7月8日、論文内容を確認する日
今まで触れてこなかったものというのは、理解するのが難しい。透の論文を読み、天音は頭を抱えた。論文を渡された日から、すでに5日が経過していた。
これまで読んでいた論文は、なんとなく自分が触れたことのあるものばかりだった。だからこそ要約することもできたし、自分の意見を持つこともできた。
だが、今度はどうだろう。
天音は服装にこだわりはなかったし、家庭科も苦手だった。歴史の授業の時間に十二単を見て、綺麗だな、と思った程度である。毎年の流行さえ知らない。部屋着に中学や高校時代のジャージを選ぶタイプ。要するに、服飾とは縁のない生活を送っていたのだ。ゆえに、
「わからないところがわからない……」
という、天音の人生史上、最大のピンチかもしれない状況だ。今までクラスメイトたちがテスト前に言っていたが理解できていなかった台詞を口にした。
「え、どうしよう、まずいよねこれ」
つい独り言が多くなる。焦ってきている証拠だった。頭を抱え込みすぎたせいか、結った髪がボサボサになってきていたが気づけていない。
「本当にどうするの? あと二月しかないんだよ?」
研究発表会は9月12日。魔導研究に関わることは、聖なる数である12のつく日が選ばれることが多い。その日までまだ時間はあるが、新人の天音がそれだけの時間でどうにかできるとは思えなかった。
「悩んでますねー」
和馬が、「疲れたときは甘いものです」とカップケーキをくれた。それをかじりながら、行儀は悪いが論文に目を通そうとした。だが、和馬に取り上げられてしまう。
「ダメです、休憩」
彼は人見知りが激しいが、1度慣れた相手ならば容赦はなかった。和馬の術で彼のもとに飛んで行く論文を見て、流石に諦める。
「ここ数日、ずっと掛かり切りじゃないですか。少しは休まないと」
「睡眠はとってますよ」
「それだけじゃないんですよ。休憩したり、気分転換したりすることも大事」
「増田さんがあれだけ頑張ってくださってるのに申し訳ないなって……」
「葵さんを見てみて。あれだけ透くんを振り回してるのに平然としてます。それに比べれば大したことないですって」
「あれ……そうかも……」
普段の葵を思い出す。何かを思いついて走り出したり、集中しすぎて寝食を忘れたり。その度に透が「班長!」と走り回っている。それに比べればマシかもしれない。すると、
「2人とも失礼ッスね!」
食堂の隅で遅い昼食をとっていた葵が声を上げた。とは言え、その声に怒りの色は見えないので、自覚はあるようだ。開き直っているだけかもしれない。いや、その可能性の方が高い。
「カラシのコトは気にしなくていいんじゃないんスか。アイツ、楽しそうだったッスよ。あまねんに頼られて嬉しいのもあるでしょうけど。衣装作って発表できるのも楽しみだって言ってたッス」
「まあ確かに。天音ちゃん、頼るって言ったら副所長のことが多かったから。透くんがちょっと羨ましいです。俺らのことも頼ってくれると嬉しいなー、なんて」
「そうそう。迷惑なんて考えなくていいんスよ。自分なんか人に迷惑かけまくってるんで。でもなんとかやってけるんスよ、これが」
「そこは反省してください」
思わずツッコんでしまった。それが面白かったのか、2人とも笑い出す。つられて天音も笑った。論文に悩んでいたせいか、久しぶりに笑った気がする。
「よし、リラックスできたみたいッスね! 自虐ネタに走った甲斐があったってモンッスよ」
「ネタじゃなくて事実です、葵さん」
「グッチーまで言うかぁ……」
「言いますよ」
落ち込んだふりをする葵。ふりだと分かるのは、俯きがちになりながらも箸が止まらないからだ。研究に集中しすぎて時間を忘れ、昼食に遅れたらしい。食事の時間に厳しい和馬に引きずられてやってきたのだ。
「ま、自分のコトは置いといて。今のあまねんの状況をそのままカラシに伝えた方がいいと思うッス。アイツ、心配してたんで」
葵曰く、「何にも聞きに来ないけれど、僕は質問しにくい雰囲気なんでしょうか」や「論文難しすぎましたかね?」、さらには「逆にレベル低すぎて呆れられてます?」などと1日中気にしては葵が慰める、ということになっていたらしい。
「見てて面白いッスけど、さすがに心配なんで。わからないところがいっぱいですって素直に言った方がいいッス」
「そうなんでしょうか……」
「言ったッスよね? あまねんまだボーナス期間なんスよ。どんなに初歩的な質問しても許されるんス。ほら、そう考えれば楽ッスよね?」
「そう、ですね……」
色々なことがあってあっという間に時間が過ぎ去っていったが、天音はまだ配属されてからようやく3か月といったところ。まだまだ初心者魔導師なのだ。
「じゃ、じゃあ、ひとまず、線引いたところと、基礎知識の確認と、それと……」
「え、そんなにできてるんスか?」
「本当にわかってないのかなぁ……」
透に聞くことを纏めている天音の独り言が聞こえてしまい、葵と和馬は驚きながら言った。天音の「わからない」のレベルが高すぎる、そう思った瞬間である。




