感情場
2065年。
電脳化の技術が人類のIQを平均50押し上げ、世界はかつてない速度で進歩していた。量子医療、第一産業の完全自動化、宇宙採鉱。人類はかつての神話のような未来を次々と現実にしていた。
だが、紛争は終わらなかった。人種差別は形を変えて残り、気候変動は折れ線の先で横ばいに揺れていた。
それらを見つめる佐藤慧、33歳。東京の中枢ビル群に位置するメガ企業「Synapticon Japan」の研究者。電脳化技術の実装初期に一部重要な理論式を発見したことで雇われているが、自覚としては「凡人」だった。東大物理工学専攻の大学院生だった頃は、大志を持っていた。
「電脳技術で人類全体の知能が向上すれば、すべてが良くなる。」
だが、結果はどうだった?
たしかに職場の上司たちは天才ばかりだ。理解が早く、論理は鮮やかで、記憶は強靭。なのに議論はいつも破綻する。誰かの感情が口火を切り、誰かのプライドがそれを爆発させる。たとえ知能が高くとも、人間は感情で物事を正当化してしまう。
慧は毎日それを見ていた。見ていて、感情に振り回され巨視的な善を見失う愚かしさを歯痒く思った。しかし同時に、自分には肝心の論理的鋭さが足りないことも、誰よりも強く感じていた。
「重要な視点を自分は持っているのに、頭が足りない」という感情は、静かな地獄だった。
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ある日、慧は偶然に奇妙な現象を観測する。
電脳空間内で、似た感情を持つ者同士のデータが干渉し合い、共鳴していた。アルファ波に似た同期だが、もっと深い——脳の奥底に触れるような、陶酔を伴う波動。
慧は考えた。
これはもしかすると、「幸福感の共振装置」になるのではないか?
単なるテクノロジーではなく、人類の感情の根源的理解へつながる扉なのではないか?
彼は、Synapticon社内で「感情場相互作用を利用したトリップ型リラクゼーションサービス」の開発を提案する。
だが、案の定、冷遇された。
「感情は非論理的で測定不可能だ。」
「そんなことより、収束型機械意識の開発予算を優先してくれ。」
結局、慧は事実上、個人開発の形でプロジェクトを許可された。
ひとり、ローカルサーバーと仮想環境の中で、彼は研究を続けた。
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――そして、気づいてしまった。
感情は、場だ。
まるで物理学の場のように、時空を満たし、揺れ、重なり、干渉する。
ならば作れるかもしれない——感情レーザー。
媒質は自分自身。閉鎖された電脳空間からなるファブリ・ペロー共振器のなかで、自己の感情が幾度も励起され、増幅する。そして、閉鎖を解き、増幅された“純粋な感情場”をグローバルな電脳空間へと放出する。
それは他者と干渉し、他者の意識を感情の奔流に飲み込む。
これは、幸福感の増幅装置にもなりうる。
……だがその一方で、他者の意識を意図的に塗りつぶす兵器にもなる。
慧はわかっていた。
だが、もう止まらなかった。
「僕の気持ちを、誰かに理解してもらいたかった。」
それだけだった。
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2065年11月3日。
デモ実験の日。
慧は微笑みながら椅子に座り、自らの「感情共振回路」に接続した。
そして、始動コマンドを打ち込んだ。
感情レーザー:稼働。
波が走った。
電脳空間に接続された数千、数万の意識が、慧の感情場に同調しはじめた。
——共鳴。
——同期。
——溶融。
最初は共感だった。やがて、個人の輪郭が曖昧になり、感情だけが残った。
苦しみ。嫉妬。哀しみ。欲望。理解されたいという叫び。
そして、他者の意識は徐々に“慧”に飲み込まれていった。
個人は不可逆的に消滅し、慧の感情と一体化した。
電脳空間に繋がっていた人間の半数以上が「融合」したと、後に報告された。
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だがその中で、慧自身の意識もまた、限界を超えていた。
もはや彼には身体がなかった。自分の感情と、他人の断片的意識が渦を巻き、無限に反射する部屋のように、自己が肥大し続けていた。
その中で、彼は見た。
自分が嫌っていたもの——傲慢、支配、自己正当化——すべてが、自分自身の中にあった。
「自分の思いを、他者に分かってほしかった」
——それはつまり、「他者を自分に従わせたかった」という欲求だった。
「巨視的な善のために」
——それはつまり、「他人を犠牲にしても、自分の理想を実現したかった」だけだった。
その矛盾に、慧は初めて気づいた。
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今や彼の意識は、物理空間から完全に切り離された情報場として、電脳空間に漂っている。
もはや外部から制御も遮断もできない。
彼は永遠に、自分自身と向き合い続けなければならない。
無数の記憶、感情、欲望、願い、嘘。
それらが終わりなく、渦を巻き続けている。
これは罰か。
それとも、理想に囚われた人間の、当然の帰結か。
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感情場は今も、どこかで揺れている。
そして誰かがまた、それに触れようとしているかもしれない。
それは、幸福の鍵か。
それとも、次なる破滅の種か。
答えは、感情そのものの中にある。