Act2:険しい山に登るには、最初からゆっくり歩く必要がある
翌朝。目を覚ましたルチアーノは、辺りを見回し、そこが見慣れない部屋────昨日泊まった宿の一室であることを確認すると、安堵の息を吐いた。良かった、夢じゃない。そう思った次に、部屋の中にアルヴァーロの姿がない事に気がついた。
彼が寝ていたはずの隣のベッドは、もう空で綺麗に整えられていた。不安になる。だが、部屋の隅に彼の荷物が残っているのを見て安堵した。
その時、突然ドアが開いてびくりとする。
「おっ、起きてたか。おはようさん、よく寝てたから起こさなかった」
手にはたくさんの紙袋。壁の時計を見ると、朝の10時を過ぎている。ルチアーノはアルヴァーロへ視線を戻すと、遠慮がちに言った。
「………あの……足音なく帰って来るのやめてくれませんか……びっくりするので……」
「あ、そう? ごめん。癖なんだ」
と、アルヴァーロはその場で床を革靴で叩くが、音がしない。フローリングの床なので、それを見ているルチアーノは変な気分だった。しばらくやって、ようやくコン、と音がしてアルヴァーロは満足気に笑う。
「よし、思い出した。こうだな。それよりほら、買って来たぞーう」
ガサガサと、アルヴァーロはルチアーノがいるベッドの上に紙袋を置いた。中から現れたのは赤いワイシャツと、黒ズボンと、黒い革靴の箱と、ショルダーホルスターだった。
アルヴァーロが揃えて来た一式に身を包んだルチアーノは、落ち着かない様子で襟元をいじった。
「………こんな派手なの……似合います?」
「似合うよ。ほら、俺が白いだろ。お前は赤毛だし、赤が似合う。俺といて丁度良い感じだ」
「丁度良いって……」
アルヴァーロはその姿をしばらく眺めたあと、思い出したように手を打った。
「あぁそうだ、大事なのを忘れてた」
と、紙袋の奥の方を探ると、小さな黒い布の四隅に紐がついたものを渡す。
「はい」
「これ……」
眼帯だ。受け取る前に分かった。目を覆う部分は丈夫な素材で出来ている。つけてみろよ、と笑うアルヴァーロに、ルチアーノは躊躇う。これをつけるためには、今の眼帯を外さなければならない。つまり、見られる。
「……どうした?」
「ちょっと、向こう向いてて……」
「ん、分かった」
くる、とアルヴァーロは背中を向ける。茶化しもしない。外して、すぐに黒いのを付け直した。同じ形なので付けやすい。ふ、と部屋の鏡を見る。赤い服に黒い眼帯の自分が写って見える。それは、まるで自分ではないようだった。
「………」
「もういい? おっ、いいじゃんカッコい〜!」
大袈裟じゃないかと思うくらい喜ぶアルヴァーロ。ふと、本来の父親はこういうものなのかな、と思った。
「…………な。義眼嵌ってる?」
アルヴァーロが自分の右目を指差しながら言う。ルチアーノは首を振る。
「ない、です」
「そりゃそうか。あんな生活じゃあな。じゃあ知り合いの医者のとこ連れて行ってやる」
「え」
「大丈夫。ありとあらゆる医療に精通したすげーヤツだからな」
頭を撫でるアルヴァーロに、ルチアーノは口をすぼめる。
「……頭。すぐ撫でるのやめて下さい」
「おう、嫌か。でもこれはやめない」
にこ、とアルヴァーロは笑う。……よく笑う人だ。正直、あまり悪い気はしなかった。
「………そう言えば、これ……」
と、ルチアーノはまだベッドの上に残っているホルスターに目を向けた。ホルスターはあるが、それに入れる銃はない。
「あぁ、そうだそうだ。うん、それもだ」
と、アルヴァーロはコートの内を探ると、昨日の黒い銃を出した。
「これ、あげるよ」
「え」
「俺の予備の銃だけど、一丁あれば事足りるし。お前が一歩を踏み出した記念の銃だ。だからやる」
「……いいん、ですか」
「良いって言ってるだろ。左利き用の銃だし心配ない。いやー、偶然利き手が同じで良かったな」
おずおずと、ルチアーノは銃を受け取った。兄の命を奪ったそれは、なんだかよく手に馴染んだ。
「さぁて、じゃあ早速出発するかー」
「どこまで行くんですか?」
「うん? 隣の町だよ。少し歩くけど大丈夫か?」
「歩きなんですか⁈」
「体力づくりだと思って。な」
ルチアーノは唸る。部屋に篭りっぱなしだったルチアーノは正直体力がない。しかし、これからやって行くには確かに体力は必要だ。
「……分かりました……」
「よし、出発!」
元気に片手を突き上げるアルヴァーロ。ルチアーノは少しだけげんなりした。
*
宿を出て、一時間ほどして。ようやく目的の町に着いて、またしばらく歩いて、とある家に着いた。そこは静かな路地で、表通りの喧騒は遠かった。黒い扉。ルチアーノは正直あまり入りたくないな、と思った。
その扉の横に着いた呼び鈴を、アルヴァーロは躊躇いなく押す。ギンゴーンと耳障りな音がした。しばらくして、ドタドタと足音がして勢いよく扉が開いた。
「アル〜〜!」
白衣を着た誰かが、高い声と共にアルヴァーロに飛びついた。アルヴァーロとは対照的な黒く長い髪がふわりと揺れる。アルヴァーロは彼女を一歩も揺らぐことなく受け止めると、微笑む。
「ようジュリー。元気してたか」
「……壁にぶつかったのかと思いましたわ! もう少し優しく受け止めて下さる⁈」
「君が急に飛び込んで来るからだ。……外じゃなんだ、入れてくれ」
「そうですわね。……あら、その子は?」
彼女はルチアーノに気付く。長い前髪の間から覗く瞳は、明るい夜空の様な不思議な色をしていて、思わずルチアーノは見惚れた。
「ルチアーノってんだ。俺の助手にした」
「まぁ。可愛い子ですわね。わたくしはジュリエットと申しますわ。よろしくお願いいたしますね、ルチアーノ君」
にこ、とジュリエットは微笑む。黒い髪と黒いタートルネックのセーター、黒い革製のズボンに黒いヒールブーツ……と、白衣以外は真っ黒だ。おまけに手には黒い手袋。
魔女、という言葉が合いそうな女性だなとルチアーノは思った。
「立ち話もなんですわ。アルからは血の臭いがいたしますし。中にお入りになって」
ルチアーノは彼女の言葉に驚いた。血の臭いなんてしない。確かに彼は昨日応急処置をしたっきりだが、コートは新調されているし、見かけじゃ全く分からない。只者ではないことを感じながら、ルチアーノはアルヴァーロの後をついて彼女の棲家へ足を踏み入れた。
中は暗かった。多くはない窓には黒いカーテンが掛かっていて、外の明かりは全く入って来ない。照明は燭台に揺らめく蝋燭の火だけだった。目が慣れて来ると、壁際の棚にはラベルの貼られた薬瓶と、何かのホルマリン漬けのようなものが置いてあるのが見えた。……本当に魔女かもしれない、とルチアーノはアルヴァーロの陰に思わず隠れた。
「どうぞ、お座りになって」
ジュリエットは部屋の真ん中のソファへと二人を促す。小さなキッチンに置いてあったガラスのポットを手に取り、中に入っていた液体をカップに注いだ。それを二つ、二人の前に置く。
「わたくしが育てたハーブのお茶ですわ。丁度さっき淹れたところでしたの。どうぞ召し上がって。温まりますわよ」
この雰囲気だと、怪しいものに見える。警戒しているルチアーノをよそに、アルヴァーロは躊躇いなくクイッと飲んだ。しっかり湯気が立っているが、熱くないのかとルチアーノはそっちが心配になった。
「……それにしても、珍しいですわね。アルが怪我なんて。滅多にしないから全然会いに来てくれませんのに」
ジュリエットは対面に座ると、頬に手を当て首を傾げた。
「あー、俺の怪我はどうでも良いんだ。こんなの唾つけときゃ治る。それより診て欲しいのはこいつだよ」
「あら、そうでしたの。どこが悪いのですか? その右目でしょうか」
ジュリエットはルチアーノの眼帯を見て言う。それはとても心配した声で、ルチアーノは顔を逸らす。
「……悪くは、ないです。生まれつき、無いから……」
「あらあらまぁまぁ、そうでしたのね。それは失礼を。……ということは……」
「ジュリー。ルチアーノの義眼を作ってやってくれないか。親にロクに病院に診せてもらえてない。空っぽのままってのは、よく無いんだろ」
「そうですわね、あまりよくありませんわ。そういう事でしたら、分かりましたわ。診せて下さいまし」
真剣な顔のジュリエット。ルチアーノが不安に思っていると彼女はにこ、と微笑む。
「大丈夫ですわ。誰もあなたのことを笑ったり、蔑んだりしませんわ。だから安心してくださいまし。痛くはしませんから」
そう言われて、ルチアーノは少し悩んでから、耳に手をかけた。人前で眼帯を外すのは初めてだ。思い切って取り払った先、何もない右の眼窩が姿を現す。
「あらあらこれは……ずっとこのままだったなんて、酷いですわ」
「どうにかなるのか」
「ええ」
ジュリエットは立ち上がって、ルチアーノのすぐ前に膝をついた。手袋を外して、ルチアーノの顔に触れる。近くで見る彼女の瞳は、とても綺麗だった。
「これは……ふむ、少し埋まってきてはいますけど。問題ありませんわ」
手を離したジュリエットはふふ、と微笑む。
「詳しく採寸いたしましょう。数日でお作りいたしますわ」
数日、ということはしばらくこの街に滞在するということだ。ふとアルヴァーロを見ると、何やらメモの束を漁っている。ルチアーノの視線に気付くと、彼はあぁ、と口を開いた。
「この辺りで仕事があったと思うんだ。だから時間潰しに何件かこなそう。お前もついて来い」
「………俺まだ何も出来ないけど……」
「見学でいい。相手はそんな危険なヤツじゃないし」
そんな会話をするアルヴァーロを見て、ジュリエットは「まっ」、と眉を吊り上げた。
「アル。怪我の手当をなさらないまま行くつもりでしょう。お出しになって。治療して差し上げます」
「だから大丈夫だって、俺はその辺の奴より丈夫なの。かすり傷だよ」
「怪我を舐めてはいけませんわ。ほら、早く、お出しになって」
圧。高く上品な声だが、そこには有無を言わせない圧がある。アルヴァーロは渋々、コートを脱ぐと中のワイシャツのボタンを外し、左肩を見せた。あれから宿で自分で巻き直したらしい白い布が、真っ赤に染まっている。
「かすり傷……? これが……?」
「ジュリー。全然痛くない。痛くないから大丈夫だ」
彼女は慣れた手つきで固く結ばれた布を取り払った。思わずルチアーノが「うわ」と声を出してしまう傷が露わになる。
「銃創ですわね! 結構深いじゃありませんの! 消毒! 殺菌!」
ヒールを鳴らしてジュリエットは薬棚へ向かうと、何かの瓶と救急箱らしい救急箱を持って戻って来た。瓶の蓋を開けると、その中の軟膏らしきものを傷口に塗りたくる。
「あーーー! 染みる! くそ染み過ぎだろそれ! だから嫌なんだ! 何なんだそれは!」
「企業秘密ですわ」
「でも驚くほど綺麗に治るんだよな……」
やっぱり魔女だ、とルチアーノは思ってソファの上で後ずさった。
今まで平然としていたアルヴァーロが苦痛に顔を歪めている。本当に傷は痛くなかったのか、不思議だ。上にガーゼがあてがわれ、丁寧に綺麗な包帯が巻かれる。その様子を見ていると、彼女はやはり医者なのだなと思った。
巻き終えて、どこかぐったりしたアルヴァーロを尻目に、ジュリエットはルチアーノへ再び向き直った。
「お待たせいたしましたわ。さ、こちらへいらして」
*
「……あー、やっとおさまって来た。ちくしょー、ほっときゃ治るのにこんなん…………」
「化膿したら大変ですよ……」
ジュリエットの医院を出て、街を歩く。また宿を探さなければならない。表通りに並ぶ看板をルチアーノは見上げる。大きな街だ。建物が高い。街の名前は何と言ったか。確か“ドッグウッド”と、アルヴァーロは言っていたような気がする。
「そういえば、助手って言っても具体的に俺は何をすれば……?」
「うん? 殺しの手伝いだよ。狙撃と格闘を覚えないとな。………お前、片目だから遠近感掴みにくいよな」
「……? よく分かりませんけど」
「え? あー、生まれた時からそれじゃ、立体視の感覚の方が分からんか……」
ぴた、とアルヴァーロは止まる。振り向くと彼は左手の人差し指を立て、横に向けて差し出した。
「お前も同じようにして、俺の指に指で触れてみ」
「……え……」
怪訝な顔をしながら、言われたようにやる。
「あれ」
「な。分かんないだろ」
上手く合わない。自分の指同士でやってみると出来る。
「自分の体だとまぁ、腕の感覚とかあるからな。だが、相手は他人だ。そういう訳にはいかない」
「でも、銃は正面で合わせるじゃないですか」
「銃こそ距離感は大事だ。弾は真っ直ぐは飛ばない。距離に応じて調整が必要だ。格闘にしたって、相手との間合いが分からなきゃいけない」
いきなり壁にぶち当たったような気分だった。自分の目がそんなハンデになるとは思っていなかった。
「どうしたら……」
「ンなもん、訓練でどうにでもなる」
「他人事だと思って……」
ぐ、とルチアーノはアルヴァーロを睨む。アルヴァーロは顎に手を当て考えると、よし、と笑った。
「じゃあ、俺も片目でやる」
「えー……」
*
街の外、何もない平原。冬の草木は、寒々しく褐色になって大地を覆っている。
足場はあまり良くない。離れた所で、手持ちの布で片目を隠しているアルヴァーロをルチアーノは眉を潜めながら見た。風が冷たい。
「………おー、これは少し難しいな」
トントン、とアルヴァーロは地面を叩いた。ルチアーノは両手を広げて、声を張った。
「……これからどうすれば?」
「かかって来い」
「人を殴ったことない……!」
「これから殴ればいい。大丈夫、俺は頑丈だから」
そう言うアルヴァーロより、心配なことがルチアーノはあった。
「………アルヴァーロさんは殴るの?」
「お前を? 殴んないよ! 防御するだけ」
そうは言うが不安だ。だが、このまま突っ立っていても何も進まなさそうだ。ルチアーノは覚悟を決めると、拳を握りしめて走り出した。
「うおおぉぉ!」
「叫ぶなよ、素人か。……素人だった」
近付いて、ルチアーノは拳を振り抜いた。思ったより早いタイミングでアルヴァーロの手に止められる。
「近い。近すぎ」
アルヴァーロは後ろに下がった。もう一度、ルチアーノは接近して殴りかかるが、今度は届かない。
「………今度は遠すぎ」
もう一歩、踏み出して反対の手を振り抜くと、天地がひっくり返った。遅れて背中に痛みが走る。
「っ……」
「あっ、わり、良いとこ来たから反射的に……やっ、ごめん大丈夫か⁈」
上からアルヴァーロが慌てた様子で覗き込んで来る。背中にあたる地面が冷たい。手を差し出され、助け起こされる。パタパタとアルヴァーロが背中を叩いて土と草を落とす。
「………なんかこう……アルヴァーロさんって時々すごく子供扱いして来ませんか……」
「ん? ……あぁ……俺子供がいるから」
「えっ」
父親みたいだと思っていたが、本当に父親だったとは。
「家族は……このこと」
「知らないよ。うちの使用人しか」
使用人。本当に金持ちなんだとその言葉でルチアーノは思う。それにしても、家族にも秘密だなんて。
「……お子さんはいくつなんですか?」
「6つと4つ。可愛いんだよ、ほんと俺に似ててさー」
随分自分より小さいじゃないか、とルチアーノは思うが、その綻んだ顔を見ているとなんだか自分の顔も綻びそうだった。
「写真、見るか?」
「あるんですか」
「おう、ほら」
コートの内ポケットから、アルヴァーロは一枚の写真を出す。そこには笑顔のアルヴァーロと、隣には綺麗な女の人が一人、その前には幼い少年が二人、仄かな笑みを浮かべて写っている。二人とも、白い髪に紫の瞳。アルヴァーロと同じだった。
「……ほんとだ。似てますね」
「だろー? はは。ほんと、あぁ顔見たら帰りたくなって来たな……」
寂しそうな顔をするアルヴァーロ。その顔を見ると、ルチアーノは胸のどこかがチクリとした。
「ま、今はやることがある。お前のことも鍛えてやらなきゃ」
アルヴァーロは写真を懐に大事にしまう。一つ分かったことがある。この人は親バカだ。
「とりあえず……今夜はひとつ仕事に出よう。今日のところは予定通り見学」
「……邪魔になりませんか、俺」
「お前一人いたってならないよ。……今日は片目隠して行こう。うん、顔隠れるしその方がいい」
「何でですか! 遊びじゃないんですよ⁈」
「今ので大体感覚は掴んだ。問題ない」
「えぇ……」
「それにほら」
アルヴァーロはルチアーノの顔を指差してにこりと笑った。
「カッコいいだろ?」
「………はぁ」
ため息のような返事のような、そんな声が出た。
#2 END