善
「人間の《善》とは気持ちがいいんです。」
そう言ってタバコを消した。
「正しさではなく善を求める。
伝わりますかね、これ」
〇1話
「解せねぇなあ」と文句を言いながら電車を待つ中年の男がいる。
朝のニュースでは「今日は真夏日になるので、熱中症対策を!」とどの局でも言っていた。
なのにも関わらず中年の男には手元にあるペットボトルひとつ。
中年の男は自分の隣にいる男を見てまた文句を呟く。
「隣にいるのが美人なネーチャンならなあ」
隣の男もまた中年の男を見て言い返す。
「誘ってきたのは門藤さんですよ。」
「俺はお前なら断ると思ったんだ。本命はお前の隣にいた坂本ちゃんだ。」
誘ってきたのに理不尽な、と思うが
中年の男がなぜ自分に声をかけたのか分からないほど鈍感でもない。
「どうして坂本さんを誘うのに、1度私に声をかけたのですか」
少し嫌味を混ぜた声で疑問を投げかけてみるとなんとも言えない顔で門藤は返事する。
「お前が断ればそのままの流れで坂本ちゃんを誘えただろう。」
「分かってます。なので行きますと返事したんですよ。」
お前はそういうやつだよなと言いかけた言葉をお茶で飲み込む。
「男と2人で旅行なんざ誰が喜ぶんだよ。」
「門藤さん、今はそういった発言も差別になりうるんですよ。」
「《今は》なんて知ったことか。俺らの時代はこれが当たり前だったんだ。」
「今と昔では当たり前が違います。そこまで頑固になることですか。」
男の言葉に言い返そうとした門藤は、ホームに流れるアナウンスを聞いて言葉を変えた。
「とりあえず目的地に行こうか、高橋。」
2人の男が降り立った場所は有名な温泉街であった。
「なんだお前、酔ったのか。」
少し小馬鹿にしたように門藤は声をかける。
「男のくせに情けねぇ。」
「またそうやって」
「喋るな喋るな」
高橋は少しムッとした表情でお茶を飲み干す。
このご時世に男だのなんだのと持ち出してくるのはいかがなものか。そもそも電車酔いは男も女も関係ないだろう。
よほど顔に出ていたのであろう、門藤は高橋を一瞥しまた前を向く。
「俺の時代は、こんな発言差別にもならなかった。」
門藤は周りの出店や土産物を見回しながら言葉を続ける。
「正義なんてものは時代によって変わるんだ。俺が当たり前だと思っていたものは、今のご時世では悪だ。
ちゃんと社会で生きていくやつほど、時代の正義に振り回される。」
門藤は自販機の横にある長椅子に座るよう高橋を促す。
「いいか、高橋。正義とは流動的だ。
お前が今抱えている正義も1年後には覆されている。」
ガシャン、と自販機が音を立てる。
落ちてきたペットボトルを高橋に手渡しながらさらに続けた。
「だが善というものは変わらない。
人混みに酔った後輩に水を渡す。これは1年後でも善行のままだ。」