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レポート

狂気の表層にて

作者: Cerebrum

実験は真理のただ一つの根源である。 

― アンリ・ポアンカレ ―


Datura

その花言葉、「素敵な恋人」「愛敬」「偽りの魅力」「恐怖」「夢の中」「陶酔」


 初めに私という人間について簡単に述べる。私は日本の北関東に生を受け、現在某大学大学院に通っているいたって健全な一般学生である。自慢じゃないが、これでも学業の面では優秀と言っていい学生であり、バイトとサークルに明け暮れ、恋人と友人に囲まれながらそれは楽しい学生生活を過ごしていた。そんな私の特異な点をあえて挙げるとすれば、それは精神の変容、そして精神の拡張に強い興味を持っているということくらいだろう。私は、数年前に知ったとある人物の影響で精神世界の探求に強い興味を持つようになり、これまで様々な「試み」を行ってきた。瞑想やホロトロピック・ブレスワークといった比較的手軽に始められるものから、禅寺での座禅体験、山奥での修行体験といったやや重いものまで様々だ。もちろん、精神展開物質の摂取なんてのも何度も経験した。古典的サイケデリクス、解離系幻覚剤、RC系サイケデリクス、エンセオジェン。勢いはあるが生粋のビビりでもあった私は、あくまで法に触れない範囲で、かつ安全対策に安全対策を重ねて様々な体験をした(退学だけは避けたかったのだ)。総じてそれらの体験は素晴らしいものであり、今思い返してもほとんどの体験が「やってよかった」と自信をもって言えるものであった。だから、きっと今回も素晴らしい旅になる、いや、素晴らしい旅にしてみせようじゃないか。その時の私は、これからの旅もなんだかんだいいものになるんだろうと、極めて楽観的で、朧気で、若者らしい夢想を奏でていた。


 とあるつてから手に入れた「それ」を前に、私は腕を組み悩んでいた。


「……さて、どうしようか。」


目の前のテーブルには、乳鉢とヨーグルト飲料、そして小さなジップロックが一つ置かれていた。ジップロックの中には茶色味がかった物体が、三分の一くらいの量まで入っている。

[Datura innoxia]、ケチョウセンアサガオの種子だ※1。

いろいろと精神展開物質を試してきた私であったが、デリリアント、いわゆるせん妄剤と呼ばれるジャンルの物質だけは、全くと言っていいほど手を付けたことがなかった。というより、わざわざデリリアントに手を出そうという思いがわかなかったのだ。デリリアントをやる時間があったら、瞑想するなり酒を飲むなり咳止めをちょっと多めに飲むなりしてしまったほうがよっぽど有意義な時間を過ごせると思っていたからだ※2。とはいえ、その時の私はサイコノートになることを恥ずかしげもなく夢見ていたから、やっぱ一回くらいは体験しとかないとなぁ、というまるで日曜日の夜のような憂鬱な義務感に包まれていたのである。ただ、どうせやるならデリリアントなんて一度きりにしたいし、一番実績のあるものがやりたい。ということで、私は最初で最後のデリリアントとしてダチュラに白羽の矢を立ててしまったわけだ。


 覚悟を決めたことを表す大きなため息を吐くと、私はスプーン半分程度(多分20~30粒くらいだったと思う) 量の種子を乳鉢に入れ、乳棒を用いてゴリゴリとそれをつぶし始めた。この量はこの種子を譲ってくれた人の言う標準量らしい※3。別件で購入した乳鉢セットがこんなところで役立つとは思わなかった。予想はしていたが、種子は完全な粉体にはなってくれずに多くはただ潰れ、変形しただけだった。ある程度潰し終えたらそれをプロテインシェイカーに加え、そこへ100ml程度のヨーグルト飲料を加えて腕が疲れていやになるくらいまでシェイクした※4。種子がヨーグルト飲料に分散しているのを確認したら、そのまま一気に飲み干す。念のため、シェイカーに少量のヨーグルト飲料を入れてまた軽くシェイクし、それも一気に飲み干した。その時の時間は10時20分、新緑の柔らかい空気が部屋の中まで充満している、清々しい春の日のことだった。


 一時間ほど経過した。気が付けば、私の部屋の中には苦悶の声が反響していた。


「ぐぁぁ……、きっつぃ……。」


私は恐ろしいほどの口の渇きと、視界のブレ。そして全身の骨が鉛になったんじゃないかと思ってしまうほどの体の重さに苦しんでいた※5。口の渇きを癒すために用意していた白湯を何度も飲んだが、まるでサハラ砂漠のど真ん中で水の入ったバケツをひっくり返すが如く、地獄のような乾燥感の解消には全く役に立たなかった。この時点ではまだ精神的な作用は感じられない。


 時間は13時42分。寝落ちてしまっていた。いつ落ちたのかはわからない。本当に、まるで某OSのシステム更新のように、突然現れて私に再起動を無理やり命令してきた「それ」が、私の意識を落としたのだ。12時ちょい前くらいまでは記憶がある。本当に気が付いたらこの時間になっていた。だが、ある程度体のシステムが侵入した彼らの扱い方を学んだのだろう。カムアップ時に感じたような耐え難い抗コリン症状はある程度落ち着いていた。口の渇きも体の重さも、この程度なら全然耐えられる。視界のブレは相変わらずひどいが。しかし、一向に精神作用、つまり幻覚が感じられない。ダチュラの幻覚はえぐいと聞いていたから、かなり覚悟をして臨んでいたのだがこれでは拍子抜けだ。


「はぁ、こんなもんか。」


思わずそんな独り言がこぼれる。ふらふらするが一応歩ける。ちょっと詰まってる感じがあるけど普通に用も足せる。ベランダに出て外の冷たくて新鮮な空気を吸うこともできる。先人のレポートや文献に書いているような、不気味なほど鮮明で明瞭な幻覚なんて一体どこで発生しているのかわからない。もしかしたら量が少なかったのかもしれない。もしくは、私は抗コリン剤由来のせん妄を起こしにくい体質なのかもしれない。いや、そもそもものが悪かったのかもしれない。この時点でもう萎えてしまっていた私は、炬燵に入ってこの後の時間いったい何をしてつぶそうかブツブツと考え始めた。


 時間は14時12分。視界のブレを見ていると気持ち悪くなるので、目をつぶってお気に入りプレイリストの音楽をひたすら流していた時、なんとなく眠気が迫ってきたことに気づいた。丁度のども乾いていたしカフェインをとるために温かい紅茶でも淹れよう。そう思った私は、機内モードにセットしてあるスマートフォンをズボンのポケットにしまうと(癖) 、炬燵から出てふらふらと冷蔵庫のもとへ向かい、中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。ミネラルウォーターを電気ケトルに入れ、スイッチを入れる。ペットボトル内のミネラルウォーターはまだ量があるので、しっかりとふたを閉めて冷蔵庫の中に戻す。自然だ。何もおかしなところのない、自然な行動。電気ケトルの中で水が沸騰し「シュー」という音を出し始めたのを聞きながら、私は食器棚にふらふらと向かい、中からカップを二つとりだした。二つのカップを調理台に置くと、一方のカップの中に紅茶の茶葉のティーバックを入れる。数か月前に購入した、紅茶の一大産地スリランカでも売られているというちょっといい茶葉だ。もう片方のカップは友人の高橋(仮名) のものだ。


「高橋は何飲むんだー?」


キッチンから炬燵に向かって声を上げる。


「コーヒー」


高橋は紅茶よりもコーヒー派なことは知っていたので予想通りの返答だ。私はドリップコーヒー用のパックをカップにセットした後、まだ頑張っているケトル君に応援のまなざしを送りながらお湯ができるのを待った。1分ほど経ってケトル君の仕事が終わった後、私は二つのカップにお湯を注ぐ。数分待つと実においしそうな紅茶とコーヒーが出来上がった。紅茶のティーバックとドリップコーヒーのパックを取り出し、これらの水分をシンクできった後ごみ箱へと捨てた。


「あちあち」


炬燵に持っていこうと、私は慎重に二つのカップを手に持った。


『高橋なんていない。』

その時、私はようやく違和感の名前を呼ぶことができた。


 私は二つのカップを持ったまま、その場で固まってしまった。高橋なんていない、いるわけがない。なぜなら今回は一人で始めたはずだから。高橋はこういうのに理解のある貴重な友人だから、シッターとして何回も見てもらったことがある。でも今回は頼んでいない。なのになんで高橋が今ここにいるのか。いや、いるじゃない、いたんだ。高橋はいた。確かにそこの炬燵でくつろいでいた。だって私は何の違和感も疑いもなく食器棚から二つのカップを取り出した。それは高橋がいるからカップが二つ必要だと判断したからじゃないか。そして何より、高橋は私の質問に答えたじゃないか。私は確かに聞いた。高橋は確かに私の質問に対して「コーヒー」と答えていた。答えていたじゃないか。それはこの場に高橋がいたからだ、高橋はいるんだ、いるんだよ。でもここにはいないはずだ。だって今日の実験のことは伝えてないのだから。だからいるはずがないんだ。でもいるんだ、だって答えが返ってきただろ。私は確かに無意識にカップを二つ用意したし高橋の声も聞いた。だがそれって高橋が存在していた証拠になるのか?。実際に高橋の姿を見たわけじゃない。いやいや、高橋の姿を仮に見たとしても、それは高橋がここにいる、存在する証拠にはならないんじゃないか。いつからいたのかはわからないが、その高橋は幻覚だったんじゃないのか?。いや違う。全然違う。これまで体験した幻覚とは全く違う。怖い、不安だ。とても不快だし不愉快だ。あの高橋が幻覚だったとしたら、あいつは恐ろしいほどの実在性、現実性だ。侵食されてることに全く気づかなかった。気づかなかったじゃない、気づけなかった。じゃあお前は気づけたのか。後出しで私はわかってましたみたいな態度はどうかと思うぞ。まぁ待て待て、落ち着け、落ち着くんだ。深呼吸、深呼吸だ。冷静になれ。クールになれ。主観に惑わされるな。客観を信じすぎるな。


私は二つのカップを持ちながら、10回ほど大きく深呼吸をした。


いやおまえは誰なんだ。高橋の前にまず私の頭の中で私と議論しているお前は誰なんだ。お前は私か?。私が分裂しているのか?。それとも別の自我が侵食しているのか?。何とか防衛線を保っている正常な自我が、ダチュラに侵された自我を切り離したとでもいうのか。それとも、意識の深くまでは刺さっていないが、表層で私に嫌がらせをしているだけなのか?。なぜ質問に答えないんだ?、いなくなったのか?。……どうやら引っ込んだようだ。あぁ落ち着こう、冷静に状況を整理しよう。まず危ないからカップを置こう。まず、置こう。置くんだ。そして落ち着いて考えろ、何が起きた?。高橋がいた、確かにいた。声も聞いたし気配も感じたし、私が紅茶を淹れている間、炬燵でもぞもぞする音も確かに聞いた。ん?そんな音聞いたか?。いや、そんなことは今はどうでもいい。あいつがこの場にいたかいなかったかなんて重要じゃない。あいつはいたんだ。なのに振り向いたらいない。いや、そもそも今回彼は呼んでいない。いないんだ、絶対いないんだ。でも声と音と気配があまりにもリアルで、質量と質感のあるものだったから全く違和感を感じなかった。でもいない。今日は私一人、誰もいない。私すらこの場にいたのか怪しい。ほんとうか?。実は今日高橋が来る予定が入っていたのを忘れていただけなんじゃないか?。


私はポケットからスマートフォンを取り出し、カレンダーアプリの予定表を開く。当然だが、今日高橋が来る予定はない。


なに?ドッキリでトイレとかどっかに隠れてるんじゃないか?。馬鹿か。いいか?、冷静に思い出せ。今日、インターフォンはなっていないな?。それに玄関のドアを開けた覚えもないな?。私が住んでいるのはマンションの2階だな?。つまり高橋を私の家に入れる動作を今日はしてないんだよ。だからいるわけがない。わかったらお前は引っ込んでてくれ。ここにいなけりゃいないんだよ。うるさいな、いいか?、今、この部屋の中の空間は高橋という存在の補空間だ。だから大丈夫。高橋がいる証拠は気配と声しかないが、いない証拠は沢山ある。この空間における高橋の非存在性を証明するためには、対偶的にはこの空間以外における高橋の存在性が閾値レベルまで高いことを証明すればいい。ヘンペルの烏、ヘンペルの烏だな。となれば、この摩訶不思議な状況を終わらせるには、いっそのこと高橋に連絡してしまえばいい。いや、それはだめだ。酔っているときに誰かに絡んでいいのは酒だけだ。うん、いない。高橋なんていない。いや、高橋がいないんじゃなくて私がいなくなったのでは?高橋と私がいた空間から高橋がいない空間へ私がテレポートしたということ?は?なに?え、なに?何言ってる?


 サイケデリクスや解離系の幻覚では、自分が向こう側へダイブするするような感覚を覚えることが多い。だがこいつは明らかに違う。向こう側がこちら側へ這い寄ってくる。気が付いた時にはもうこちら側が向こう側になっている。そんな絶望にも似た感覚。惶惑の境地。


 私はキッチンに立ったまま、紅茶とコーヒーを交互に飲みつつひたすら「なぜこの場に高橋がいないのか」について考え続けた。やがて紅茶もコーヒーも飲み終えると、私は二つのカップをシンクで洗って水切り台へ置き、ふらふらと炬燵へと戻った。私は自分でもわかるくらい混乱しており、そして自分は混乱しているとはっきりわかるくらいには冷静だった。狂気に飲まれた自分の表面に、狂気によって自分の内側から追い出された自分が必死にしがみついている。その時の私にとって、その僅かばかりの正気がまさに生命線、心のよりどころとなっていった。ここからだろうか、幻覚がはっきりと笑い始めたのは。いや、もしかしたら気がついていなかっただけで、私の知覚はとっくに幻になっていたのかもしれない。とにもかくにも高橋の一件がターニングポイントとなり、ここから10時間以上もの間ただただ不快で意味の分からない幻覚の世界に閉じ込められることとなったのである。


・窓の外に誰かがいます。窓を見なくてもわかります。誰もいません。でも誰かがいます。

・気分転換しようとシャワーを浴びると吐き気に近い不快感が皮膚全体を襲いました。

・天井を見るとぐるぐると時計回りに回転しています。きっと自転と公転の向きが関係しているのでしょう。

・ひたすら謝罪すれば救われると思っていました。

・うるさい話声が壁の中から聞こえます。意気投合することが怖かったので会話には加わりませんでした。多分なんかのアニメか映画の話をしていました。

・目の前の空間が盛りあがってかなり立体的に見えます。

・体が重くマントルが波打っているのを感じます。

・パラノイアが酷い。スピーカーから流れる音階までもが私を侮辱する。

・水道水のほうがおいしく感じる。

・今ほど重力を恨んだことはありません。

・のどの渇きは相変わらずだが目の渇きもひどいです。

・天井に何か怖いものが張り付いているような気がします。それは蜘蛛だったり化け物だったり球の集合だったりと揺れ動いています。私の心が反映されていると気づいたので、当時はまっていたゲームのとあるキャラのことを考えたら天井が高校の恩師の巨大な顔に変貌しました。蜘蛛よりはましなのでそのままにしておくことにしました。

・けらけらと笑い出しましたが何が面白かったのかはわかりません。誰が笑ったのかもわかりません。

・不安を感じないことに不安を感じるようになりました。私は本当に冷静なのでしょうか。

・四方八方から視線を感じます。自分の内側からも視線を感じます。どんな怖い世界を見るよりも、針のような視線で自分を見られることのほうが恐ろしいです。

・音楽を聴くと脳内になんとも言えない引っ掛かりのような違和感を感じます。普段音楽を認識するときに働いている脳の機能の一部が正常に動いていないようなきがします。

・冷蔵庫の中に何かがあるように思えますがなにかはわかりません。

・500mlペットボトルにずっと悪態をついていました。彼が何をしたというのでしょうか。

・音はうるさいし視界はぶれるし触覚は気持ち悪いし匂いもおかしい。味覚までおかしくなったら寂しくて泣いてしまうかもしれません。

・たちが悪いことに私は正気です。

・トイレに行こうとしましたが誰かが中に入っているような気がします。換気扇から出ていったら面白いなと思っていたら、しばらくして誰かが換気扇から出ていきました。

・意味が解りません。

・国土交通省に行かなければならないという強い衝動に襲われました。

・ドレスを着た少女の正体がごみ袋だと納得するまでかなりの時間がかかりました。


ひたすらこんな調子だ。まるで海図もGPSもない小さな帆船に一人きり、全く志向性のない世界の大海原をひたすら漂流し続ける。しかもこの物質の提供者から「絶対に家の外でやるな、終わるまで家の外に出るな。」と言われていたのもあって、気分転換に散歩も行けずにただただ早く終われと思いながらくそみたいな時間を部屋の中で耐える羽目になってしまった。だが、今思い返せば外に出なかったのは大正解といえる。もし忠告を聞かずに、もしくは忠告が無くて外に散歩にでも出てしまっていたら、ほぼ間違いなく警察沙汰になっていただろう。


 日付が変わるころなりようやく幻覚も知覚の異常もある程度落ち着いてきた。私は美味しくない軽食を済ますと、不衛生なのは承知の上で風呂と歯磨きをスルーしそのままベッドへと潜り込んだ。そのころにはもうさっさと寝たい以外の感情がないくらい異常に疲れていたのだ。それもあってか入眠は思ったよりスムーズだったが、1,2時間おき位で目が覚めてしまい熟睡はできなかった。だが、無事朝を迎えることができ、今こうしてあの理不尽で不気味で不快で不愉快な体験をまとめているわけである。


 結論としては『やってよかったがやらなきゃよかった。』この一言に尽きる。いつもなら精神展開物質の体験後数日は体験の内省や自我との統合を試みるものだが、こいつに関してはとてもそんな気になれない。こいつの体験から今後の人生に有用で示唆的な何かが得られるとは全く思えないのだ。大抵の精神展開物質は良くも悪くも『特別な』体験を提供してくれる。しかしこの物質がもたらすものは吐き気を催すほどの『現実』である。しかもただの現実ではなく限りなく非現実に近い現実である。こんなものを不運にも食用植物と間違えて食べてしまって、覚悟もなしにこんな中毒を味わう羽目になった罪なき人々には本当に同情を禁じ得ない。1ミリも他人にお勧めできるポイントがないし、今後二度と自分からやることもないだろう。だが、それがわかったことはそれ自体が大きな収穫だ。この超克体験は間違いなく私の中に残り続けるだろうし、私の人生にとって重要な栄養素となるだろう。そういった点で考えれば、まぁ結果として有意義な旅にできたのではないだろうか。


 私は体験レポートをある程度まとめ終えると、一本の煙草とライターを手にベランダへ向かった。朝日を浴びつつ煙草をのみながら、今日これからの予定についてあれこれ思案する。念のため昨日だけではなく今日もオフにしていたので、バイトもサークルも大学での研究も、友人とも恋人とも特に予定はない。ともあれば久々に一人でまったり過ごす休日も悪くないか。いや、それとももし高橋が暇だったら遊びに誘ってこの体験について話そうか。あいつならきっと興味を持ってくれるはずだ。そうだ、そうしよう。私は一つの結論を出すと、携帯灰皿の中に吸殻を捨て、ベランダから部屋へと戻る。そういえば朝の一杯がまだだったことに気づいた私は、紅茶を淹れるためにキッチンへと向かった。冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、中身を電気ケトルに入れてスイッチを入れる。ペットボトル内のミネラルウォーターはまだ量があるので、しっかりとふたを閉めて冷蔵庫の中に戻す。電気ケトルの中で水が沸騰し「シュー」という音を出し始めたのを聞きながら、私は食器棚に向かい、中からカップを二つとりだした。※6





●注釈


※1

HBWR同様、ダチュラ系の種子は誤飲を防ぐため有害な薬剤で汚染されている場合が多いという。市販のダチュラ系の種子は間違っても誤飲しないように気を付けよう。本稿の体験者が手に入れたDaturaの種子は、本文で「とあるつて」と言っている人が自家栽培していたものを入手したようだ。


※2

デリリアントは例えばダチュラのほかにもジフェンヒドラミンやベンジダミンなんかが有名だが、はっきり言ってそれらをデリリアントとして体験するのは基本的に時間、いや人生の無駄だ。酒の二日酔いのほうがまだましな時間を過ごせる。ただ、尊大な好奇心と狷介な覚悟をもって俺はやってやるんだとしたら、私は草の陰から温かい右目と冷え切った左目で見守らせていただこうと思う。


※3

ダチュラ系植物の種子を偶発以外で多量に摂取したという情報は多くない。ダチュラ系でも植物の種類はもちろん育成状況、保管状況でも中毒を起こす標準量は変わってくる。体験者の間違いの一つはここであり、初めてなのだからもう少し少ない量で行くべきだった。


※4

仄聞したところによると、ダチュラ属植物をヨーグルト飲料と一緒に摂取するというのはインド地方における摂取方法の一つらしい。バングラッシーならぬダチュララッシー、いやダチュラッシーといったところか。


※5

アセチルコリンは筋肉の動きを命令する作業において重要な役割を果たす。なので、アセチルコリン系を狂わすものが体内に入ると、全身が鉛のように重く、鈍く感じることが多い。


※6

Daturaの精神作用は場合によって数日間継続することもある。


●以下、補足


 ダチュラ、エンジェルトランペット、ジムソンウィード、曼陀羅華、キ〇ガイナスビ、チョウセンアサガオ。もしあなたが園芸もしくは薬用植物に関心を持っているなら、全てどこかで聞いたことがある言葉達だろう。これらの言葉は、すべてDatura属に分類される植物たちが呼ばれている名前である。以下ダチュラで統一するが、夏の暑い日に大きくて美しくどこか可愛げのある花を咲かせる彼女らは、園芸用植物として人気があり日本全土で広く栽培されている。しかし、ダチュラ属の多くは強い人体毒性を有することでも知られている危険な植物だ。チョウセンアサガオによる食中毒事例は本邦においても医療機関や公的機関から数多く報告されている(例えば参考文献[1]~[3])。


 ダチュラ属による中毒における主症状は、全草に含有しているアルカロイドであるアトロピン、スコポラミン、ヒヨスチアミンといったトロパンアルカロイド類(もしくはベラドンナアルカロイド類※1) によってもたらされる。これらトロパンアルカロイド類は有名な覚せい剤成分であるコカインと似た分子構造を有しているが、その生理作用は似ても似つかない。トロパンアルカロイド類は主に脳内のアセチルコリン神経系に作用し、副交感神経の抑制と中枢神経の興奮をもたらす。結果、少量では制吐剤や酔い止めとして有用となるが、多量摂取では激しい口渇、嘔吐、倦怠感、瞳孔散大、異常興奮、幻覚、呼吸困難、昏睡といった症状を呈する。特にその花言葉にも表れるように、中枢神経系に作用することで生じる幻覚・せん妄は苛烈であり歴史的にも多くが語られる。本文の体験者も現実と幻覚の狭間で妄想という網に囚われ、身動きが取れなくなっている様子が見て取れる。しかしながら、その幻覚作用は古くから民間信仰の道具ともなっている。例えば古代のアメリカ先住民のシャーマンは薬としての利用だけではなく儀式の際の幻覚剤としても敬意をもって利用していたというし[5,6]、チベットのサドゥーの中にも修行としてダチュラを服用していたものがいたという[7]。本邦においても江戸時代に中国から輸入されて以降※2、伝統医療として長く用いられてきた成分の一つである(2023年現在では生薬として日本薬局方に定められてはいないが、ブチルスコポラミンなどの医薬品原料として用いられる[8]。)※3。


 ここで、トロパンアルカロイド類についてやや化学的な観点から詳しく述べよう[9]。トロパンアルカロイド類は非タンパク質構成アミノ酸の一つであるオルニチンを原料として植物内で生合成されている。オルニチンからピロリジンアルカロイドへと変換され、その後分子内Mannich反応からの脱炭酸を経由しトロピンとなり、その後フェニルアラニン由来の骨格部位とエステル結合することでヒヨスチアミンやスコポラミンが生成される。通常ダチュラのようなナス科植物に含まれるヒヨスチアミンは[(-)-hyoscyamine] であり、光学活性を有する。(-)-hyoscyamineは貯蔵や抽出過程で容易にラセミ化を起こし、そのラセミ体、すなわち(±)-hyoscyamineはアトロピンと呼ばれている。ちなみに、ヒヨスと呼ばれるナス科植物からは(-)-hyoscyamineがラセミ化なしで単利することができるため、硫酸アトロピンの製薬原料として重要なんだそうだ。余談だが、コカインやニコチンなんかもトロパンアルカロイド類と同じくオルニチンを原料として生合成されていると考えられている。


 最後に、ダチュラ属(トロパンアルカロイド類) がもたらす精神変容は、体験者が述べているように「あちら側の世界がこちら側に侵食してくる」ようなものである。彼らは99%の確率で恐怖と狂気と不快が入り乱れた体験を提供する。はっきり言ってただの食中毒なので故意の多量摂取はもちろん避けるべきだし、事故でうっかり摂取しちゃったなんてことにならないように気を付けよう。※4



●注釈

※1

ヨーロッパ南西部から西アジアにかけて広く分布しているベラドンナという植物もダチュラ同様のアルカロイド類を含んでいる。ヨーロッパでは古くから薬用植物として、またその瞳孔散大作用から化粧の一環として珍重されてきた[4]。本邦原産のものではハシリドコロという植物が同じトロパンアルカロイド類を含有している植物として知られている。


※2

チョウセンアサガオという和名からはさも朝鮮原産の植物のような印象を受けるがそんなことはない。あくまで海外(朝鮮) からやってきた朝顔っぽい植物だからという意味でしかないらしい。


※3

アセチルコリン神経系に作用するトロパンアルカロイド類は、同じくアセチルコリン系に作用するムスカリン系アルカロイド(キノコ毒の主要成分) や有機リン系神経毒 (サリンなど) の作用と拮抗する。そのためその解毒剤としても用いることもできるらしい。


※4

もしあなたが非薬用途のスコポラミンを手に入れられたとしても、悪いことは言わないからさっさとトイレに流しておとなしく酒でも飲んだほうがよっぽどいい体験ができる。それでも好奇心を抑えられないというなら、あなたがするべき第一の行動は警察に捕まっても大丈夫なように身の回りを整理することだろう。



●参考文献

[1] https://www.jstage.jst.go.jp/article/clinicalneurol/57/5/57_cn-001025/_pdf/-char/ja

[2] https://www.jstage.jst.go.jp/article/shokueishi1960/27/5/27_5_592/_pdf/-char/ja

[3] https://www.niph.go.jp/h-crisis/archives/84057/

[4] https://www.lab2.toho-u.ac.jp/phar/yakusou/mihon/beradonnna.html

[5] https://www.pnas.org/doi/pdf/10.1073/pnas.2014529117

[6] 悦楽植物大全 著:R・E・シュルテス,他 / 訳:鈴木立子

[7] 幻覚世界の真実 著:テレンスマッケナ / 訳:京堂健

[8] https://www.pharm.or.jp/herb/lfx-index-YM-200708.htm

[9] 資源天然物化学 著:秋久俊博 他

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