6月29日、課題提出日
天音が課題を提出したのは、提出期限ぴったりの2日後のことだ。そのころ由紀奈は外でひたすら飛んでは降り、飛んでは降りを繰り返していた。食堂の窓から疲れきった顔をしているのが見えるので、論文どころではないだろう。
課題を捲りながら、雅は軽く頷き、白衣の胸ポケットから出した判を右上の空いたスペースに押した。雅らしいピンク色をしている。
「よくやった」
短い言葉だが、それが彼女の中では最上級の誉め言葉であると知ったので、天音は嬉しくなった。
「ありがとうございます!」
「これなら魔導文字についてわかるようになったじゃろう。論文を理解する時間も早くなってきたな」
言われてみれば、初めてきちんとした論文を読んだときは理解するのに10日かかった。それも、朝から晩まで読み込んで、だ。しかし、2日で論文を読んで要約し、意見まで纏められるようになった。成長を感じる。
「それで? 魔導文字の発音は復活させられそうか?」
挑戦的な笑みを浮かべる雅に、天音は何も返すことができない。何せ、「わからない」が正解だったのだから。
「う、それは……」
「こら雅、後輩が可愛いからと言って虐めてはいけませんよ」
「ふん、可愛いからではないわ」
食堂に入ってきたのは、穏やかな笑みを浮かべた零だった。由紀奈の飛行訓練の指導をしていたらしい彼は、珍しくうっすらと汗をかいていた。水分補給に来たのだと言う。
「由紀奈はどうじゃ?」
「急降下が苦手なようですね」
「それで何回も手本として飛ばされたのか」
「ええ、まあ。今日だけで30回はやりましたね」
どおりで汗ばんでいるはずだ。並の魔導師なら魔力切れを起こしていてもおかしくないが、彼にかかれば少し疲れる程度で済んでしまうらしい。
「そうそう、魔導文字の発音と聞こえましたが、どうかしましたか?」
「話している暇はあるのか」
「今は夏希に交代しましたので」
冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して、キャップを開けている。いつもの定位置に座って、しっかり休む体勢になった零を見て、雅はあとは任せるとばかりに行ってしまった。
「ええと……所長と副所長の論文を読みまして、魔導文字の発音について調べていたんです。発音が復活させられれば、他の方も魔法を使えるようになるのではないか、と思いまして……」
「なるほど、そういうことでしたか。それで? どういう結論になりましたか?」
揶揄う、というよりは、天音の意見を聞くのを楽しみにしているような表情だった。その顔が意外にも幼くて、少し驚く。
「現代の言葉よりは古代語に近い……というのが私の結論です。さらに言うと、口語体ではなく文語体として残されているのではないかと考えました。残された資料は研究日誌や今で言う教科書のようなものがほとんどです。すなわち、会話で使われるような砕けた言葉遣いではなく、正確な表記がされていると考えます。呪文はいわば口語体、ゆえに残されていないのではないでしょうか。加えて、文字の形からして、筆記体のようなものが書きやすさから残され、楷書体が見つかっていない、あるいは廃れた可能性があるとも考えました。ただ、いずれにせよ、発音方法がわかるような資料は見つかっていないため、特定は不可能だと書きました」
天音の意見を聞き、零は満足げに頷いた。パチパチと拍手をしている。その姿がデスゲームの支配人に見えなくもなくて、夏希の表現の正確さに笑いそうになった。
「よくあれだけの資料でそこまで行きつきましたね」
「いえ……私だけではできなかったと思います。ヒントをくださったのは副所長ですし」
以前の夏希の話を思い出し、筆記体という案が出てきたのだ。自分1人の力ではないと否定する。
「けれど、それを覚えていて、活用したのは貴女でしょう。それに加え、以前よりずっと、自ら考え行動することが増えた。僕はそれも評価したいですね」
「それは……そう、かもしれません」
言われたことを完璧にやるのではなく、出された課題に対して考え、最良の結果を出す。今の天音は、そのように変化していた。
「わからない、が正解でもいいと、初めて知ったんです」
「確かに、学校ではそんなことはないかもしれませんね」
「はい」
数学でも国語でも。いつだって答えが用意されていて、それを出せばいいだけだった。けれど、研究は違う。まだわからないことも、今正解とされていることが変わることもある。
「前まではそれが不確かなようで嫌な気持ちもあったんです。でも、今は、もし自分が証拠を見つけたら、新しい資料を見つけたらって思うようになりました。そうしたら、調べていくこと自体が、とても楽しくなっていったんです」
「……そうですか。それはよいことです」
零の表情が普段よりも柔らかい。つられて天音も笑顔になった。食堂には、2人の笑い声が響いていた。
それを破ったのは夏希の声だった。
「つっかれた……もう50回は飛んだぞ」
「夏希……」
「……ん? なんかいい雰囲気だったか? 邪魔して悪ぃな」
「そこは嫉妬するところでしょう!」
「別に心配してねぇよ」
先ほどの笑みは何処へ行ったのか、零は夏希の華奢な体にすがって泣きそうになっていた。
「お前のコト、信じてるからな」
ふ、と。夏希の表情が、声が、甘く穏やかなものに変化した。これは見たり聞いたりしてよかったのか、と天音はできるだけ意識しないようにして気配を殺した。




