添えた。


 お人好しもお人好し、見ず知らずの天使に衣食住を分け与えて、こいつは本当に悪魔なのかと尋ねたくなる。

 天使は心を許しつつも勘ぐっていた。それも、天使は初めて悪魔という物に出会ったからだ。悪魔の獲物えものは人間だが、気まぐれに天使も標的にされては困る。


「悪魔としての義務、でしょうか」


 だからか、この回答は天使を困惑させるのに十分だった。


「ぎむ?」

「はい。そのようなものと思っていただければ」


 天使は『義務』という言葉の意味がよく分からなかった。

 しかし、悪魔はこれ以上答えたくないのか紙を持って立ち上がると、テレビの上のスペースにテープで貼り付けた。その手で奥の部屋を指さされて天使は首をかしげる。


「寝ましょうか」


 天使が素直に頷くと、なぜか悪魔はほっとした顔をしていた。







 ありがたいことにこの悪魔の図体ずうたいの大きさが役に立っていた。百九十が満足に収まるベッドは横幅も広いらしく、天使は不便なく眠ることができていた。しかし天使は夜が明ける、というものを始めて目の当たりにし、それによって夜明けで目が覚める体験をした。

 ぐるり、と体勢を変えてみると目の前に悪魔の顔がせまる。天使は悪魔の顔を見て、「こう見ると、どこにでもいそうな普通の悪魔だな」と思った。


 え切った目のまま寝ころんでいるのも苦痛だったので、ひとまずベッドから降りてみることにする。

 悪魔は夢見ゆめみでも悪くなったのか、先ほどと違って眉間みけんしわが寄っていた。天使がそっと眉間を撫でさすると、悪魔の表情も穏やかに戻る。


 そのとき、悪魔の眠りなど構わずチャイムが鳴り響いた。

 天使はおどろいてしのび足で部屋から出る。

 玄関扉の小さなのぞき穴から訪問者を確認すると、それはただ普通の女性だった。手に何か紙を持っていて首をかしげている。そのすぐ後ろには黒いローブをまとったこれまた大きな男性。


「し、死神……!」


 天使が思わず声に出すと、ドアの向こうの女性が去ろうとする足を止めた。


「あれ、居留守ですか? 大家ですー!」

「すいません、寝てました」


 天使が思わない後ろからの声に驚いて振り返ると、まばたきをり返している死神が立っていた。チャイムで起こされたのか、目覚めた直後で目が開ききっていない上に髪もぼさぼさだ。

 天使に下がるように言うと悪魔は扉を開ける。


「寝てたんですね、すいません。これ、上の階の工事の連絡です。しばらくうるさいかもしれないので」


 茶髪巻き髪の女性は持っている紙を悪魔に手渡すとにこやかに説明を始めた。


「わざわざ通達つうたつありがとうございます」

「いえいえ。ご迷惑おかけします」


 会話も終えて去るかと思ったが、女性は天使の方をのぞき込んで微笑ほほえんだ。


親戚しんせきの子ですか?」

「悪魔に親戚はいません」

「またまたご冗談を」


 天使は何が何だか訳が分からなかった。

 目の前の女性は人間で、人間から天使は見えないはず。悪魔という言葉を軽く受け流していて、そのうえ後ろに死神が張り付いている……!


 天使は悪魔の背中をつつくと小声でたずねた。


「あくま、悪魔。後ろの死神、教えてやらねえの?」


 しかし返答したのは悪魔ではなく女性の方。


「こんにちは。私、大家光おおやひかるといいます。後ろのこの死神はイトウ(110)さんといいます」

「ひかちゃんが勝手にそう呼んでるだけで俺は死神番号一一〇(イチイチマル)番だ」

「そしてこの死神は私のストーカーです」

「ただのストーカーじゃない。公認ストーカーだ、間違うな」


 天使はよく分からない茶番劇ちゃばんげきに付き合わされていると気づき、悪魔に助けを求めた。


「なにこれ?」

「大家さんは数年前、過労で死のふちを見ています。それで魂を狩りにやって来たのがこの死神一一〇番。この死神は大家さんに一目惚れして、それ以来ずっと付きまとっているストーカーなんです」

「今公認とか言ってたけど?」

「大家さんは今仕事がすごく楽しいらしいので、命を死神のストックから借りてるんです」


 それだけです、と何事もなさそうに悪魔が言うので、天使は頭を抱えた。

 逆に大家は天使のことを悪魔に尋ね返す。


「この子は親戚の子じゃないなら誰なんですか? もしかして誘拐ゆうかい?」

「保護です。……昨日シャッター街で拾った天使です」

「今どき、捨て天使なんてのがいるんですね!」


 大家は手を合わせて感動している。天然なのか、それは普通の反応としていかがだろう。捨てられていない方がいいに決まっているのだが。


「じゃあ、天使ちゃんなのね」

「『ちゃん』って言うな!」

「あら、女の子じゃなかったの? ごめんなさい」


 大家は悪魔の方を見上げると、悪魔はえてきた目を少し伏せてから口を開いた。


「天使に性別はありません」

「あら」

「なので『天使ちゃん』でも間違いではありません」

「間違いだ!」

「お好きなようにお呼びください」

「なんで、あんたが決めてんだよ!」

「私は、その気になればこの天使一匹くらいメスにできます」


 大家は口に手を当てて驚いた顔をしている。天使は「へ?」と間抜まぬけな声しか出なかった。


「天使の多くは性別を決めていないだけで、個人の意思で性別を作ることができます。もちろん、生殖器せいしょくきは作れませんが、見かけ程度であれば人間のマネできます」


 悪魔から見下ろされて天使は壁を背にちぢこまった。

 もしかしたらこれはちょっとした牽制けんせいなのかもしれない。そう思うときもも冷えた。

 やっぱり悪魔は悪魔だ。


「そ、そうなのね。……じゃあ、天使《《さん》》、またね。悪魔さんも、しばらくご迷惑おかけします」


 大家は苦笑いを浮かべると、階段をけ上がっていった。後ろの死神は何か言いたそうに口を開きかけたが、すぐに大家の後ろをついて行った。


 室内には再び天使と悪魔だけに戻る。


 天使がしばらく動けないでいると、悪魔は小さくため息をついて「冗談じょうだんですよ」と言った。


「え?」

「冗談です」

「……」

「ただ、性別を作れるのは本当です。もし、私が貴方を口説くどき落としたとして、貴方が見事恋に落ちれば、貴方自身がメスになろうとしてしまう可能性は上がります」

「《《こい》》」

「冗談だと言ったのは、私が貴方を口説き落とす、という行動についてです。当たり前ですが、私は子供に興味はないです」

「さ、三百だってば」


 天使の小さなあらがいは気を反らすためのものだった。

 悪魔は狭い玄関を去っていくと、リビングのソファに腰を下ろす。たわいもない話をした後のようにあくびを一つして、リモコンを手に取っていた。


「ただ、悪いやつもいることは確かです。気を付けてください」


 悪魔は朝の情報番組をつけると何も言わなくなった。


 天使は小さな声で「うん」とだけしか、返すことができなくなっていた。







「十四時から、ファミレスの面接に行きますよ」と、言われたのは正午、そうめんをすすっていた時だった。ついに日本食らしい食事をした、と感動していると、スマホをのぞき込む悪魔がそう告げたのだ。


「面接?」

「バイトとか、働くときは大抵たいてい面接をするんです。店長さんがその時間なら少し余裕がある、と」


 天使がちゅるちゅると慣れたように啜り上げて口いっぱいに咀嚼そしゃくする。


「ついに働くんだな」

「ついに働きますよ」

「ところで悪魔はどこで何の仕事してるわけ? 悪魔って地獄にいるんじゃねえの?」


 天使って天界にいるんじゃないのか、と言われることはなかった。

 悪魔は口の中のものを飲み込んでから口を開く。


「私は主に死神の監視です。不正なたましいのやりとりはないか、秩序を乱す死神はいないか、そういうものを取り締まっています。いわば死神専用警察官みたいなものですね」

「悪魔の仕事ってみんなそうなのか?」

「いえ。もちろん、地獄じごくで働く悪魔もいますよ。ちなみに地獄に悪魔しかいないわけでもありません」


 もったいぶったようにはしの中のそうめんを悪魔は啜る。あまりに一般に馴染なじみすぎている。

 これ以上(しゃべ)る気もなさそうな悪魔は放っておいて、天使は腹ごしらえに専念することにした。




 赤い屋根の二階建て、という表現が正しいのかは知らないが、一階が駐車場、外付けの階段を上って入店する作りになっている。


「これがファミレス……」

「入りますよ」


 客の入り口と同じところから店に入れば、店員が悪魔にけ寄って来た。


「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」

「店長をお呼びいただけますか? 約束があるので」


 もちろん、これは正しい反応だ。店員は天使に目もくれず業務的な反応をする。店長を呼べ、という言葉にはさすがに戸惑いを見せたが、少しすれば奥へと案内された。


「裏方って感じだな」


 悪魔は天使のつぶやきにすぐには答えなかったが、案内された個室でやっと返事を聞いた。


「もちろん、裏方には変わりありませんから。……店長」

「いやはや、久しぶりですね」


 別の扉からやって来た老齢の男性は、目じりにしわを刻んで頭を下げた。


「お久しぶりです。ご無沙汰ぶさたしております」

「は、はじめまして」


 悪魔のかげかくれて挨拶する天使にも、男性は目を向けた。どうやらこの辺りには、やけに見える人間が多い。ただ、年を重ねた人間に天使や死神が見えるようになる人というものは聞いたことがある。この人もそうなのかもしれない。


「どうしたんだい、その子は」

「昨日拾った天使です。良ければ、ここで皿洗いさせてやってくれませんか」

「小さいねえ」

「自称三百歳なので、悪いことはしないと思います。あと、天使なので一般の人間には見えません」


 自称じゃない、と天使は口を挟みたくなったが、ここで茶々を入れれば話は混乱するだろう。ぐっとだまる。

 悪魔は言い返してこなかった天使のことを見下ろすると、店長の男性に再び持ち掛けた。


「もちろん、他人に見えない以外は普通に扱ってもらって結構です」

「なるほどねぇ。きみ、お名前は」


 男性は悪魔の演説に頷くと、天使の方に顔を向けた。天使は軽く目を反らしながら服のすそを掴む。


「名前はない。二九三番って呼ばれてたし……こいつは天使って呼んでくるし」

「じゃあ天使さん。今日からよろしくね」


 男性は口角に皺を刻んで微笑むと、天使の両腕に何かを乗せた。これは店員のコスチュームだった。

 天使は腕に乗せられた一式を見ると、顔を上げる。


「早速今からちょっと練習、やってくれるかな」


 天使は奥のロッカールームに詰め込まれた。




 エプロンだけを苦戦した。ブラウスのボタンも多くて大変だったが、背中のリボンを蝶々《ちょうちょう》結びできないのは困った話だった。着替えを終えると、小さい身なりのせいで少しぶかぶかだったが、裏で皿を洗う分には問題ないだろうとスルーされた。

 悪魔に言われたようにその場でくるりと回ってみる。


「どうですか、着心地は」

「ん、んん。なんかそわそわする。布の当たってる面積が大きくてさ」

「次第に慣れますよ」


 男性は天使を厨房ちゅうぼうの方へ案内すると、皿洗いをする一人のスタッフを別の業務に回した。代わりに店長がそこに立って手本を見せる。


 そして練習を始め、三十分もすれば危なげはなくなっていた。

 天使は、自分がやればできる天使なのだと感心していた。今まで本当に怠惰たいだに過ごしていたのだ。少し反省する。


「うん、いい調子だね。何か困ったことがあったら言いなさい」


 店長は天使に声をかけると、悪魔と奥の部屋に入って行った。何の話をしているかは天使には関係ない話だ。


 代わりに入れ違うようにシフトに入って来たのは、ピンク色の髪をツインテールにした派手な見た目の女の子だった。おおよそ、十八歳くらいだろうか。とにかく黙ってスポンジを持つ手を動かし続けることにする。


「あっれえ、新しい子いるじゃん。いくつ?」


 店長以外のどの店員も天使に気づくことがなかったので、これはおどろいた。作業の手を止めて振り返る。


 彼女は何事も思っていなさそうに目をしばたかせてきょとんとした。


「どうしたの?」


「《《それ》》は天使ですよ」


 部屋から出てきた悪魔が一言、彼女に告げると、彼女の表情はみるみる明るさをひそめた。


「なんですって?」

「そこの皿洗いは天使です」


 彼女はしばらく何を考えたのか、表情の明るさを取り戻して天使に微笑ほほえみかけることにしたようだった。


「はじめまして。あたし、みくって名前でアイドルやってるの。仲良くしようね」


 天使がこくこくとうなずくと、みくは嬉しそうに頷きを同期する。


「それで、天使が地上に何の御用ごよう? 職場体験かなぁ?」

「……怠慢で、天界から降ろされたんだよ」

「へーえ。なんだ、地上を荒らしに来たわけじゃないのか。安心安心」


 空気が冷たくなったり、温かくなったり忙しい人だ。


 それはいつものことなのか、悪魔は平然としてみくのことを指さした。


「そしてこの人は地獄の執行官しっこうかんです」


 執行官、とは何だろう。少なくとも人間でないのは分かる。


「悪魔とは別?」

「はい。ひとことでいうと悪魔を統率する、悪魔の上位互換的存在です」

「えらいんだな」


「すごくえらいわよ」

「特にえらくないです」


 天使の一言に悪魔とみくが顔を見合わせると、同じタイミングでにこやかに答える。

 どうやら二人は仲が悪いらしい。


 みくはコスチュームのポケットをまさぐると二枚、紙きれのようなものを取り出した。


「これ、あげるわ」

「なにこれ」

「あたしのライブのチケット。もちろん来るわよね?」


 日時と場所が書き込まれていて、切り取り線で簡単に切れるつくりになっている。天使はれた手をタオルでくと受け取った。


「『くりてぃかるぷりん』?」

「相変わらずふざけた名前ですね」

「かわいいのよ」


 みくが悪魔を一睨ひとにらみするので、天使は控えめに頷く。


「それじゃ、あたしはホールの仕事をこなしてくるわ」


 天使が受け取ったチケットの行き場を失っていると、悪魔が横から引き抜いた。天使は声には上げないがうばわれたことに反応する。


「行きたいんですか?」

「い、行っちゃダメか? アイドルって、ステージの上できらきらおどってるやつだろ?」

「アイドル願望でもあったんですね」

「ちがう! で、でも一回くらい」


 悪魔は天使のお願いに眉を曲げた。


「仕事がんばるから!」


 悪魔は天使の必死さに根負こんまけけしたか──いや──しぶしぶ頷いた。チケットは丁寧に悪魔の着るスーツの内ポケットにしまわれる。


「ご褒美ほうびに、ですよ」


 天使が顔に花を咲かせると、悪魔はため息をついた。どうしてそこまで行かせたくないのか。よっぽど悪魔とみくとは仲が悪いのだと、天使は思った。







帰り際のスーパーマーケット。住む場所からは比較的近く、大型で便利そうな底に入店する。そして、悪魔がそこら辺のサラリーマンに混じってカートを押している時だった。


「なあ、悪魔。あれ、死神じゃね?」


魚売り場で軟体動物を吟味している死神は、黒いローブを翻して誰かに話しかける素振りをする。

大家光だ。


「大家さんだ」

「本当ですね」

「話しかけに行かねえの?」


悪魔はキャベツの半玉を手に取ると、「はい」と言った。知り合いなんだから挨拶くらいしに行けばいいのに。

しかし、悪魔もその行動にちゃんと理由があったらしい。


「今、大家さんは死神と仲良くお話してるでしょう」


確かに言われて見れば。死神がカートの中に勝手に何かを入れると、大家は嫌がるようなそぶりをしながらも笑っている。


「悪魔はああいうの、取り締まらねえんだな」


人間と死神が仲良くして、勝手な契約の上で生きている。細かい契約内容を知ることはできないが、少なくともいい行動とは言えないだろう。


「世の中に悪影響を与えていないので、取り締まり対象にはなりません」

「優しいじゃん」


悪魔は野菜売り場からわざわざ遠回りするように精肉売り場に向かう。天使が後ろからついて歩いていると、悪魔は一度死神に目を向けてから顔を反らす。


「大抵の悪魔は、死神をそうそう厳しく取り締まろうと思いませんよ」

「なんで? 悪さしそうじゃん」


天使が鎌を振りかぶるようなふりをすると、悪魔は首を横に振った。


「死神は、生前この世界で生きた人間だからです。だから、特定の人間に固執してしまうのは普通のことなんですよ」

「……死んだ人間は、死神になんの?」


天使が死神の方を見ようとすると、悪魔が後頭部を掴んだ。無理やりだったが、天使は怒ったりしなかった。

黙ってカートを押す悪魔の背中を見つめる。


「天寿を全うできなかった人間は、本来の天寿までの時間、魂を管理するなどして人間に貢献することで償うんです」

「あいつ、人間だったんだ」


死神は、今こそ死神としてやっているが、もし人間のまま大家に会っていれば、未来があったかもしれない。逆に、大家が過労で死神になっていたかもしれない。


悪魔は赤身の切り落としを手に取ると、会話を変えるがごとく口を開いた。


「今晩はすき焼きにしますか」

「すきやき?」

「半分鍋みたいなやつです」

「夏なのに?」

「夏だからいいんですよ」

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